daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

俳句の心を考える(続)

2014年09月07日 | 俳人 - 鑑賞

鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規

これは俳句の道を確立しつつあった正岡子規、33歳の句です。

正岡子規は「鶏頭の」の句で何を言いたかったのでしょうか。
俳句に関心を寄せられる方なら正岡子規に迫りたいでしょう。
でも「知りたい知りたい」と考えてるだけでは何も判らない。

俳句は、詠み手から読み手へ呼び掛ける詩とも考えられます。
読み手に上手に受け取って貰わなければ句作のし甲斐がない。
この句は詠む姿勢・気構えを教えた句であると受け取りたい。

私は、この「鶏頭」の句にそんな事を感じてならないのです。
一応、句の意味は「鶏頭の花が十四五本程も有ったよ」です。
そう述べたうえで、再応(言外に)次のごとく述べたのです。

俳句を志す人たち一般へ向けて
断言は出来ないけど、鶏頭は十四五本程も有ったに違いない。
ともあれ、景を正確に知るためには現場に足を運ぶことです。
庭に植わった花か、見舞いの花か、それは好きに想像してよ。
自分は病人であって、どうにもこうにも今は確認出来ません。

弟子たちへ向けては
鶏頭でないかも知れないし、十四五本ではないかも知れない。
句に読み込む題材(季題)は果たして鶏頭で好いのだろうか。
状態は? 咲いていたのか? 置いてあったのか? どこに?
数量は果たして十四五本で好いか、熟慮に熟慮を重ねなさい。

という事で次は“親書読み”です
見舞いの花束なら、十四五本は入れるのが良いだろうと思う。
見舞いの札束なら、私なら当然・十四五枚は入れる心算だよ。
そういう事で、○○君!よろしくお願いしたい。

この句にどのような反応が返ったか、それは存じませぬが…。


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