鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

仙洞院の婚姻時期

2025-01-28 19:51:57 | 長尾氏
仙洞院は長尾為景の娘のひとりであり、天文後期に上田長尾政景に嫁ぎ上杉景勝の母となったことで有名である。しかし、その婚姻時期について確実な史料はない。これまで私は天文6年頃を想定してきたが、再度検討してみたところ天文18年末から天文19年のことであったと考え直すに至った。その理由としては、天文18年以前の婚姻の根拠となっていた下掲[史料1]の解釈が誤っていたと考えられるからである。今回は、[史料1]の解釈と仙洞院の婚姻時期について再検討したい。

1>天文18年6月本庄実乃書状「御新造」の正体
[史料1]『上越市史』、別編1、18号
於宇駿要害ニ火付之事、被仰越候、以前宇駿へ被差越候御書中披見御申候間、無曲存候、抑実儀ニ候ハゝ、たとへ御新造様之近御身るいにて候とも、一日も味方中之要害・たて火付候ハゝ、可為御方之御沙汰候、尤以其身無過候者、宇駿之縄付同前ニ当地へ可被差越候、於此方景虎可被其刷及候故、友照向後ニおゐても過めいはくニ御座候由、其御刷可然候、被懸御目候間、寄存処、其まゝ申宣候、金沢方兎角被申候付、無曲之由彼方へも申候キ、まことにすいさん至極ニ候へ共、無御甚心まゝ申候、具儀者小林へ申候、相替儀候者可申入候、恐々謹言
    六月廿日         庄新左衛門尉実乃
   平孫 参御報

仙洞院の婚姻時期を考える上で、これまで私は[史料1]「たとへ御新造様之近御身るいにて候とも」を参考にしてきた。つまりこれを「上田長尾政景の妻は御親類であるが」と読み、長尾景虎の御親類=仙洞院が既に政景の元へ嫁いでいたと思っていた。当該文書は天文18年6月のものであるから婚姻もそれ以前と思い、景虎主導ではなく長尾為景・晴景期における政策と考えていた。具体的には天文6年の長尾為景と上田長尾房長の講和を契機としたと推定した。しかし、後述のように[史料1]を改めてよく読むと「御親類」は仙洞院を示しているわけではなく、この文書は政景と仙洞院の婚姻とは無関係であったことがわかる。よって、上記の推論も成立しないことを意味する。私の以前の検討における誤謬を訂正したい。

[史料1]の一文をよく読んでいく。同文書は長尾景虎と上田長尾政景の対立が深まっていた時期であり、特に政景方の被官が景虎方宇佐美定満の拠点を放火するなどの攻撃を行ったことが問題となっていた。[史料1]はそのような状況において、景虎方の中枢に位置する本庄実乃が定満拠点の近隣領主平子氏へ宛てた文書である。

「於宇駿要害ニ火付之事、被仰越候、以前宇駿へ被差越候御書中披見御申候間、無曲存候」
→宇佐美駿河守(定満)の拠点に放火があったことについて伝えられた。以前、(平子氏が)宇佐美へ送った書中を読んだが、納得できない。

「抑実儀ニ候ハゝ、たとへ御新造様之近御身るいにて候とも、一日も味方中之要害・たて火付候ハゝ、可為御方之御沙汰候」
→事実であれば、(上田長尾氏が)たとえ妻の近い御親類であろうとも、一日でも味方の拠点が放火されたのであれば、そちら(平子氏)も対応すべきである。

「尤以其身無過候者、宇駿之縄付同前ニ当地へ可被差越候、於此方景虎可被其刷及候故、友照向後ニおゐても過めいはくニ御座候由、其御刷可然候」
→もっともその身柄に誤りがなければ、宇佐美の罪人と同じようにこちらへ引き渡すべきである。こちらでは景虎がその裁定を行うので、友照向後においても明白にあるよう、その裁定はあるべきこと。

上記のように、[史料1]は宇佐美拠点放火事件に関する対応を本庄実乃が平子氏へ指示する文書であることがわかる。平子氏は宇佐美氏の近隣領主として放火事件の鎮圧に動いたと見られ、「宇駿之縄付同前」からはこの時、定満と平子氏はそれぞれ放火の犯人を確保していたと見られる。定満は犯人を景虎へ引き渡したが、平子氏はその対応に迷いがあったのであろう。そのために本庄実乃は「御新造様之近御身るいにて候とも」と、平子孫太郎の妻が上田長尾氏の近親だとしても景虎に味方するように釘を刺したと考えられる。このように文脈からは、「御新造」は平子孫太郎の妻であり、上田長尾氏の一族であったと考えられる。

同年7月本庄実乃書状(*1)では「宇駿於用害火付候義、先書御目被下候故、屈伏申宣候処、則御成敗候由被仰越候、可御心安候」、平子孫太郎は放火の犯人を「成敗」したとあるから、平子孫太郎は景虎方の指示に従ったことがわかる。

2>仙洞院の婚姻時期
このように[史料1]は仙洞院の婚姻時期を示す史料とはいえないことがわかった。しかし、他に仙洞院の婚姻時期を示す文書はない。実際のところは、当時の状況から推定する他ないと考えられる。

