たぶん、の話である。
見えないものの話であるから少し怪しいかもしれぬ。
怪しいと思ったらこれ以上進まないほうがいい。
座禅の奥羲は、呼吸である。
気功の奥羲も、ただ立っているだけ。息をしているだけである。両手で抱える姿勢をとるのもその延長である。
次に、両手の前後のぶらぶらであったりする。
つかみたいのは呼吸であると同時に、無意識の細胞単位の変革である。
腹式呼吸をただ単純にひたすらに繰り返す座禅。
セノトリンをだしながらα波状態へ。
そのように、ひたすら繰り返し、書く書道。
気に入るまで、同じところを何枚も何枚も書いていることも日常の書の風景。
そして墨磨りである。
墨磨りは、書く前に精神を集中させて……などというなかで、前近代的と捉えられた面もあるが、その書の古臭さの印象は、新たに素晴らしい文化であることと捉え直さなくてはならない。
私は教える時は基本的に墨を磨らせる。
そこは墨色が無限の色調であったり、筆とのタッチが変わったり、紙との相性を肌で覚えるのにはもってこいであるからでもある。
たぶん、の話であった。
ちなみに私は、状況に応じて、時に墨汁、たまに墨磨り機も使っているのが正直なところであるけれど。
バカにされがちな、単純にひたすら繰り返すことの美しさ。
そこここにあるだろう。
書では、大きめな硯に水を数滴ずつ、まず体全体を使って力を入れず墨を磨りつづけ、ゆっくり深い呼吸と一体になってみることのすすめである。
見えないものの話であるから少し怪しいかもしれぬ。
怪しいと思ったらこれ以上進まないほうがいい。
座禅の奥羲は、呼吸である。
気功の奥羲も、ただ立っているだけ。息をしているだけである。両手で抱える姿勢をとるのもその延長である。
次に、両手の前後のぶらぶらであったりする。
つかみたいのは呼吸であると同時に、無意識の細胞単位の変革である。
腹式呼吸をただ単純にひたすらに繰り返す座禅。
セノトリンをだしながらα波状態へ。
そのように、ひたすら繰り返し、書く書道。
気に入るまで、同じところを何枚も何枚も書いていることも日常の書の風景。
そして墨磨りである。
墨磨りは、書く前に精神を集中させて……などというなかで、前近代的と捉えられた面もあるが、その書の古臭さの印象は、新たに素晴らしい文化であることと捉え直さなくてはならない。
私は教える時は基本的に墨を磨らせる。
そこは墨色が無限の色調であったり、筆とのタッチが変わったり、紙との相性を肌で覚えるのにはもってこいであるからでもある。
たぶん、の話であった。
ちなみに私は、状況に応じて、時に墨汁、たまに墨磨り機も使っているのが正直なところであるけれど。
バカにされがちな、単純にひたすら繰り返すことの美しさ。
そこここにあるだろう。
書では、大きめな硯に水を数滴ずつ、まず体全体を使って力を入れず墨を磨りつづけ、ゆっくり深い呼吸と一体になってみることのすすめである。
心から大きく変わるということは有り得ますか?
やはりそれも継続し続けることでしょうか・
たぶんである。
北京にいる時、朝六時から公園にいってただ立っているだけ、の練功をしていた時期あり。ただ、結果はなにを得られたかわからない。
その後、少しずついろんなことに接してきて確信できることは、人間は頭で考えてしまうことの多さ。赤ちゃんのように自然に存在できれば。
呼吸を私は大事に考えています。リラックスの状態を常に保ちたい。
でも、その方法は、無理しないことじゃないでしょうか。はじめは大きく深呼吸。意識は丹田に、程度でいいんじゃないでしょうか。
あらためて深呼吸の気持ちよさが体感できたら、自然に。
座禅も無理して呼吸してませんよね。自然に、ゆっくり吸って、尚ゆっくり吐く。
一日ワークショップで、磨って書いて磨って書いてを一日繰り返す。
時に何も考えないで墨を磨っている状態になっている方がでます。見てても気持ち良くなります。たとえ、いい字が書けなくてもその瞬間が尊いと思えるほど。
急に変わることはないと思います。習慣じゃないでしょうか。
これは技法とちょっと違う。
「書とうまくかかわれば健康になる。私は悪いとこばっかりですが」といってます。苦し紛れに「書聖王羲之も悪いとこばっかりだったようだ」と付け加えて。
何も考えない方がいい時があるようです。
自然に身を委ねることができれば。
たぶんの話しⅡでした。
陽を浴びて、にこっとして、鼻から息を静かにすって、口から全身の息を出し切る。それを数回繰り返してみてはいかがですか。
気持ちいい程度でいいんじゃないでしょうか。
いい環境を作ることが大事なんでないでしょうか。
その気になって変わっていくきっかけをつかむ事もありますよね。
できるかどうかは?ですが、
よく見つめ直してみたいと思います。