幼い頃から母がお芝居や映画に連れて行ってくれました。劇団四季のミュージカルや歌舞伎を見るために、地元仙台から東京に出かけたこともあります。子供には難しい作品もありましたが、意味がわからなくても、触れることが大切だと、母は考えていたようです。
印象深かったのはピーターパン。空を飛ぶ場面を見ながら、私も舞台で歌ったり、踊ったりしてみたいと思いました。地元で開催された「赤毛のアン」のミュージカルに応募し、子役で踊ったこともあります。とにかく楽しくて本格的に勉強したいと思うようになり、10歳の時に小さなミュージカルスクールに入りました。
まわりが見えないくらい夢中になり、発表会の前は台本を手放しませんでした。学校の朝の読書の時間には、同級生が小説や本を読む中で、ひとりだけ台本を読んでいました。歌うことも踊ることも好きだったので、すごく楽しかったです。小学6年生で、将来はブロードウェーの舞台に立つという夢がはっきりしました。
その頃、たまたまAKB48のオーディション告知を目にしました。アイドルに特別な関心があったわけではありませんが、どんな女の子が受けに来るのだろうと興味があって、応募しました。
審査は順調に進みました。それに連れて、AKB48で活動してみたい、という思いは強くなりました。その一方で、仙台から上京してアイドルになる。それでいいのか、自分は、と心は揺れていました。
最終審査を間近に控えた3月11日。体調を崩して学校を早退して帰りました。一人で自宅にいた2時46分。今まで体験したことのないような揺れに襲われました。
学校の防災訓練で、地震の揺れを体験するトラックに乗った経験はありましたが、それ以上の揺れに驚きました。それでも落ち着いてすぐに家を出ました。少し経って「ストーブを消してなかった」と気がついて、いったん家に戻ると、タンスや家具が倒れて、足の踏み場もありませんでした。「すぐに家を出なかったら、どうなっていたんだろう」。死に対する恐怖を間近に感じ、ゾッとしました。
自宅に戻ってきた父の車でその夜はすごしました。母とは連絡がとれず、すごく不安でした。コンビニの食べ物がなくなり、違う世界に来てしまったようで、私が知っている仙台市はどこにもありませんでした。非常食のインスタント食品をお湯を使わずに食べて、食いつなぎました。
AKB48の最終審査は延期されましたが、受ける状況ではない、と思いました。母は「あきらめると後悔する。AKB48に入ることで、被災した人々にできることがあるはず」と言いました。確かに、岩田華怜としてできることは限られるけど、AKB48なら、一人ではできないこともできるかもしれない、と心を動かされました。AKB48が被災地を支援する「誰かのためにプロジェクト」を始めたのも決意を促しました。
それでも後ろ髪を引かれる思いが残り、逃げるわけではないけど、罪悪感を抱きながら故郷を後にしました。「結果を残すまでは帰れない」。震災後、安否がわからなかったミュージカルスクールの友達の無事がわかり電話をしました。津波で家が流され、仮設住宅に暮らしていました。「きっと仙台に戻るから、AKB48のメンバーも連れて行くから」と伝えると、友人が「待ってるね」と言ってくれたのを覚えています。
AKB48では、研究生の頃から選抜メンバーとしてチャンスをいただきました。だけど、インターネットでは、被災地出身だから特別扱いされているという声もありました。中学1年生の私にはこたえましたが、逆に意地にもなって、「必ず故郷に貢献する」「絶対に夢をかなえる」と頑張ってきたので、その言葉にも感謝しています。
震災から1年後、被災地訪問で宮城県に行きました。渡辺麻友さんや板野友美さんたち先輩も一緒です。会場は通ったミュージカルスクールのある街でした。友人たちは「華怜 おかえり!」の横断幕で迎えてくれました。帰ってくると友人も見に来てくれていました。
子供の頃、私はいつも男の子と野山をかけめぐって遊ぶ野生児のような女の子でした。だから、同級生の男の子らから「あの華怜がアイドル?」と笑われると思い、恥ずかしかったのですが、「最初は笑ってやろうと思ったけど、華怜が本当に頑張っているから応援したくなった」と言ってくれました。電話をした友達の女の子も来てくれていました。対面したとき私が泣くと、彼女も泣きました。
みんながこんなに応援してくれているのに、なぜ、罪悪感に悩んでいたんだろう。そんな気持ちは捨てて、AKB48のメンバーとして堂々と故郷に帰ろう、と思えるようになりました。
決意を秘めて活動を始めたAKB48。最初の頃は自分らしさを封印しました。郷にいれば郷に従う、アイドルはアイドルらしくしなくては、と思って行動しました。
髪を伸ばして、服装はワンピース。SNSでは小文字や顔文字を多用して、「明日はママとかわいいお洋服を買いに行きます」というふうな投稿をしていました。写真撮影でも、カメラマンさんのリクエストに合わせて、かわいいポーズをとりました。先輩たちが自撮りをたくさんしていたので、私もしなくちゃと、まねしました。
8年間、バレエを習っていたので、外股が身についていましたが、アイドルなので内股にしました。飾っている部分があって、苦しい気持ちもありました。
そんな努力をしていたものの、2012年6月、初めての選抜総選挙では圏外。同期の田野優花ちゃんや武藤十夢ちゃんはランクイン。すごく悔しかったです。ただ、それを機会にスタンスを変えて、自分らしく、自分の好きなものを前面に出していこうと決めました。
メンバーたちからは「変だよ」と言われながらも、虎のリュックを背負うように。イチゴパフェではなくて豚足が大好き。マンガやアニメ好きもオープンにしました。バラエティー番組で、マンガの場面を読む企画があって「黒子のバスケ」をしました。試合シーンで、シューズの「キュッ」と言う音やボールがぶつかる「バコッ」「ドカッ」という音を表現すると、「こいつ、おもしろいぞ」と、その後、バラエティー番組から声をかけていただけるようになりました。三枚目は自分にしかできません。バラエティー番組は楽しくて好きです。自分の素を出すと、気持ちも楽になりました。番組を見て、ファンになって下さった方もいます。
いつも故郷のことが頭にあります。東北の方たちが、私の姿を見て笑ってくだされば、それも故郷のためと思っています。震災を風化させたくはありません。
震災以来、徐々にがれきが片付いたり、建物が新しくなったりしている様子を見ると安心します。ただ、実際に住んでいる方たちの傷は癒えていないし、人々の心の復興も大事なんだ、と思いながら被災地訪問ライブをしてきました。それでも復興が進み、今年の3月11日の訪問では、お客さんが笑顔で心から楽しんで下さっているのが伝わってきて、うれしかったです。
被災地訪問以外にも、NHKの「カレンの復興カレンダー」という番組で、東北の各地を訪問させていただいています。被災地の方たちは時折、つらい過去を思い出し、不安を抱えていても、前向きで強いです。私がお会いした中には、震災3日前に買ったばかりの家を流された方もいました。どんな気持ちでインタビューをすればいいのか、言葉を選べばいいのか。不安でしたが、「よく来てくれたね」と優しく迎えて下さり、インタビュー中もずっと笑顔でした。
「もう被災地と呼ばないで」とおっしゃる方も何人かいました。「大変だな」「かわいそうだな」ではなく、街や生活のために日々がんばっていることを知って、応援して欲しい、と考えておられるようです。
そんな人々の姿に私は勇気づけられます。東北は私の原点。帰るたびに初心に戻ります。自分の夢に向かって、死ぬ気でがんばろうと。
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次回は「乃木坂46日々是勉強」。齋藤飛鳥さんです。