丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

最高の死

2011年06月06日 | 医療・介護・健康
 仕事柄、どうしても人生の終末と関わる機会が多い。というか、ここ五年くらいは利用者さんとの別れのほぼ100%が寿命が尽きる時という状態。この半年もまた、何人かの利用者さんを送った。そしてまだかなり天国と近い場所で順番を待っている利用者さん達が数人。

 本当にいろんな最期があると思う。誰一人として同じ死に方はない。「ここまで頑張って、このまま死んじゃうってどうよ?」と思う事もあるし、「……いいなぁ、こんな最期を迎えられたら幸せだろうな」と思う事もある。もっとも当の本人がどんな気持ちでその瞬間を迎えていらっしゃるのかは永遠に不明だけれど……。

 以前も書いた事があるが、死に際とは生きざまそのものだと思う。どう生きたかが死にざまに反映される。それはこの仕事に十年以上関わってみて、もはや確信に近いものがある。ただ、不幸な惨めな最期を迎える人に「なんやかんや言っても、あんたは負け組じゃん」とは絶対に言えない。それほど人生は単純ではないという事も最近はしみじみ感じさせられる。

 この世の中には自分の努力だけではどうしようもない試練や困難が必ずある。人生の最期の最期に、ちらっとそんな気配がその人の中に見える時、なんとももの哀しい気持ちになるのだ。神様は乗り越えられない試練は与えられない。与えた試練には必ず脱出するための出口を用意してくださっている。確かにそうなのだが、その出口を見つけられない人が残念ながらいるのだ。そしてその困難を何十年と引きずって生き、そして最期を迎える。どうにかならんかったんかいな……と、あくまで第三者の私なんぞは生き場のないもの哀しさを感じながらそれを黙って見送るしか出来ない。そこには世間で言うところの「勝ち組」「負け組」などという尺度は関係ない。

 これからもうしばらく生きて、否、生かされて、人生の使命を終えて最期を迎える時に、自分はどんな事を思いながら逝くのだろうか。どうしようもない試練や困難も含めて、自分の人生の全てを受け入れて納得して、信じる神様の元へと旅立てれば最高だと思うが……。

 メメント・モリ……。最高の死のために生きている間にするべきこと、それを模索するというのもまた人生……ですかね。


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