鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

房長の乱 編年史料集1

2024-10-04 21:36:51 | 長尾為景
長尾為景と上田長尾房長の抗争は多数の史料が残っていがらこれまで十分な検討がされていない。前回まで、両者の抗争を中心にその実態について考察してきた。それを踏まえて、さらに文書の内容についても網羅的に検討し、それらを編年的に総集することで同抗争の理解を深める一助としたい。各文書の年次比定等の考察は以前の記事を参照してほしい(長尾房長の乱について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。今回は天文2年から同4年までの範囲をみていく。


天文2年
[史料1]『越佐史料』三巻、794頁
敬白願書、抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不恐神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意之上、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件、
    天文二年十月廿四日         信濃守為景
     居多神主

・上条播磨守定兼、長尾越前守房長、中条越前守藤資らと長尾為景の抗争が開始。


[史料2]同上、795頁
敬白願書
抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不思神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意候者、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件
    天文二年十月廿六日         信濃守為景
     鵜川八幡神主

・天文3年における房長の動向を示す文書は他に残っていない。


天文4年
[史料3]同上、807頁
宇佐美前々造意連続、至于近日は方々江色々計策共々候、愚老事も雑説等雖申廻候、断而嶋津入道方意見之旨、不可有同心旨被仰切候故失手候、於事切も不可有差儀候、従何其要害用心不可有油断候、仍上田・妻有衆・薮神衆・宇佐美駿河守・大熊以下悉上条江相集候、然者水旱候間、指越案内者河東可打散候、下平方へ申越候、令談合如何共可相挊候、謹言
    五月廿九日             為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・房長が軍勢を率いて鵜川庄上条まで出陣。
・定兼方宇佐美氏の調略により信濃島津貞忠との関係も予断を許さない状況にあったようで、為景不利との雑説が巡っていたよう。貞忠は宇佐美氏に同心しなかった模様。ちなみに、島津貞忠は天文5年11月に死去する(*1)。
・為景は福王寺氏、下平氏へ「河東」地域=妻有庄・波多岐庄周辺地域への攻撃を指示。


[史料4]同上、807頁
自上田口其地へ可及行候哉、各致談合堅固可相抱事肝要候、万一敵陣取候は、自此口可成動候、謹言
    六月廿日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏へ下倉城周辺の敵の動向を問い合わせ、同上の防衛を指示している。
・内容が具体的ではなく年次比定は難しいが、「為景」署名とされることから天文4年6月と推測した。


[史料5]同上、808頁
河東江及行、方々放火之由神妙至候、弥以可相挊候、然は其地用心事各申合不可有油断候、謹言
    六月廿七日              為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏は指示通り河東地域への攻撃を成功さ、引き続き下倉城の防衛に努める。


[史料6]同上、813頁
向五十澤口相動之上、秋谷之者共取手之外見合、及一戦得勝利、為始下平次郎太郎、数百人討捕之由、自金子勘解由左衛門所注進到来、粉骨之至、誠無是非心地能候、永々其口為押張陣之由、爰元無手透故、以切紙不申越候、別而相加世具段其聞候、感入候、謹言
    七月十七日              房長
     古藤清雲軒

・波多岐庄下平氏ら為景方が上田庄を攻撃するも五十澤の戦いで房長家臣古藤氏らに敗れ、下平氏は戦死した。
・房長は「爰元」に出陣中で上田庄を留守にしていた。[史料7]にある琵琶嶋の戦いと思われ、下平氏らの攻撃は留守中を狙ったものと推測される。


[史料7]同上、816頁
新山落居之砌、次郎太郎走廻候、定可為満足候、謹言
    七月廿ニ日              房長
     清雲軒

・古藤氏が新山城を落とした際の活躍を房長が賞している。「新山」は詳細不明だが、アラヤマと読み現南魚沼市荒山を指している可能性がある。地理的には五十澤と下倉城の間にあり、五十澤の戦いに勝利した古藤氏が荒山の拠点を攻略し、[史料7]に見える下倉城攻撃へ向かったと推測される。
・この文書については根拠に乏しく確定的な結論は難しいが、総合的に考えて上記推測が最も蓋然性が高いと判断した。


[史料8]同上、814頁
国分方へ之切紙披見、不始其口加せ儀、尤無是非候、上条之者共令同心下倉山へ相重候由、是又肝要ニ候、如何共各令談合、物裏之動、敵之往復、自由不致得之様に其刷専一ニ候、爰元備可御心安候、具自両人方可申届候、謹言
    七月廿五日              房長
     穴澤新右衛門尉殿