では、仙洞院の婚姻はいつだったのだろうか。仙洞院の所生は、上杉景虎妻、上条義春妻、上杉景勝が挙げられる。米沢藩に伝わるところでは、景勝は弘治元年出生、上杉景虎妻が天文20年出生(*2)とされる。天文6年婚姻とすると婚姻から時差があり、天文末期頃の婚姻とすれば自然である。景虎に敵対していた上田長尾政景が天文末期を転換点として景虎の重臣として活動していることも、仙洞院との婚姻を契機としたものと考えてよいだろう。『上杉御年譜』、『平姓長尾氏系図』に伝わる没年、享年から逆算すると、大永4年生まれとされる。これに従えば天文20年に仙洞院は28歳となり、婚姻出生において高齢であるという印象は拭えない。以前の私は年齢的な問題が天文期の早い時期の婚姻を支持していると考えてしまっていた。この点については所伝の正確性を踏まえ、より検討する必要があろう。ちなみに、『羽前米沢上杉家譜』によれば長尾政景は大永6年生まれであり、天文20年には26歳となる。年齢に誤差はあったとしても、仙洞院と婚姻を結ぶ前に前妻がいた可能性は十分考えられる。上杉景勝の兄に「義景」がいたとする所伝もあるが、例えば前妻との間に子供がいた可能性も考慮するべきではなかろうか。

ここまで改めて仙洞院について検討したが、以上のように当時の状況から考えると天文後期における長尾景虎と上田長尾政景の講和を契機にしたもの推測される。景虎と政景の講和は通説において天文20年とされるが、私は天文18年10月までになされたと考えており、仙洞院の婚姻も同年末から翌年頃に行われたと考えられよう。そして、天文20年に上杉景虎妻を出産したと推測できる。景虎と政景の対立については次回、詳しく検討する。



*1)『上越市史』別編1、20号
*2)『外姻略譜』



房長の乱 編年史料集2

2024-10-16 20:10:07 | 長尾為景
前回に引き続き、長尾為景と上田長尾房長の抗争について文書の編年的整理を続ける。今回は、天文5年以降を見ていく。


天文5年
[史料15]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候、爰元も造意等申迫候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言
    五月七日                譲恕 御朱印
     林部右京殿
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏らの籠る下倉城には房長から度々攻撃が加えられていたが、為景も上郡の鎮静化に追われ救援できずにいた。とはいえ当時、既に上条定兼は死去し天文の乱における為景の勝利は確定的であった(*1)。
・為景が下倉城を決して見捨てないことを伝え、堅固に守ることを指示した。
・為景の入道名で見える。署名「譲恕」とあるが正しくは張恕である。福王寺氏宛文書群をはじめ『歴代古案』所収文書は謄写であり細部に誤記が見られる。以下の文書においても同様である。


[史料16]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
    五月八日                譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・下倉城の兵糧が不足しており、為景は中郡の味方に兵糧搬入を命じた。


[史料17]同上、806頁
先日飛脚委細申遣候、定可為到着候、仍栃尾事、連々子細も大略相調分ニ候、至于其儀は古志相談、一動被為之、其地堅固可相踏事専一ニ候、兵糧事は以前申付候、定而可入之候、謹言
    五月十二日               譲恕
     福王寺彦八郎殿

・栃尾に関しては大方の調略も進み古志上杉氏と相談し攻撃するので、福王寺氏は下倉城を防衛するように為景が指示。これ以前に房長によって栃尾が占領されていたことがわかる。占領の時期は恐らく[史料13]に見える天文4年9月の蔵王堂の戦いを始めとした房長の中郡攻撃ではないか。
・兵糧搬入は今後実行されることが伝えられた。


[史料18]同上、806頁
以前飛脚委細及返章候、定而可為到着候、其以後上田口敵之動如何、仍栃尾事連々ニ申越子細大概相調分ニ候、到于其儀は古志其他相談、一動も致之候者、自上田差行不可有之候、如何共其口可被相踏事専一ニ候、恐々謹言
    五月十二日                譲恕 御朱印
     下蔵山在城衆中

・[史料17]と同内容。
・栃尾の調略は進み、為景は古志上杉氏らと相談し同城への攻撃を計画していた。それに伴い、為景は諸将へ房長の攻撃を下倉城で防衛するように指示。


[史料19]同上、816頁
為音信樽到来喜入候、栃尾如何ニも堅固候、可心安候、謹言
    七月三日                 房長
     清雲軒

・房長が家臣の古藤清雲軒へ栃尾の防衛を指示している。[史料17、18]に見える為景方による栃尾への圧迫に対応したものと考えられる。


[史料20]同上、817頁
就其地之備重注進、毎度如申遣依当口無手透其口行延来候、下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候、於此上も無沙汰候は、爰元見合可差越黒田和泉守候、委細多功肥後守方へ申届候、尚以中嶋内蔵助可有口上候、謹言
    八月四日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・為景の出陣が遅れていることを伝え、同じく出陣が遅れている下郡諸将へは催促していることを伝えている。下郡諸将の出陣が実現できなければ為景の元から黒田秀忠を派遣するとのこと。
・この時までに天文の乱において敵対した下郡諸将=揚北衆を再び服属させたことがわかる。為景に敵対する勢力は房長のみとなり越後国内において孤立したことを意味する。


[史料21]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦得勝利、凶徒数多討捕候段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合、其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言
    九月三日                  譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・中郡より山吉政久らが下倉城へ来援し、房長の軍勢を撃破した。[史料22]よりこの戦いは8月28日にあったことがわかる。


[史料22]同上、822頁
去二十八日於上田口一戦之時、蒙疵被走廻之段、戦功無比類候、弥以可被抽忠信候、恐々謹言
    九月三日                  譲恕
     佐藤弥太郎殿

