その日は全く何をする気にもならなかった。静まり返った家の中で、何をするでもなくベランダに出てみたり、物置状態のかつての自分の部屋にはいってみたり、本棚の中の埃臭い小説を引っ張り出してみたり、留守番の猫のようにうろうろしていた。そのうちに眠たくなり、母親のベッド(自分の布団は押入れの中だった)にもぐりこんだ。そういえば、昨夜はほとんど寝ていない。牧子はスイッチが切れたように眠り込んだ。夢も見なかった・・・。
三時過ぎに母が帰宅したようだがそれすら気付かず、夜になって母にたたき起こされた。
「あんたね、泊まるのはいいけど人の布団で寝る気?自分の布団くらい出しなさいよ、まったく。」
ずけずけと言われる。傷心の娘に向かって酷い母だ・・・と牧子はぶつぶつ文句をいいながら、ベッドからでた。居間に布団が既に出してあった。
「あんたの部屋、物置になってるからここで寝なさい。居座る気なら自分で部屋かたづけてね。」
「はいはい・・・。」
そう言いながら夕食も既に用意されていた。母なりに牧子を気遣ってくれているのだと思うと嬉しかった。
家は居心地が良かった。一人で食べる食事の味気なさやテレビの音の寒々しさに自分の感覚が慣れてしまっていたことに改めて気付く。母と過ごす時間が少しずつ牧子の心をほぐしていくような気がした。
翌日もまるまる一日ごろごろしながら過ごした。母が出かけた後はふらふらと近所を散歩した。もう何年も近所を散策するような機会はなかった。
就職を機に始めた一人暮らしだ。十年はゆうに超えている。それに、よくよく考えたら一年以上帰省していなかった。そんなに遠くに住んでる訳でもないのに、母とは月に一度電話で話す程度だ。今の自分のように母は寂しいと思っていたのだろうか。
「一人暮らし、寂しい?」
牧子は夕食の支度を手伝いながら母に聞いてみた。何を今さら、と母は笑った。
「最初は寂しかったわよ。話す相手もなし、ご飯を作ってもおいしいともまずいとも誰が言う訳でもなし。まずいって言われたら腹が立つけど、怒る事もなし。でもすぐ慣れたよ。だって、牧子がどこで何をしていようが、私の娘であることにかわりないからね。行方不明になったとか、死んでしまったっていうのは別だけど、住んでるところも働いてる会社もわかってるんだから。どこかで繋がってるってわかってれば、問題ないんじゃないの?」
「・・・あっさり言ってくれるじゃないですか。」
牧子は苦笑いしながら、母の言葉を心の中で反芻した。自分の探している答えそのもののような気がした。
翌日は雨が降った。冷たい雨だった。母は日曜でまして雨にも関わらず仕事だと言い、バタバタと準備をしていた。
「お母さん、私今日帰るわ。」
「そう。当分居ててもいいのよ。ご飯作ってくれれば。」
「私が作ったら駄目ダシばかりするくせに。・・・仕事、そうそうサボれないしね。気分的にもちょっと落ち着いたし。」
「そう。」
牧子も母もそれ以上何も言わなかった。
母が出かけた後、牧子は家の中を片付けた。布団を干したいが生憎の雨だ。たたんで居間に置いておくことにした。落ち着いた、などと母には言ったがもしかしたらすぐにまた帰ってきてしまうかもしれない。
バッグ一つで帰ってきたので荷物らしい荷物はない。母が帰ってきたらすぐに帰ろう。そう思った。
三時を過ぎても母は帰らなかった。あまり遅くなっても明日がつらい。そろそろ帰らなくてはならない時間だった。母の携帯に電話をしようかと思った時だった。
家の電話が鳴った。一瞬躊躇した後、ゆっくりと受話器をとった。
「はい、岩崎です。」
「あ、岩崎さんの娘さん?」
電話の向こうから甲高い女性の声が聞こえた。知らない声だ。
「はい。失礼ですが?」
「私、柏木と言います。『まんぷく亭』の。えっと、岩崎さんの職場の同僚です。」
母のパート先の人らしかった。随分慌ただしい声だ。
「すみません、母はまだ帰ってないんです。もう帰ってくるとは思うんですけど。」
「そのお母さんなんですけどね、仕事の途中で事故ったらしくて。」
「え?」
「今会社に連絡が来たとこなんですよ。単車で宅配してるんですけど、どうも車とやっちゃったらしくて。警察から連絡が来てね、今、会社の者が病院に向かったんです。で、娘さんが帰省してるって、昨日聞いてたから連絡をと思って。」
「どこの病院なんですか?!」
牧子は病院の名前と電話番号をその辺の紙に慌てて書きとめた。