・房長方が為景方下倉城を攻撃。穴沢氏が出陣中の房長へ国分氏を通じて報告し、房長はそれを賞している。


[史料9]同上、817頁
河東江凶徒等相集、琵琶島へ及行候間、馬廻者共為助之候、然者其地人数相談、河東江為忍足軽可為放火候、将亦其地無油断可用心候、謹言
    八月二日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・琵琶嶋の戦い。房長軍が河東地域を拠点に為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点琵琶嶋を攻撃し、為景馬廻衆が救援へ向かった。
・[史料5、6]で房長の出陣が確認されており、琵琶嶋を攻撃した上田長尾軍は房長が率いていた可能性が高い。
・[史料3]に上条へ房長、宇佐美氏、大熊氏、薮神・妻有衆が集結していることが見え、上条定兼のもとに房長らが結集して琵琶嶋へ攻勢をかけたことが推測される。


[史料10]同上、820頁
於時宜者、始中終承旧申断候、然は如御望奥衆一筆相調進之候、至于上は任御兼約、早速可被顕其色候、以前之御思惟者彼書中存候歟、尤無拠存候、御動有御遅延者、弥愚拙可失面目候、委曲石勘可被申分候、恐々謹言
    八月十四日              長尾越前守房長
     平子弥三郎殿

・房長が平子氏へ味方に属するよう求める。
・軍事行動へ遅れないようにと念押ししており、定兼陣営への参陣を求めたと推測される。

[参考1]同上、820頁
以長尾越前守方、連々如承者、被属味方可被抽忠信由候哉、尤以簡要之至候、然者、西古志郡内皆以可被抱候事、不可有相違候、委細越前守方へ相断候、定可有伝語候、恐々謹言
    八月十七日              定兼
     平子弥三郎殿

・上条定兼も平子氏を味方へ誘う文書を発給しており、定兼-房長ラインともいうべき政治体制が構築されつつあったことが推測される。


[史料11]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
    八月十九日              黄博
     福王寺彦八郎殿

・「黄博」=為景は、福王寺氏らが「松苧山」=松之山を忍び取ったことを賞賛している。[史料8]において為景が福王寺氏へ指示した河東地域への攻撃が実行された結果と捉えられる。
・「黄博」の初見であり、為景が天文4年8月に入道したことがわかる。
・黄博の法名については以前の記事で検討している(長尾為景と「黄博」 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。


[史料12]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
    八月廿八日              黄博 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・松之山から柏崎方面へ進むと高柳という地名が現在も残る。松之山を攻撃した福王寺氏は琵琶嶋の戦いを援護するためそこから柏崎方面へ進軍していたことがわかる。


[史料13]『越佐史料』三巻、824頁
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
    九月廿二日              黄博 御朱印
     福王寺彦八殿

・蔵王堂の戦い。房長が軍勢を率い蔵王堂を攻撃した。詳しい経過は不明であるが、為景方が琵琶嶋の防衛に成功し房長らは後退、中郡への攻撃に転じたと推測できる。
・為景は福王寺氏へその間に敵が留守であるとして妻有・河東地域への攻撃を指示。


[史料14]同上、815頁
其地之傍輩共與同心、先衆に石坂口へ可相動候、少もらんほう狼藉致間敷候、堅可申付候、委細金子勘解由ニ申含遣候、今泉方をも指添候、能々可申合候、謹言
    九月廿四日              房長
     穴澤新右兵衛尉殿

・石坂口は現在の長岡市石坂地区を指すと推測され、蔵王堂の戦いに伴い房長が穴沢氏へも中郡への攻撃を指示したものと考えられる。



*1)『嶋津代々并庶子法号』(中村亮佑氏「米沢藩上杉家家中『嶋津家文書』について」文書館紀要第三十号)

長尾為景と「黄博」

2024-09-23 21:14:19 | 長尾為景
長尾為景発給文書の中には「黄博」署名の文書が存在する。下掲[史料1~3]の3通が該当の文書であり、全て『歴代古案』なる謄写本に伝来している。ただ、「黄博」の所見は全て福王寺氏へ宛てられるという偏りがあり、『古案』についても謄写本という性格を考慮する必要がある。今回は、為景の名乗ったとされる入道名「黄博」に関する諸問題について検討する。結論から言えば、為景は天文4年8月に入道し黄博を名乗り、その後天文5年5月までに絞竹庵張恕へ改名したことが推定される。


[史料1]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
    八月十九日          黄博
     福王寺彦八郎殿


[史料2]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
    八月廿八日          黄博 御朱印
     福王寺彦八郎殿

[史料3] 『歴代古案』第四、1340号
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
    九月廿二日          黄博 御朱印
     福王寺彦八殿

1>「黄博」署名の真偽
まず、『古案』における「黄博」署名の信頼性、正確性について考えたい。『歴代古案』は謄写本であり、原本を書写したものを集成した史料であることから書写した際の誤記などの可能性も考えられる。実際、同史料の署名では多少の誤記が見られる。例えば為景の入道名について、絞竹庵張恕は「譲恕」とされ、桃渓庵宗弘は「宗張」と記されている。「黄博」についても原本の記載であったかどうか、すぐには信頼できないと感じる。とはいえ『古案』の誤記は漢字の一文字程度で、概ね史実に沿っている。全く根拠がない中で「黄博」が記載されたとも考えにくい。

