三つのカテゴリーを無くして「俳人 - 鑑賞」とした。絶対数が増えるとどうしても紛らわしい。なんのために私たちは形式を考えるのだろうか。機能よく工夫するのは何のためだろうか。効率よくしようとアレコレ考えてややこしくすることはないか?
集団があって初め自由にさせる乳児教育をほどこし・次いで幼児教育・続いて少年教育・青年教育・そして成人すると管理しようとする。管理したいのは人間に観られる特徴のようで、己を管理できるのをオトナといい、他人を管理したがるのを覇権思想という。
オトナは覇権思想に陥らず、覇権思想の者はオトナに成りきれないというところが悩ましく思えるならあなたは覇権思想の側にスタンスを置いていると断定しておこう。自分はオトナの積もりでオトナに成りきれない日本人を指して「日本人は精神年齢12才」と評された。
そのようなことを言う西洋人はそれならどうなんだ?それで西洋人をここで論じながら考えたい。アダムとイヴに始まった西洋人の意識・思考は主と自由に語る資格を与えられてきて、つまり自由な魂の人と位置づけたいが、そのレベルは年齢で云えば12才ぐらいだろうか。
自由な魂を育まれてきた12才の少年がキリストと考えたらどうだろう? 何ごとにも一所懸命で・真面目に思索し・正直に生きて・想いやりの心は厚く・なによりも主に真っ直ぐな純真なキリストの少年期、疑問にぶつかれば主に問い・間違いは追究し正そうとした少年だ。
後世のある人々は少年キリストを祝福された預言者と評価したかも知れないが、素直に観て彼は旧約の主に正直に生きたと言うしかなく、キリストのどこを観たら裏切り者と同列におけるのか、まったく以って私には納得できないキリストへの酷い仕打ちではないか?
キリストを裏切ったとされるユダが極悪人のレッテルを貼られたなら、旧約の主を捨てたならそれこそ極悪中の極悪であり、旧約を蔑ろにしたとされるキリストは新約の盟主とされて当然かも知れないが、私の友・キリストは主を捨てなかったという認識なのです。
ともあれこれは論理的思考のすえの私の疑問であるから、私の浅い考えだということが納得できたら私は幸せであり、主を正しく教えたあなたも祝福されるのは疑いない訳です。しかるに旧約は時代遅れと叫ぶだけならキーキー叫ぶだけのゾンビとどう違うだろうか?
己を管理できるのをオトナといい、他人を管理したがるのを覇権思想といって、オトナになれないゾンビは人を言い成りにするために祟るが、ゾンビにやられた人はゾンビ化して人を言い成りにするために祟ることで増殖をくり返すと知るのを哲学といい論理という。
旧約の主に正直に生きたキリストは死後に旧約を信じない者たちに祀り上げられてもそれはキリストの責任でなく、しかしキリストの心中を代弁すれば「おいおい、説明しなさいよ。私は主ともラビたちとも友とも親しく対話をしてみせたのは知ってるだろ?」‥。
旧約は隠れたかに見えて、キリストの魂はどこにも受継がれていないのだろうか?否いな、私の論理はそう導かれなくて、旧約の主を信じる者は主が人を信じたように彼もまた人を信じ・未来を信じ・対話を重視し・論理を重視したソクラテスがいるじゃないか。
ソクラテスは哲学者である前に詩心を大事にする詩人であったと結論づけるのはあなたにも難しくないと思うが如何だろうか? 今はもう旧約は忘れ去られていても哲学者や心ある人のなかに今も生きている「人を信じる心・人と対話する心」は旧約の主の伝統ではないか。
哲学者の特徴としては人を支配・管理しようとしないことも忘れてならないだろうな。哲学は主の世界に君臨しようとしないし、だれかを支配しようともしない。それはあの時代背景にあってキリストは女性の人権を守り、ソクラテスの妻は自由だっただろ?
旧約を信じないのはいいとして、あなたの人権意識はソクラテスに並ぶだろうか。
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