・8月28日の戦いにおける活躍を賞している。「上田口」とのみあり詳細な場所は不明だが、状況から下倉城周辺と考えてよいだろう。


[史料23]同上、825頁
於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候、得其意候、然は如申合忠信至于致候は、上田庄において彼者共相當之地可充行候、此段可申遣候、謹言
    十一月廿一日                譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・為景方の優勢に伴い房長方を離反し為景方へ帰属を意図する領主の名を福王寺氏が報告し、彼らに対し為景は相応の知行を宛行うことを伝えた。


[史料24] 『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
今度於其口露色 被復先忠之段、注進到来尤無比類候、然者下蔵地、堅固相踏、弥以可被抽忠信事簡要候、恐々謹言
    十二月廿一日                   譲恕
     江口藤五郎殿

・薮神の領主江口氏が為景方へ帰属。為景はそれを賞し下倉城を守るよう指示。


天文6年
[史料25]同上、800頁
依其口様体無聞差越上村小五郎・藤四郎候、如申付候、其地之各并傍輩共相談、下倉山堅固之刷専一ニ候、於備は以前発知大学助方下向之時申含候キ、謹而可出陣候、其間儀不可有油断候、委細之段彼両人可有口上候、謹言
    正月十三日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・引き続き下倉城を守るように指示。薮神の領主発知氏も為景方へ従属を遂げていることがわかり、薮神における為景の優勢が読み取れる。


[史料26]同上、801頁
去十八日、従上田号大源地江相動押破為始大源伊豆守数十人討死候由、無是非次第候、取出之動無用之段、兼日申越候き、雖然其地堅固簡要候、各相談、弥以無越度様其刷専一候、出陣之儀も可相急候、謹言
    正月廿四日                 譲恕
     福王寺彦八郎殿

・房長が出陣し、「大源」=大沢が攻められ為景方の大沢伊豆守らが戦死した。大沢氏は[史料21]にある房長から離反した領主の一人と思われ、房長の報復と捉えられる。大沢氏の居城は現魚沼市大沢に残る鉢巻山城と伝わる。
・為景は不用意に反撃せず下倉城の守りを固めるよう指示し、自らの出陣を急ぐことを伝えた。


[史料27]同上、803頁
十一日敵相動候処出人数得利、各被疵由粉骨之至候、努々不可取出由申届候、雖然無越度上は無是非候、弥以其地堅固備簡要候、謹言
    二月十六日                     譲恕
     福王寺彦八郎殿

・2月11日に福王寺氏らが下倉城から出撃し房長軍を破った。為景は籠城の指示を守らなかったことに言及したが、成功したために不問とし、今後は固く防衛に努めるよう指示した。


[史料28]同上、803頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、同心被官人粉骨候旨、神妙至候、仍其地之備無油断、各相談簡要候、上田の実説重而注進候、謹言
    二月廿七日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・2月21日に広瀬の戦いで福王寺氏ら再び房長軍を撃破した。為景はこれを賞し、引き続き下倉城防衛と房長の動向について注進するよう指示した。


[史料29]同上、804頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、被抽粉骨候、無比類候、何様一段可感之候、恐々謹言
    二月廿七日                絞竹庵譲恕
     江口藤五郎殿

・広瀬の戦いでは江口氏ら為景に帰属した薮神の領主の活躍があったことがわかる。
・これ以降房長との軍事抗争を伝える史料はない。広瀬の戦いなどで劣勢に立たされた房長は、国内情勢を鎮静化した為景に屈し、和睦するに至ったと推測される。


*1)上条定兼の死去は『越後過去名簿』(山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」新潟県立歴史博物館研究紀要第9号)より天文5年4月であることが明らかである。


房長の乱 編年史料集1

2024-10-04 21:36:51 | 長尾為景
長尾為景と上田長尾房長の抗争は多数の史料が残っていがらこれまで十分な検討がされていない。前回まで、両者の抗争を中心にその実態について考察してきた。それを踏まえて、さらに文書の内容についても網羅的に検討し、それらを編年的に総集することで同抗争の理解を深める一助としたい。各文書の年次比定等の考察は以前の記事を参照してほしい(長尾房長の乱について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。今回は天文2年から同4年までの範囲をみていく。


天文2年
[史料1]『越佐史料』三巻、794頁
敬白願書、抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不恐神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意之上、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件、
    天文二年十月廿四日         信濃守為景
     居多神主

・上条播磨守定兼、長尾越前守房長、中条越前守藤資らと長尾為景の抗争が開始。


[史料2]同上、795頁
敬白願書
抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不思神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意候者、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件
    天文二年十月廿六日         信濃守為景
     鵜川八幡神主

・天文3年における房長の動向を示す文書は他に残っていない。


天文4年
[史料3]同上、807頁
宇佐美前々造意連続、至于近日は方々江色々計策共々候、愚老事も雑説等雖申廻候、断而嶋津入道方意見之旨、不可有同心旨被仰切候故失手候、於事切も不可有差儀候、従何其要害用心不可有油断候、仍上田・妻有衆・薮神衆・宇佐美駿河守・大熊以下悉上条江相集候、然者水旱候間、指越案内者河東可打散候、下平方へ申越候、令談合如何共可相挊候、謹言
    五月廿九日             為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・房長が軍勢を率いて鵜川庄上条まで出陣。
・定兼方宇佐美氏の調略により信濃島津貞忠との関係も予断を許さない状況にあったようで、為景不利との雑説が巡っていたよう。貞忠は宇佐美氏に同心しなかった模様。ちなみに、島津貞忠は天文5年11月に死去する(*1)。
・為景は福王寺氏、下平氏へ「河東」地域=妻有庄・波多岐庄周辺地域への攻撃を指示。