このような問題点を解決するために『古案』の成立過程や編纂事情を考える必要がある。『古案』は羽下徳彦氏、阿部洋輔氏、金子達氏による編集のもと翻刻が出版されている(*1)。同書の解題にて編集者らにより『古案』に関する考察がまとめられている。それによると、作成者は米沢藩関係者であり、成立時期は確定できないものの米沢藩の修史事業が進められた元禄年間と想定されている。ここで「黄博」署名を含む福王寺文書についても言及されている。『古案』は同時期に米沢藩で編纂されたいわゆる『御書集』と内容が重複する部分があり、福王寺氏文書も全32点のうち29点が双方に記載されるという。そして、『古案』にのみ記載され『御書集』から除外された3点が「黄博」署名の文書である。つまり、福王寺氏に伝来した文書を藩へ提出させ書写し集成する際、「黄博」署名が不詳の人物とされ『御書集』への記載は不適当と判断されたというのである。ここから「黄博」署名は書写の段階での誤記ではなく、実際に福王寺氏の家伝文書に記されていたことが確実といえる。よって、為景が「黄博」として福王寺氏宛に文書を発給した可能性は極めて高いといえる。

2>「黄博」文書の年次比定
続いて、黄博として発給された[史料1~3]の年次比定を行いたい。まず、[史料3]については上田長尾房長との抗争を検討した上で天文4年9月であると推定した (以前の記事)。[史料1、2]も[史料3]と近接した時期のものと考えると天文4年8月、もしくは天文5年8月が想定される。

その前後の文書を見てみると、天文4年8月2日長尾為景書状(*2)まで「為景」署名であり、天文5年5月7日長尾張恕書状(*3)において入道名「張恕」が初見される。つまり、[史料3]が天文4年9月である点はと矛盾はなく、[史料1、2]については天文4年8月であれば前後の文書群とも署名の上では整合性がとれることがわかる。

では文書の内容における整合性についても見ておきたい。[史料1]では、黄博が福王寺氏らの「松苧山」=松之山攻撃を賞している。さらに、[史料2]では「高柳口」での福王寺氏らの軍事行動を賞している。高柳は松之山から柏崎方面へ進んだ所に位置する。日付も近い2通が一連の軍事活動であったことは疑いない。そして両通が天文4年8月であれば、同年8月2日長尾為景書状(*2)において「河東江為忍足軽可為放火候」とある点が注目される。すなわち、8月2日の文書(*2)で為景から河東地域への攻撃を指示された福王寺氏は[史料2]の出された同月19日までに同地域の松之山を攻撃し、さらに[史料3]の同月28日までに高柳まで進軍したと考えられる。このように、文中の内容からも天文4年8月として矛盾はなく、むしろ同時期の為景方として活動する福王寺氏の動向を明らかにするものであると考えられる。

3>「黄博」を名乗った意味
上記での年次比定を踏まえると、長尾為景は天文4年8月2日以降、同月19日までに入道し黄博を名乗ったことが明らかとなる。そして、天文5年5月7日までにさらに絞竹庵張恕へ改めている。これら名乗りの変遷についてその意義を考えたい。

まず、これらに上条定兼・上田長尾房長・中条藤資らとの抗争である天文の乱との関係は無視できず、同乱の経過が名乗りの変遷に繋がったことは前提として間違いないだろう。具体的には事実上の越後上杉氏のトップであった上条定兼との直接交戦するにあたり、為景の軍事行動は秩序に反した行動として捉えられる可能性があり何らかの形で責任を取る必要があったと考えられる。これは、守護上杉房能死亡後に為景が一時的に入道し桃渓庵宗弘を名乗った事例と同様のものと推測できる。黄博の所見はごく限定的であり、桃渓庵宗弘と同じくその使用は一時的なものであったと想定され、張恕が初見される天文5年5月までに再び為景を名乗っていた可能性は否定できない。

ちなみに、黄博を名乗った時期には特に琵琶嶋の戦いと呼ぶべき合戦の最中であった。琵琶嶋は為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点であり、交通の要衝でもあった。琵琶嶋の攻撃は上条定兼のほか、長尾房長など天文4年5月の時点(*4)で上条に集結していた軍勢が参加していたと考えられ、反為景方の大規模な攻勢であったことが想定される。黄博の初見は琵琶嶋への攻撃を福王寺氏へ報告した直後のことであり、この戦いの詳細な経過は明らかでないがその趨勢が影響した可能性はあるだろう。

