Windsurfing Hokkaido

北海道でのウインドサーフィン活動や旅行記などの日記

松島 「瑞巌寺」

2021-01-10 09:30:00 | 日記

2021年1月10日(日)

8時30分の参拝開場を待って

瑞巌寺(ずいがんじ)を参拝

国宝、庫裡(くり)

庫裡は、禅宗寺院の台所

国宝、本堂

以下、ウィキペディアより

瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。

9世紀初頭、比叡山延暦寺第3代座主・慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。

後には、平泉を拠点として東北一帯を支配した奥州藤原氏も延福寺を保護しました。

藤原氏の滅亡後は鎌倉幕府が庇護者となりましたが、13世紀中頃、幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。

これまでは、禅宗への宗派変更時に天台宗延福寺は滅亡し、新しく臨済宗円福寺が創建されたと考えられていました。

しかし、平成23年(2011)の発掘調査によって、円福寺の主要建物群は現在の瑞巌寺と同じ位置にあり、延福寺とは別の場所に建立されたことが判明しており、文献の再考からも、禅宗勢力と天台宗勢力は共に存在していたという考え方が現在は主流となっています。

室町時代になると、円福寺は地方の名刹を示す「諸山」の地位に位置づけられ、やがて「関東十刹」に昇進しました。隆盛を極めた円福寺ですが戦国時代を経て次第に衰退し、16世紀末には教線を全国に拡大中だった、現在の宗派である臨済宗妙心寺派に属します。

関ヶ原の戦い後、仙台に治府を定めた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも円福寺の復興には特に力を注いでおり、事業開始にあたり自ら縄張りを行なったこと、平安の昔から「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野に用材を求めたこと、畿内から名工130名を招き寄せたこと等に、政宗公の意気込みが感じられます。

その理由としては、

奥州藤原氏や鎌倉幕府が保護した歴史ある古刹を再興することにより、自分こそがこの地域における、精神的・政治的・文化的意識の継承者であると明示すること
古代以来「奥州の高野」と称される霊場松島に建立された円福寺を復興して善行を積み、自身の菩提寺とすることで浄土への往生を願った
ということが考えられます。また、松島は景観の素晴らしさと月の美しさから、古来より歌枕の地として有名でした。そのため、「松島の月」を堪能するという目的もあったかもしれません。
慶長13年(1608)に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文を見ることができます。これが「瑞巌寺」という呼称の初出で、以後、正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」としました。翌慶長14年(1609)、5年の歳月を経て工事が完了し、元和6年(1620)から元和8年(1622)にかけては本堂の各室を飾る障壁画の制作が行われています。

伊達家の菩提寺として厚い庇護を受けた瑞巌寺は60余の末寺を有し、領内随一の規模、格式を誇りました。
しかし明治維新後、新政府の神仏分離令による廃仏毀釈運動や、伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃を受けて、什宝物の散佚、建物の損傷等、荒廃の憂き目を見ることになります。そのような状況の中、明治9年(1876)、明治天皇東北巡幸に際し瑞巌寺が行在所となり、内帑金1,000円が下賜されて復興の契機となりました。

安土桃山美術を現在に伝える貴重な建築物であることから、昭和28年(1953)に本堂と御成玄関が、昭和34年(1959)に庫裡と本堂をつなぐ廊下が国宝に指定されています。
平成30年(2018)には9年に及んだ「平成の大修理」が完了し、政宗公が心血を注いで完成させた創建当初の姿が現在に甦りました。

 

中学生の時

仙台の叔父に連れてきてもらって以来です

約50年ぶり(笑)

本堂の欄間の装飾が、日光東照宮に似ていました

政宗の家康への対抗心を間見た気がします

つづく

 

 

 

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