「すぐに行きます。どうもありがとうございました。」
電話を切ると急に震えが襲ってきた。その場に思わずしゃがみこむ。落ち着け、落ち着け。次に何をしたらいい?自分自身に声をかける。
電話台の扉を開け、黄色の分厚い電話帳を出す。聞いた病院の名前を探し、住所を調べた。その住所を控え、今度はタクシー会社を捜す。
何度も深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、慎重にタクシー会社の番号を押した。指がプルプルと震えていた。タクシーは十五分ほどかかるとの事だった。牧子は椅子に座り込んだ。悪い考えばかりが頭に浮かぶ。それを必死で振り払いながら、しなければならない事を考える。
「そうだ、保健証・・・。」
母が貴重品をしまっているはずの仏間へ走る。仏壇の引き出しを開け、母の保健証を探し出し、バッグに入れた。
家の表に出ると、そわそわとタクシーの到着を待った。ちょうど十五分でタクシーがやってきた。それに飛び乗った。
病院までは二十分ほどの道のりだったが、これほど長く感じた二十分は今まで無かったろう。牧子は蒼白な顔で窓の外を見つめた。
病院に着くと受付にかけこむ。
「すみません、先ほど救急で運ばれたと思うんですけど、岩崎です。」
受付嬢は電話で確認を取る。
「岩崎法子様ですね。整形外科病棟にいらっしゃいますので、そちらの詰め所でお待ちください。」
牧子は小走りに外科病棟に向かった。詰め所に駆け込み、さっきと同じセリフを近くでカルテを書いていた看護師に言った。
「あぁ、岩崎さんですね。えーっと、ご家族ですか?じゃ、こちらへ。」
看護師は牧子を病室に案内した。
「鎖骨と足と骨折してますけど、大丈夫、命に別状はありませんから。」
病室の扉をそっと開け、中を覗き込む。
「岩崎さーん、ご家族ですよ。いい?」
牧子は中に入った。
ベッドに病衣に着替えた母が横たわっていた。牧子の姿を見て右手を上げた。頬に貼られた大きなガーゼが痛々しいが、思った以上に元気だ。
「何やってんのよ・・・。」
牧子は椅子に座りながら、つぶやくように言った。涙声だった。
「交差点でさ、右折の車にぶつけられたのよ。携帯しながら曲がってくるんだもの。ひどいよねぇ。死ぬかと思った。」
かすれた声ではあったが、ぶつぶつと文句をたれる。これだけ文句が言えたら心配はなさそうだった。一気に緊張が解け、牧子は布団の上に突っ伏した。
しばらくしてから主治医がやってきて怪我の状態の説明をしていった。全治三ヶ月程度と告げられた。左の脛骨(すね)の骨折はギプス固定、左の鎖骨の骨折は明日手術をするそうだ。手術の内容について詳しく説明をされたが、牧子の頭には入ってこなかった。
「牧子、明日着替えとか入院にいる物、持ってきてくれる?・・・せっかく帰るつもりしてたのに、悪いわね。」
母の言葉に無言で肩をすくめた。
消灯になり、牧子は病院を後にした。行きと同様にタクシーで家に辿りつくと、急に疲れを感じた。コーヒーを作り、椅子に倒れこむように座る。頭は痺れたように真っ白で何も考えられなかった。マグカップを両手で包み込みゆっくりと熱い液体を口に流し込む。味もわからなかった。
「・・・どうしよう、連絡。」
何も考えていなかったはずだが、いつのまにか雅博にこの事をどう連絡すべきか考えていたらしい。無意識に口をついて出た言葉に、改めて考えた。明日が手術だから、少なくとも一週間は入院するだろう。その後も一人放っておいてよいものかどうか。鎖骨を折るという事がどれくらい不自由なものかいまひとつピンと来ないというのが正直なところだが、それに加えて足にギプスをはめている。思い通りに動ける訳はない。いつ帰宅できるか思いつかなかった。
「どうしたものか・・・。」
バッグを開け、携帯電話を取り出した。バッテリーが切れかけていた。家を飛び出してから三日充電していないのだから当たり前だ。メールにしても通話にしても途中で切れてしまうかもしれない。
牧子は時計を見た。時計は十時を指していた。夜の公演が終わってまだばたばたしている頃だろう。連絡したところで繋がることはない。
バッグから手帳を出し、余白に携帯のアドレス帳からいくつかの電話番号を控えた。翔子、自分の会社、そして雅博のマネージャーの携帯番号。雅博の番号は頭に入っているので写す必要はない。
