daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

選は創作なり

2014年09月07日 | 俳人 - 鑑賞

(編.2008.12.29)

このタイトルは虚子の「俳談」から引用したフレーズです。曰く、
「作者の意識しないでいることを私が解釈していることはある」と。
「作句」は創作ですけど「選」も創作であると虚子は述べたのです。

即ち「選」は俎上の素材「句」を「私」の料理に仕上げる作業です。
毎朝の食事にどうしても欠かせない味噌汁のような「素材」もある。
そうしてどうしても俎上に乗せたくない「素材」もあるに違いない。

次の句は多佳子に俳句のある暮らしの楽しさ・悦びを教えたのです。

・落椿投げて暖炉の火の上に   高浜虚子

この句は虚子の計画的な意図の下に詠まれた物だったのでしょうか。
それなら多佳子を虜にした虚子の計画は見事に当たったと云えます。
おもえば、正岡子規に事業家としての才能を見込まれた虚子でした。
虚子の事業家としての才能ゆえに「ホトトギス」を託したのでした。

この句に私は「多佳子の何気ない生活を言い得て妙」と感じました。
それなら多佳子は「この句に・何を・どう・感じた」のでしょうか。
この句にある「落椿」を暖炉に投げいれたのは多佳子その人でした。
己の何気ない動作を一瞬に詠まれて多佳子は俳句に安心感を覚えた。

多佳子も一瞬にこの句を俎上に乗せて新しい世界を創作したのです。
新しい世界に生きる己を見た気がして、多佳子は俳句に惹かれます。
俳句に誘った虚子のこの句は、多佳子には特別な思いで日々蘇える。
虚しさの日常を生き生き躍動する日常に変換できる魔法の十七文字。

眠れる森の美女ならぬ「眠れる多佳子姫」を目覚めさせた俳句の力。
鋭い多佳子の感性は現状に言い知れぬ不安と不満を抱えていたのか。
モノの命を感じさせない暮らしは人としての感性を蝕み朽ちさせる。
不自由ない暮らしに不満はないけど、多佳子の感性は生を悦び選ぶ。

すなわち、多佳子を崖っぷちで引留め・生還させた虚子のこの一句。
この日以降、多佳子の思い入れの強いこの句は折々に頭をもたげる。
恩師・高浜虚子を量るとき、この句がフィルターの役目を果たした。
俳句の初めの師・杉田久女を量るときもこの句をフィルターにした。

多佳子はそれ以外にも人を量る道具をいっぱい持っていたでしょう。
「俳壇」に載った次の二つのフレーズも有効なフィルターと云える。
それは昭和9年4月、久女がホトトギス同人になった年の言葉です。

(1) 新進作家が輩出して来る場合如何(いか)にしてこの新進作家
  の特色を発揮せしめて一人前の作家に進めることが出来るかと
  いうことに(虚子は)相当に意を注いで居る。

(2) 一生懸命にぶつかるということ。それは私(虚子)に限らない。
  誰でもいい。その人にぶつかるつもりで行くということがいい。

引用(1)(2)に、私は事業家・俳誌の責任者としての虚子を感じます。
俳人(己を含めて)と一線を画していた虚子の姿勢が感じられます。
それに比して多佳子や久女は純粋に俳句詠みとして生きようとした。
どちらかが間違いというような事ではなく、大事にした中身の違い。

事業家個々のフィルターがあり、詩人・個々人のフィルターがある。
多佳子には大事なフィルターも…虚子には虚子のフィルターがある。
フィルターは、使う人の一方的な価値観に副って使われるものです。
何れかのフィルターが強く働く時、別れが待っているように思える。

作句の姿勢を云えば、多佳子より久女の方が虚子に親しもうとした。
虚子に親しもうとして久女は虚子に疎んじられたとも言えるのです。
虚子の下にいる限り、門弟は虚子の影響を逃れられないと言えます。
それゆえ、久女こそホトトギスを真っ先に離脱すべきだったのです。

引用(1)(2)を、久女ほかに対する虚子の警告と読むのは穿ち過ぎか?
翌年の昭和10年、多佳子はホトトギスを自ら離脱して出ています。
その翌年の昭和11年、事業家・虚子は久女を除名処分にしている。
事業家を理解した多佳子は出て、理解できない久女は残ろうとした。

事業に関心がなかった多佳子は山口誓子と行動を共にする事になる。
多佳子は久女への恩を忘れなかったが、句詠みの姿勢は既に異なる。
真実に生きようとする多佳子を、久女はどのように感じたのだろう。
だが、ココは多佳子を知ろうとする場ゆえ、多佳子の目線を追おう。


【久女・考】

杉田久女はホトトギスを除名処分になった後も虚子の指導を守った。
引用※(2) の虚子の言葉を忠実に守って師に一生懸命にぶつかった。
師の言葉に忠実であろうとして逆に師に疎んぜられた久女の悲しみ。
まだまだ師に忠実になれていないと思い違いして、己を苛めたのか。

虚子に「ホトトギス」を追われた久女を誘う声も有ったといわれる。
詩人は自由な魂をもつ人ですし、組織や誰かに囚われる意味はない。
それゆえ「詩人」は一人立つ時を、覚悟して迎えなければならない。

事業家・虚子に久女を追い詰める考えはなく、メリットもなかった。


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