[史料4]同上、807頁
自上田口其地へ可及行候哉、各致談合堅固可相抱事肝要候、万一敵陣取候は、自此口可成動候、謹言
    六月廿日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏へ下倉城周辺の敵の動向を問い合わせ、同上の防衛を指示している。
・内容が具体的ではなく年次比定は難しいが、「為景」署名とされることから天文4年6月と推測した。


[史料5]同上、808頁
河東江及行、方々放火之由神妙至候、弥以可相挊候、然は其地用心事各申合不可有油断候、謹言
    六月廿七日              為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏は指示通り河東地域への攻撃を成功さ、引き続き下倉城の防衛に努める。


[史料6]同上、813頁
向五十澤口相動之上、秋谷之者共取手之外見合、及一戦得勝利、為始下平次郎太郎、数百人討捕之由、自金子勘解由左衛門所注進到来、粉骨之至、誠無是非心地能候、永々其口為押張陣之由、爰元無手透故、以切紙不申越候、別而相加世具段其聞候、感入候、謹言
    七月十七日              房長
     古藤清雲軒

・波多岐庄下平氏ら為景方が上田庄を攻撃するも五十澤の戦いで房長家臣古藤氏らに敗れ、下平氏は戦死した。
・房長は「爰元」に出陣中で上田庄を留守にしていた。[史料7]にある琵琶嶋の戦いと思われ、下平氏らの攻撃は留守中を狙ったものと推測される。


[史料7]同上、816頁
新山落居之砌、次郎太郎走廻候、定可為満足候、謹言
    七月廿ニ日              房長
     清雲軒

・古藤氏が新山城を落とした際の活躍を房長が賞している。「新山」は詳細不明だが、アラヤマと読み現南魚沼市荒山を指している可能性がある。地理的には五十澤と下倉城の間にあり、五十澤の戦いに勝利した古藤氏が荒山の拠点を攻略し、[史料7]に見える下倉城攻撃へ向かったと推測される。
・この文書については根拠に乏しく確定的な結論は難しいが、総合的に考えて上記推測が最も蓋然性が高いと判断した。


[史料8]同上、814頁
国分方へ之切紙披見、不始其口加せ儀、尤無是非候、上条之者共令同心下倉山へ相重候由、是又肝要ニ候、如何共各令談合、物裏之動、敵之往復、自由不致得之様に其刷専一ニ候、爰元備可御心安候、具自両人方可申届候、謹言
    七月廿五日              房長
     穴澤新右衛門尉殿

・房長方が為景方下倉城を攻撃。穴沢氏が出陣中の房長へ国分氏を通じて報告し、房長はそれを賞している。


[史料9]同上、817頁
河東江凶徒等相集、琵琶島へ及行候間、馬廻者共為助之候、然者其地人数相談、河東江為忍足軽可為放火候、将亦其地無油断可用心候、謹言
    八月二日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・琵琶嶋の戦い。房長軍が河東地域を拠点に為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点琵琶嶋を攻撃し、為景馬廻衆が救援へ向かった。
・[史料5、6]で房長の出陣が確認されており、琵琶嶋を攻撃した上田長尾軍は房長が率いていた可能性が高い。
・[史料3]に上条へ房長、宇佐美氏、大熊氏、薮神・妻有衆が集結していることが見え、上条定兼のもとに房長らが結集して琵琶嶋へ攻勢をかけたことが推測される。


[史料10]同上、820頁
於時宜者、始中終承旧申断候、然は如御望奥衆一筆相調進之候、至于上は任御兼約、早速可被顕其色候、以前之御思惟者彼書中存候歟、尤無拠存候、御動有御遅延者、弥愚拙可失面目候、委曲石勘可被申分候、恐々謹言
    八月十四日              長尾越前守房長
     平子弥三郎殿

・房長が平子氏へ味方に属するよう求める。
・軍事行動へ遅れないようにと念押ししており、定兼陣営への参陣を求めたと推測される。

[参考1]同上、820頁
以長尾越前守方、連々如承者、被属味方可被抽忠信由候哉、尤以簡要之至候、然者、西古志郡内皆以可被抱候事、不可有相違候、委細越前守方へ相断候、定可有伝語候、恐々謹言
    八月十七日              定兼
     平子弥三郎殿

・上条定兼も平子氏を味方へ誘う文書を発給しており、定兼-房長ラインともいうべき政治体制が構築されつつあったことが推測される。


[史料11]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
    八月十九日              黄博
     福王寺彦八郎殿

・「黄博」=為景は、福王寺氏らが「松苧山」=松之山を忍び取ったことを賞賛している。[史料8]において為景が福王寺氏へ指示した河東地域への攻撃が実行された結果と捉えられる。
・「黄博」の初見であり、為景が天文4年8月に入道したことがわかる。
・黄博の法名については以前の記事で検討している(長尾為景と「黄博」 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。


[史料12]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
    八月廿八日              黄博 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・松之山から柏崎方面へ進むと高柳という地名が現在も残る。松之山を攻撃した福王寺氏は琵琶嶋の戦いを援護するためそこから柏崎方面へ進軍していたことがわかる。


[史料13]『越佐史料』三巻、824頁
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
    九月廿二日              黄博 御朱印
     福王寺彦八殿

・蔵王堂の戦い。房長が軍勢を率い蔵王堂を攻撃した。詳しい経過は不明であるが、為景方が琵琶嶋の防衛に成功し房長らは後退、中郡への攻撃に転じたと推測できる。
・為景は福王寺氏へその間に敵が留守であるとして妻有・河東地域への攻撃を指示。