その手帳を手に、固定電話の受話器を取る。牧子はしばらく考えてからマネージャーの電話番号を押した。
長く呼び出し音が続き、ようやく中年の男が電話に出た。
「もしもし?」
「博多さんですか?・・・岩崎です。」
「あ、牧・・・ちょ、ちょっと待って。」
電話の向こうでガサガサとせわしく移動している気配がした。
「ごめんごめん、ちょっとざわざわしてたもんだから。」
「夜の部、終わったとこですか?」
「うん。アイツまだ楽屋に戻ってないよ。・・・牧ちゃん、家出したって?心配してたよ。」
「えぇ、まぁ。」
牧子はばつが悪くなって、言葉を濁した。
「それはそれとして、あの、報告しておきたいことが・・・。」
「なに?なに?怖いなぁ。」
博多の声が笑っていた。
「いえ、その、今実家にいるんですけど。実家の母が入院しちゃったんです。事故っちゃって。・・・で、しばらく帰れないので。」
「事故?!大丈夫なの?」
「えぇ、骨折して。明日手術ですけど、命がどうこうとか、そういうのではないので。」
「そうかぁ。・・・連絡は取っていいんかい?」
「それが、携帯のバッテリーが切れそうなんで。これ実家からなんです。」
「OK。この電話番号、一応登録させてもらうよ。ここで牧ちゃんに連絡とれるの?」
「はい。でも日中は病院なので。・・・一応、病院の番号、いいですか?」
牧子は病院の名前と電話番号を博多に告げた。
「もし急な用事が出来たら、整形外科につないでもらってください。・・・でも、あの、雅博には伝えなくても結構です。公演中だし、余計な心配かけるのもなんだし。一応、という事で。」
博多が雅博に伝言したからと言って、彼が連絡を取ろうと思うかどうかはわからない。なんといっても喧嘩(それも一方的に牧子の側に非があると自分でも思う)の後である。それに加えて公演の最中だ。雅博の頭は芝居の事で一杯だ。
博多に丁重に礼をいい、電話を切った。受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。細い糸をぷつりと自分の手で切ってしまったような、そんな気がした。このまま波にさらわれて沖に流されていくように、どんどん遠ざかっていってしまうのかもしれない。
「・・・なるようにしか、ならないよ。」
自分にそう言い聞かせるしか出来なかった。
(⑤に続く)
三時過ぎに母が帰宅したようだがそれすら気付かず、夜になって母にたたき起こされた。
「あんたね、泊まるのはいいけど人の布団で寝る気?自分の布団くらい出しなさいよ、まったく。」
ずけずけと言われる。傷心の娘に向かって酷い母だ・・・と牧子はぶつぶつ文句をいいながら、ベッドからでた。居間に布団が既に出してあった。
「あんたの部屋、物置になってるからここで寝なさい。居座る気なら自分で部屋かたづけてね。」
「はいはい・・・。」
そう言いながら夕食も既に用意されていた。母なりに牧子を気遣ってくれているのだと思うと嬉しかった。
家は居心地が良かった。一人で食べる食事の味気なさやテレビの音の寒々しさに自分の感覚が慣れてしまっていたことに改めて気付く。母と過ごす時間が少しずつ牧子の心をほぐしていくような気がした。
翌日もまるまる一日ごろごろしながら過ごした。母が出かけた後はふらふらと近所を散歩した。もう何年も近所を散策するような機会はなかった。
就職を機に始めた一人暮らしだ。十年はゆうに超えている。それに、よくよく考えたら一年以上帰省していなかった。そんなに遠くに住んでる訳でもないのに、母とは月に一度電話で話す程度だ。今の自分のように母は寂しいと思っていたのだろうか。
「一人暮らし、寂しい?」
牧子は夕食の支度を手伝いながら母に聞いてみた。何を今さら、と母は笑った。
「最初は寂しかったわよ。話す相手もなし、ご飯を作ってもおいしいともまずいとも誰が言う訳でもなし。まずいって言われたら腹が立つけど、怒る事もなし。でもすぐ慣れたよ。だって、牧子がどこで何をしていようが、私の娘であることにかわりないからね。行方不明になったとか、死んでしまったっていうのは別だけど、住んでるところも働いてる会社もわかってるんだから。どこかで繋がってるってわかってれば、問題ないんじゃないの?」
「・・・あっさり言ってくれるじゃないですか。」
牧子は苦笑いしながら、母の言葉を心の中で反芻した。自分の探している答えそのもののような気がした。