[史料14]同上、815頁
其地之傍輩共與同心、先衆に石坂口へ可相動候、少もらんほう狼藉致間敷候、堅可申付候、委細金子勘解由ニ申含遣候、今泉方をも指添候、能々可申合候、謹言
    九月廿四日              房長
     穴澤新右兵衛尉殿

・石坂口は現在の長岡市石坂地区を指すと推測され、蔵王堂の戦いに伴い房長が穴沢氏へも中郡への攻撃を指示したものと考えられる。



*1)『嶋津代々并庶子法号』(中村亮佑氏「米沢藩上杉家家中『嶋津家文書』について」文書館紀要第三十号)

長尾為景と「黄博」

2024-09-23 21:14:19 | 長尾為景
長尾為景発給文書の中には「黄博」署名の文書が存在する。下掲[史料1~3]の3通が該当の文書であり、全て『歴代古案』なる謄写本に伝来している。ただ、「黄博」の所見は全て福王寺氏へ宛てられるという偏りがあり、『古案』についても謄写本という性格を考慮する必要がある。今回は、為景の名乗ったとされる入道名「黄博」に関する諸問題について検討する。結論から言えば、為景は天文4年8月に入道し黄博を名乗り、その後天文5年5月までに絞竹庵張恕へ改名したことが推定される。


[史料1]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
    八月十九日          黄博
     福王寺彦八郎殿


[史料2]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
    八月廿八日          黄博 御朱印
     福王寺彦八郎殿

[史料3] 『歴代古案』第四、1340号
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
    九月廿二日          黄博 御朱印
     福王寺彦八殿

1>「黄博」署名の真偽
まず、『古案』における「黄博」署名の信頼性、正確性について考えたい。『歴代古案』は謄写本であり、原本を書写したものを集成した史料であることから書写した際の誤記などの可能性も考えられる。実際、同史料の署名では多少の誤記が見られる。例えば為景の入道名について、絞竹庵張恕は「譲恕」とされ、桃渓庵宗弘は「宗張」と記されている。「黄博」についても原本の記載であったかどうか、すぐには信頼できないと感じる。とはいえ『古案』の誤記は漢字の一文字程度で、概ね史実に沿っている。全く根拠がない中で「黄博」が記載されたとも考えにくい。

このような問題点を解決するために『古案』の成立過程や編纂事情を考える必要がある。『古案』は羽下徳彦氏、阿部洋輔氏、金子達氏による編集のもと翻刻が出版されている(*1)。同書の解題にて編集者らにより『古案』に関する考察がまとめられている。それによると、作成者は米沢藩関係者であり、成立時期は確定できないものの米沢藩の修史事業が進められた元禄年間と想定されている。ここで「黄博」署名を含む福王寺文書についても言及されている。『古案』は同時期に米沢藩で編纂されたいわゆる『御書集』と内容が重複する部分があり、福王寺氏文書も全32点のうち29点が双方に記載されるという。そして、『古案』にのみ記載され『御書集』から除外された3点が「黄博」署名の文書である。つまり、福王寺氏に伝来した文書を藩へ提出させ書写し集成する際、「黄博」署名が不詳の人物とされ『御書集』への記載は不適当と判断されたというのである。ここから「黄博」署名は書写の段階での誤記ではなく、実際に福王寺氏の家伝文書に記されていたことが確実といえる。よって、為景が「黄博」として福王寺氏宛に文書を発給した可能性は極めて高いといえる。

2>「黄博」文書の年次比定
続いて、黄博として発給された[史料1~3]の年次比定を行いたい。まず、[史料3]については上田長尾房長との抗争を検討した上で天文4年9月であると推定した (以前の記事)。[史料1、2]も[史料3]と近接した時期のものと考えると天文4年8月、もしくは天文5年8月が想定される。

その前後の文書を見てみると、天文4年8月2日長尾為景書状(*2)まで「為景」署名であり、天文5年5月7日長尾張恕書状(*3)において入道名「張恕」が初見される。つまり、[史料3]が天文4年9月である点はと矛盾はなく、[史料1、2]については天文4年8月であれば前後の文書群とも署名の上では整合性がとれることがわかる。

では文書の内容における整合性についても見ておきたい。[史料1]では、黄博が福王寺氏らの「松苧山」=松之山攻撃を賞している。さらに、[史料2]では「高柳口」での福王寺氏らの軍事行動を賞している。高柳は松之山から柏崎方面へ進んだ所に位置する。日付も近い2通が一連の軍事活動であったことは疑いない。そして両通が天文4年8月であれば、同年8月2日長尾為景書状(*2)において「河東江為忍足軽可為放火候」とある点が注目される。すなわち、8月2日の文書(*2)で為景から河東地域への攻撃を指示された福王寺氏は[史料2]の出された同月19日までに同地域の松之山を攻撃し、さらに[史料3]の同月28日までに高柳まで進軍したと考えられる。このように、文中の内容からも天文4年8月として矛盾はなく、むしろ同時期の為景方として活動する福王寺氏の動向を明らかにするものであると考えられる。

3>「黄博」を名乗った意味
上記での年次比定を踏まえると、長尾為景は天文4年8月2日以降、同月19日までに入道し黄博を名乗ったことが明らかとなる。そして、天文5年5月7日までにさらに絞竹庵張恕へ改めている。これら名乗りの変遷についてその意義を考えたい。

まず、これらに上条定兼・上田長尾房長・中条藤資らとの抗争である天文の乱との関係は無視できず、同乱の経過が名乗りの変遷に繋がったことは前提として間違いないだろう。具体的には事実上の越後上杉氏のトップであった上条定兼との直接交戦するにあたり、為景の軍事行動は秩序に反した行動として捉えられる可能性があり何らかの形で責任を取る必要があったと考えられる。これは、守護上杉房能死亡後に為景が一時的に入道し桃渓庵宗弘を名乗った事例と同様のものと推測できる。黄博の所見はごく限定的であり、桃渓庵宗弘と同じくその使用は一時的なものであったと想定され、張恕が初見される天文5年5月までに再び為景を名乗っていた可能性は否定できない。

ちなみに、黄博を名乗った時期には特に琵琶嶋の戦いと呼ぶべき合戦の最中であった。琵琶嶋は為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点であり、交通の要衝でもあった。琵琶嶋の攻撃は上条定兼のほか、長尾房長など天文4年5月の時点(*4)で上条に集結していた軍勢が参加していたと考えられ、反為景方の大規模な攻勢であったことが想定される。黄博の初見は琵琶嶋への攻撃を福王寺氏へ報告した直後のことであり、この戦いの詳細な経過は明らかでないがその趨勢が影響した可能性はあるだろう。

その後情勢は変化し、天文の乱は為景の勝利で確定的となるわけだが、為景は政治的な思惑のもとで改めて絞竹庵張恕を名乗ったと推定する。やはり天文5年4月の上条定兼の死去に配慮するという側面があったと考えられよう。形骸化していたとはいえ、当時の秩序において越後守護上杉氏の優位性は依然として残っており、為景としてもそれに対する政治的な対応が必要であったのであろう。



ここまで、長尾黄博の所見に関する諸問題について検討した。その結果、天文の乱において上条定兼、上田長尾房長らとの抗争を繰り広げる最中、天文4年8月に為景が入道し黄博を名乗ったことを指摘した。その後、天文の乱終結に伴い、天文5年5月までに絞竹庵張恕へ名を改めていたことも併せて明らかにした。いずれの入道名においても、越後上杉氏の事実上のトップであった上条定兼との抗争に伴う配慮があったことを想定した。


*1)『歴代古案』、八木書店
*2)『越佐史料』三巻、817頁
*3)同上、805頁
*4)同上、807頁

上田長尾房長の乱に関する検討

2024-08-24 16:55:06 | 長尾氏
長尾房長は永正期から天文期にかけて活動した上田長尾氏の人物である。越後守護代長尾為景とは当初良好な関係を築いていたが、天文の乱において上条定兼、中条藤資らと共に反旗を翻す。天文期における房長と為景の抗争については多数の文書が残る一方で、年次推定など細かな検討は進んでおらずその全貌は掴みづらい印象がある。今回、天文の乱に端を発した長尾為景と上田長尾房長の抗争を主眼におき、文書群をもとにその経過について検討していきたい。一連の抗争は後年の長尾政景の乱と対比し、長尾房長の乱と呼んでおきたい。

1>天文期以前の両者の関係
永正6年7月に山内上杉可諄が越後へ進軍し、長尾為景らを越中へ敗走させる。この抗争において、房長の叔父で先代にあたる上田長尾顕吉は山内上杉氏方として見える(*1)。しかし、為景らの反攻により可諄は永正7年6月に戦死する。この際に上田長尾氏が寝返り退路を断ったとの俗説があるが、それを示す史料はなく以前検討したように前後の状況からも史実とは考えられない(長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。永正7年11月に顕吉が後継者房長を越後府中へ出仕させており、同時期に為景へ帰属したことが推測される(*2) 。これ以降は越後国内の情勢は安定しており、顕吉から代替わりした房長も為景方として活動している。

2>天文の乱における抗争
比較的安定した為景の治世のなかで、房長が反抗するに至るのは上条上杉定兼(定憲)が挙兵した天文の乱においてである。当乱において、両者の交戦は天文2年9月より所見される(*3)。同年10月居多神社宛長尾為景書状(*4)に「當敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類速退治」とあることから、房長が揚北衆中条氏らと共に定兼へ与しその旗幟を鮮明としたことは明らかである。この房長の行動は国内の所領や利権の都合もあるだろうが、房長の母が上条氏出身と考えられるためその血縁関係が定兼との共闘に関係した可能性がある(上田長尾氏の系譜1 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。

天文2年9月以降、天文3年中においても為景と定兼の抗争は続き史料上は頸城郡を中心にその軍事的衝突が認められる(*5)。天文4年5月になり定兼方の勢力が結集し、妻有衆、薮神衆や宇佐美氏、大熊氏と共に上田長尾氏の軍勢が定兼の本拠鵜川庄上条へ参陣したこと同月長尾為景書状(*6)からわかる。後述するが同年7月坂戸城近辺で生じた五十澤口の戦いについて房長は「注進到来」(*7)として把握しているから、房長自身が坂戸城を留守にして上条へ出陣していたと考えられる。敵が上条に集結した事態に際し、為景は下倉城福王寺彦八郎、波多岐庄下平氏に「河東」への攻撃を命じている(*6)。「河東」とは信濃川右岸、現在の十日町市の信濃川以東の地域を指すと推測されている(*9)。これらから推測される点は、上田長尾方の勢力圏が自身の拠点上田庄と妻有、薮神で構成されていたということである。為景方の前線は福王寺氏の下倉城、下平氏らの十日町であり、地図に当てはめれば両者の前線は噛み合うこととなる。山内上杉氏の影響下にあった妻有、薮神と上田長尾氏の関係は天文期まで続いたといえる。