翌日は雨が降った。冷たい雨だった。母は日曜でまして雨にも関わらず仕事だと言い、バタバタと準備をしていた。
「お母さん、私今日帰るわ。」
「そう。当分居ててもいいのよ。ご飯作ってくれれば。」
「私が作ったら駄目ダシばかりするくせに。・・・仕事、そうそうサボれないしね。気分的にもちょっと落ち着いたし。」
「そう。」
牧子も母もそれ以上何も言わなかった。
母が出かけた後、牧子は家の中を片付けた。布団を干したいが生憎の雨だ。たたんで居間に置いておくことにした。落ち着いた、などと母には言ったがもしかしたらすぐにまた帰ってきてしまうかもしれない。
バッグ一つで帰ってきたので荷物らしい荷物はない。母が帰ってきたらすぐに帰ろう。そう思った。
三時を過ぎても母は帰らなかった。あまり遅くなっても明日がつらい。そろそろ帰らなくてはならない時間だった。母の携帯に電話をしようかと思った時だった。
家の電話が鳴った。一瞬躊躇した後、ゆっくりと受話器をとった。
「はい、岩崎です。」
「あ、岩崎さんの娘さん?」
電話の向こうから甲高い女性の声が聞こえた。知らない声だ。
「はい。失礼ですが?」
「私、柏木と言います。『まんぷく亭』の。えっと、岩崎さんの職場の同僚です。」
母のパート先の人らしかった。随分慌ただしい声だ。
「すみません、母はまだ帰ってないんです。もう帰ってくるとは思うんですけど。」
「そのお母さんなんですけどね、仕事の途中で事故ったらしくて。」
「え?」
「今会社に連絡が来たとこなんですよ。単車で宅配してるんですけど、どうも車とやっちゃったらしくて。警察から連絡が来てね、今、会社の者が病院に向かったんです。で、娘さんが帰省してるって、昨日聞いてたから連絡をと思って。」
「どこの病院なんですか?!」
牧子は病院の名前と電話番号をその辺の紙に慌てて書きとめた。
「すぐに行きます。どうもありがとうございました。」
電話を切ると急に震えが襲ってきた。その場に思わずしゃがみこむ。落ち着け、落ち着け。次に何をしたらいい?自分自身に声をかける。
電話台の扉を開け、黄色の分厚い電話帳を出す。聞いた病院の名前を探し、住所を調べた。その住所を控え、今度はタクシー会社を捜す。
何度も深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、慎重にタクシー会社の番号を押した。指がプルプルと震えていた。タクシーは十五分ほどかかるとの事だった。牧子は椅子に座り込んだ。悪い考えばかりが頭に浮かぶ。それを必死で振り払いながら、しなければならない事を考える。
「そうだ、保健証・・・。」
母が貴重品をしまっているはずの仏間へ走る。仏壇の引き出しを開け、母の保健証を探し出し、バッグに入れた。
家の表に出ると、そわそわとタクシーの到着を待った。ちょうど十五分でタクシーがやってきた。それに飛び乗った。
病院までは二十分ほどの道のりだったが、これほど長く感じた二十分は今まで無かったろう。牧子は蒼白な顔で窓の外を見つめた。
病院に着くと受付にかけこむ。
「すみません、先ほど救急で運ばれたと思うんですけど、岩崎です。」
受付嬢は電話で確認を取る。
「岩崎法子様ですね。整形外科病棟にいらっしゃいますので、そちらの詰め所でお待ちください。」
牧子は小走りに外科病棟に向かった。詰め所に駆け込み、さっきと同じセリフを近くでカルテを書いていた看護師に言った。
「あぁ、岩崎さんですね。えーっと、ご家族ですか?じゃ、こちらへ。」
看護師は牧子を病室に案内した。
「鎖骨と足と骨折してますけど、大丈夫、命に別状はありませんから。」
病室の扉をそっと開け、中を覗き込む。
「岩崎さーん、ご家族ですよ。いい?」
牧子は中に入った。
ベッドに病衣に着替えた母が横たわっていた。牧子の姿を見て右手を上げた。頬に貼られた大きなガーゼが痛々しいが、思った以上に元気だ。
「何やってんのよ・・・。」
牧子は椅子に座りながら、つぶやくように言った。涙声だった。
「交差点でさ、右折の車にぶつけられたのよ。携帯しながら曲がってくるんだもの。ひどいよねぇ。死ぬかと思った。」
かすれた声ではあったが、ぶつぶつと文句をたれる。これだけ文句が言えたら心配はなさそうだった。一気に緊張が解け、牧子は布団の上に突っ伏した。