さて、この後為景は同年6月に治罰の綸旨を獲得し(*10)し、政治的な対応もこなした上で揚北衆も従えた上条定兼軍の進行を迎え撃つ準備に追われていたと考えられる。その中で上述の為景方と房長方の境界も緊迫度を増す。

天文4年7月17日までには「五十澤口」にて両勢力が衝突し古藤清雲軒ら房長方が勝利し為景方下平次郎太郎が戦死している(*11)。五十澤という地は坂戸城の麓にありこの時は為景方の下平氏らが攻勢に出たところを房長方の古藤氏らが迎撃したという構図が想定される。そして、この勝利を受けて同月房長は穴澤新右兵衛尉に下倉城を攻めることを命じている(*12)。同書状には「上条之者共令同心」とあるが、これは上条上杉氏ではなく穴澤氏の近隣の広瀬上条の地侍=「広瀬契約中」を指すと思われ、房長が薮神の在地勢力を味方につけていたことがわかる。

同年8月には上条定兼が平子弥三郎を味方に誘い、房長、中条藤資ら揚北衆からも同様の内容の書状が送っている(*13)。また、房長は同年9月22日までに古志郡蔵王堂周辺を攻撃したことが同日長尾張恕書状(*14)からわかる。上条定兼や揚北衆と連携しながら、中郡の為景方の勢力へ圧力をかけていたことが想定される。また、同書状で為景は福王寺氏へ敵は出陣中で留守となっているだろうから「妻有・河東」を焼くように、と命じている。同書状は従来天文5年とされてきたが、後述のように天文5年9月では房長は下倉城周辺において劣勢となっており中郡蔵王堂まで進軍することは困難であったと思われ、天文4年9月のものと考えられる。

しかし、同年9月に揚北衆の首魁中条藤資が病気となりそのまま死去し、定兼の軍勢は維持が困難となったと思われる (中条藤資の動向3 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。房長も定兼方の軍事力が低下したことを見て、自領へ帰還したことが推測される。翌年4月に定兼が死去したことが『越後過去名簿』に記載されていることから定兼は戦没した可能性が高く、これを以て天文の乱は為景の勝利で終結したと考えられる。

ここまで、房長は上条定兼らと共に為景に反抗し、上田庄から出陣し上条や蔵王堂など上郡から中郡にかけて軍事行動を展開しながらも、内部事情も絡んで上条方が不利となったために上田庄への退陣を余儀なくされたと考えられる。また、五十澤の戦いなど房長の留守中における上田庄を巡る戦闘も確認できた。

3>天文5、6年における抗争
上条定兼と長尾為景の抗争=天文の乱が終結した後も、房長と為景の対立は継続する。天文5、6年における両者の抗争を示す史料は多数残るがまずそれら文書の年次比定が必要であり、ポイントは署名となる。入道以前の「為景」としての終見は天文5年3月長尾信濃守宛柳原資定書状(*15)である。従来天文5年8月に為景から晴景に家督が相続され同時に入道したと考えられてきたが、前嶋敏氏の研究(*16)などにより正しくは天文9年8月であったことが指摘され必ずしも入道が天文5年8月というわけではなくなったが、私は入道の契機は天文5年4月頃上条定兼の死去にあったと以前に推測した(長尾為景から晴景への家督相続について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。そうであれば「為景」なら天文5年4月以前、「入道絞竹庵張恕」であれば天文5年月以降となる。このような現状を把握した上で当抗争に関する文書群をみていくと概ね矛盾なく成立するため、以下で具体的に整理していく。

まず、通説を確認する。『増補改訂版上杉氏年表』(*9)では、天文5年8月に福王寺氏、山吉氏らが上田長尾氏と戦い、9月には上田長尾氏が古志蔵王堂まで進攻したとする。翌年1月には大沢を上田長尾氏が攻撃したため、翌月福王寺氏らが広瀬で合戦に及んでいる。広瀬合戦では前年12月には為景方の調略により内応した江口氏も活躍した。5月には上田長尾氏が下倉城を包囲したが為景は中郡の諸将によって兵糧運搬を試みる。8月になっても状況は好転しなかったが、為景が娘仙洞院を上田長尾政景に嫁がせることで講和したとする。以上が通説であるが、房長有利の情勢で講和に至ったという印象である。これは為景の入道を天文5年8月以降とした結果であり、天文5年4月以降とした上で抗争の経過を再構成してみたい。つまり天文6年4月~8月とされていた文書が天文5年4~8月であった可能性があり、実際には上記通説とは異なる経過であったと思われる。

[史料1]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動、重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候爰元も造意等申追候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合、其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言、
    五月七日              張恕
     林部右京殿
     福王寺彦八郎殿

[史料2]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候之間、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
    五月八日              張恕
     福王寺彦八郎殿

[史料3]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦、得勝利凶徒数多討捕段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言、
    九月三日              張恕
     福王寺彦八郎殿


まず、[史料1][史料2]に見える天文6年5月とされる房長による下倉城包囲を天文5年5月と推測する。文中からは兵糧も逼迫するほど房長方の攻勢は激しく、この後間もなく講和するような戦況だろうか。天文5年5月であれば天文の乱直後でもあり、房長の攻勢が活発である一方、為景が頸城郡の鎮静化に追われ下倉城への援助が行き届かない状況も理解できる。年不詳5月12日福王寺彦八郎宛長尾張恕書状(*17)には「兵糧以前申付候」とあることから[史料2]で兵糧搬入計画を伝えた直後と想定される。同内容の5月12日下倉山在城衆宛長尾張恕書状(*18)も同日に比定される。8月4日長尾張如書状(*16)では以前「当口無手透、其口行延来計」と自身の出陣が叶わないことを、遅くなっているが下郡諸将へ援軍を要請していること、下郡諸将が動かない場合は黒田秀忠を派遣することを述べている。すなわち、これらの文書は天文5年5月から8月にかけての文書であったと推定される。

上述の5月12日張恕書状(*17、18)では「栃尾事連々ニ申越子細」とあり、年不詳7月長尾房長書状(*19)では栃尾城を古藤清雲軒が守備していることが明らかであるから、天文5年5月頃に房長は下倉城に圧力をかけながらさらには栃尾城を攻略していたことがわかる。上記張恕書状(*17、18)からは為景が古志上杉氏と相談して栃尾地域の奪還を目指していた様子がわかる。

続いて、 [史料3]をみると山吉政久らが下倉城へ派遣され同城を攻める房長方と交戦し撃退している様子が見える。三条の山吉氏らこそが[史料2]で伝えられていた中郡からの援軍ではないか。つまり、[史料1][史料2]を受けて為景が山吉氏ら援軍を派遣し[史料3]にある下倉城救援を行ったと考えられ、同文書は天文5年9月と推測できる。従来、この頃とされてきた房長の蔵王堂攻撃はこのような下倉城での敗戦を考えれば難しいと考えられ、先述のように天文4年9月のことと想定される。

天文5年11月には為景から福王寺氏へ「於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候」、「上田庄において彼者共相當之地可宛行候」(*20)と述べられ、為景方から房長の味方へ調略が仕掛けられていたことがわかる。同年12月21日長尾張恕書状(*21)にて江口藤五郎が「今度於其口露色被復先忠」と調略に応じ下倉城の防衛を為景から命じられており、天文6年1月13日長尾張恕書状(*22)には発智大学助が味方として見えるから、為景方の反攻に伴い薮神の領主の中に為景へ帰属する者がいたことが明らかである。

天文6年1月18日には下薮神の大沢城が房長方により攻略され、大沢伊豆守が戦死する(*23)。『越後入広瀬村編年史』は大沢氏も江口氏と同様に為景の調略に応じて房長方から為景方へ転じた領主と推測している。つまり、この房長の攻撃は相次いで離反する領主らへの報復であり、薮神での影響力低下を打開するためのものだったと考えられる。これに対し為景方の福王寺氏、江口氏らが反撃し、2月21日広瀬の戦いにおいて房長方を破っている(*24)。

これまでの年次推定を踏まえると、これ以降は抗争に関する所見はない。薮神における為景方の勝利が決め手となり、まもなく為景と房長の間で講和が結ばれたと見てよいだろう。史料はないがその後も状況から栃尾を始めとする古志郡における房長の占領地も奪還もしくは返還されたと推測される。

まとめると、天文の乱終結後も為景と房長の抗争は継続し、天文5年5月から7月にかけて房長が活発な軍事行動を見せ栃尾城を落とし下倉城も包囲するが、9月に山吉氏らの援軍が派遣され為景方が反撃を見せ、年末頃には江口氏など薮神の領主も味方につけるなど為景方が有利な状況へと展開していった。天文6年2月の広瀬の戦いにおいて挽回を目指した房長と為景方の決戦となり、それに為景方が勝利したことで講和へと至ったと考えられる。

史料が不足しているため、講和条件については不明である。

為景と房長の抗争は古志郡や下倉など薮神を中心とし、上田庄や妻有庄へは依然として房長の影響力が色濃く残ったと思われる。為景は天文の乱直後で国内の鎮静化が最優先であったと思われ、この講和は房長を完全に屈服させたわけではなかった。よって、為景の優勢を以て講和に至ったと考えられるが、上田長尾氏の勢力は維持され、それがのちの長尾景虎と上田長尾政景の抗争へとつながっていくと考えられる。



*1)『新潟県史』資料編4、1630号
*3)『新潟県史』資料編4、1556~1558号
*4)『越佐史料』三巻、794頁
*5)同上、 796~799頁
*6)同上、807頁
*7)同上、813頁
*9)『増補改訂版上杉年表』、池亨・矢田俊文編、高志書院
*10)『越佐史料』三巻、808・809頁
*11)同上、813頁
*12)同上、814頁
*13)同上、818~820頁
*14)同上、824頁
*15)同上、828頁
*16)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』第808号)
*17)同上、806頁
*18)同上、806頁
*19)同上、816頁
*20)同上、825頁
*21)『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
*22)『越佐史料』三巻、800頁
*23)同上、801頁
*24)同上、803~804頁
*25)『上越市史』別編1、18号

※24/8/30 追記  25/1/18リンクを追加
年不詳7月22日長尾房長書状(越佐史料3-816)に見える古藤清雲軒の「新山」攻略を天文5年7月に比定していたが、その後検討した結果天文4年7月であるという考えに至った。そのため、天文5年7月の「新山」攻略についての記述を削除し栃尾城を巡る状況についての記述を一部変更した。「新山」攻略の詳細については、下記の[史料7]で提示している。

※25/1/28 追記
上田長尾政景と長尾為景の娘仙洞院の婚姻を天文6年の講和を契機としたものと推測していたが、その後検討した結果天文18年10月から翌年にかけてのことであったという考えに至った。そのため、仙洞院に関する記述を削除した。