しばらくしてから主治医がやってきて怪我の状態の説明をしていった。全治三ヶ月程度と告げられた。左の脛骨(すね)の骨折はギプス固定、左の鎖骨の骨折は明日手術をするそうだ。手術の内容について詳しく説明をされたが、牧子の頭には入ってこなかった。
「牧子、明日着替えとか入院にいる物、持ってきてくれる?・・・せっかく帰るつもりしてたのに、悪いわね。」
母の言葉に無言で肩をすくめた。
消灯になり、牧子は病院を後にした。行きと同様にタクシーで家に辿りつくと、急に疲れを感じた。コーヒーを作り、椅子に倒れこむように座る。頭は痺れたように真っ白で何も考えられなかった。マグカップを両手で包み込みゆっくりと熱い液体を口に流し込む。味もわからなかった。
「・・・どうしよう、連絡。」
何も考えていなかったはずだが、いつのまにか雅博にこの事をどう連絡すべきか考えていたらしい。無意識に口をついて出た言葉に、改めて考えた。明日が手術だから、少なくとも一週間は入院するだろう。その後も一人放っておいてよいものかどうか。鎖骨を折るという事がどれくらい不自由なものかいまひとつピンと来ないというのが正直なところだが、それに加えて足にギプスをはめている。思い通りに動ける訳はない。いつ帰宅できるか思いつかなかった。
「どうしたものか・・・。」
バッグを開け、携帯電話を取り出した。バッテリーが切れかけていた。家を飛び出してから三日充電していないのだから当たり前だ。メールにしても通話にしても途中で切れてしまうかもしれない。
牧子は時計を見た。時計は十時を指していた。夜の公演が終わってまだばたばたしている頃だろう。連絡したところで繋がることはない。
バッグから手帳を出し、余白に携帯のアドレス帳からいくつかの電話番号を控えた。翔子、自分の会社、そして雅博のマネージャーの携帯番号。雅博の番号は頭に入っているので写す必要はない。
その手帳を手に、固定電話の受話器を取る。牧子はしばらく考えてからマネージャーの電話番号を押した。
長く呼び出し音が続き、ようやく中年の男が電話に出た。
「もしもし?」
「博多さんですか?・・・岩崎です。」
「あ、牧・・・ちょ、ちょっと待って。」
電話の向こうでガサガサとせわしく移動している気配がした。
「ごめんごめん、ちょっとざわざわしてたもんだから。」
「夜の部、終わったとこですか?」
「うん。アイツまだ楽屋に戻ってないよ。・・・牧ちゃん、家出したって?心配してたよ。」
「えぇ、まぁ。」
牧子はばつが悪くなって、言葉を濁した。
「それはそれとして、あの、報告しておきたいことが・・・。」
「なに?なに?怖いなぁ。」
博多の声が笑っていた。
「いえ、その、今実家にいるんですけど。実家の母が入院しちゃったんです。事故っちゃって。・・・で、しばらく帰れないので。」
「事故?!大丈夫なの?」
「えぇ、骨折して。明日手術ですけど、命がどうこうとか、そういうのではないので。」
「そうかぁ。・・・連絡は取っていいんかい?」
「それが、携帯のバッテリーが切れそうなんで。これ実家からなんです。」
「OK。この電話番号、一応登録させてもらうよ。ここで牧ちゃんに連絡とれるの?」
「はい。でも日中は病院なので。・・・一応、病院の番号、いいですか?」
牧子は病院の名前と電話番号を博多に告げた。
「もし急な用事が出来たら、整形外科につないでもらってください。・・・でも、あの、雅博には伝えなくても結構です。公演中だし、余計な心配かけるのもなんだし。一応、という事で。」
博多が雅博に伝言したからと言って、彼が連絡を取ろうと思うかどうかはわからない。なんといっても喧嘩(それも一方的に牧子の側に非があると自分でも思う)の後である。それに加えて公演の最中だ。雅博の頭は芝居の事で一杯だ。
博多に丁重に礼をいい、電話を切った。受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。細い糸をぷつりと自分の手で切ってしまったような、そんな気がした。このまま波にさらわれて沖に流されていくように、どんどん遠ざかっていってしまうのかもしれない。
「・・・なるようにしか、ならないよ。」
自分にそう言い聞かせるしか出来なかった。
(⑤に続く)
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