その後情勢は変化し、天文の乱は為景の勝利で確定的となるわけだが、為景は政治的な思惑のもとで改めて絞竹庵張恕を名乗ったと推定する。やはり天文5年4月の上条定兼の死去に配慮するという側面があったと考えられよう。形骸化していたとはいえ、当時の秩序において越後守護上杉氏の優位性は依然として残っており、為景としてもそれに対する政治的な対応が必要であったのであろう。



ここまで、長尾黄博の所見に関する諸問題について検討した。その結果、天文の乱において上条定兼、上田長尾房長らとの抗争を繰り広げる最中、天文4年8月に為景が入道し黄博を名乗ったことを指摘した。その後、天文の乱終結に伴い、天文5年5月までに絞竹庵張恕へ名を改めていたことも併せて明らかにした。いずれの入道名においても、越後上杉氏の事実上のトップであった上条定兼との抗争に伴う配慮があったことを想定した。


*1)『歴代古案』、八木書店
*2)『越佐史料』三巻、817頁
*3)同上、805頁
*4)同上、807頁

上田長尾房長の乱に関する検討

2024-08-24 16:55:06 | 長尾氏
長尾房長は永正期から天文期にかけて活動した上田長尾氏の人物である。越後守護代長尾為景とは当初良好な関係を築いていたが、天文の乱において上条定兼、中条藤資らと共に反旗を翻す。天文期における房長と為景の抗争については多数の文書が残る一方で、年次推定など細かな検討は進んでおらずその全貌は掴みづらい印象がある。今回、天文の乱に端を発した長尾為景と上田長尾房長の抗争を主眼におき、文書群をもとにその経過について検討していきたい。一連の抗争は後年の長尾政景の乱と対比し、長尾房長の乱と呼んでおきたい。

1>天文期以前の両者の関係
永正6年7月に山内上杉可諄が越後へ進軍し、長尾為景らを越中へ敗走させる。この抗争において、房長の叔父で先代にあたる上田長尾顕吉は山内上杉氏方として見える(*1)。しかし、為景らの反攻により可諄は永正7年6月に戦死する。この際に上田長尾氏が寝返り退路を断ったとの俗説があるが、それを示す史料はなく以前検討したように前後の状況からも史実とは考えられない(長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。永正7年11月に顕吉が後継者房長を越後府中へ出仕させており、同時期に為景へ帰属したことが推測される(*2) 。これ以降は越後国内の情勢は安定しており、顕吉から代替わりした房長も為景方として活動している。

2>天文の乱における抗争
比較的安定した為景の治世のなかで、房長が反抗するに至るのは上条上杉定兼(定憲)が挙兵した天文の乱においてである。当乱において、両者の交戦は天文2年9月より所見される(*3)。同年10月居多神社宛長尾為景書状(*4)に「當敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類速退治」とあることから、房長が揚北衆中条氏らと共に定兼へ与しその旗幟を鮮明としたことは明らかである。この房長の行動は国内の所領や利権の都合もあるだろうが、房長の母が上条氏出身と考えられるためその血縁関係が定兼との共闘に関係した可能性がある(上田長尾氏の系譜1 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。

天文2年9月以降、天文3年中においても為景と定兼の抗争は続き史料上は頸城郡を中心にその軍事的衝突が認められる(*5)。天文4年5月になり定兼方の勢力が結集し、妻有衆、薮神衆や宇佐美氏、大熊氏と共に上田長尾氏の軍勢が定兼の本拠鵜川庄上条へ参陣したこと同月長尾為景書状(*6)からわかる。後述するが同年7月坂戸城近辺で生じた五十澤口の戦いについて房長は「注進到来」(*7)として把握しているから、房長自身が坂戸城を留守にして上条へ出陣していたと考えられる。敵が上条に集結した事態に際し、為景は下倉城福王寺彦八郎、波多岐庄下平氏に「河東」への攻撃を命じている(*6)。「河東」とは信濃川右岸、現在の十日町市の信濃川以東の地域を指すと推測されている(*9)。これらから推測される点は、上田長尾方の勢力圏が自身の拠点上田庄と妻有、薮神で構成されていたということである。為景方の前線は福王寺氏の下倉城、下平氏らの十日町であり、地図に当てはめれば両者の前線は噛み合うこととなる。山内上杉氏の影響下にあった妻有、薮神と上田長尾氏の関係は天文期まで続いたといえる。

さて、この後為景は同年6月に治罰の綸旨を獲得し(*10)し、政治的な対応もこなした上で揚北衆も従えた上条定兼軍の進行を迎え撃つ準備に追われていたと考えられる。その中で上述の為景方と房長方の境界も緊迫度を増す。

天文4年7月17日までには「五十澤口」にて両勢力が衝突し古藤清雲軒ら房長方が勝利し為景方下平次郎太郎が戦死している(*11)。五十澤という地は坂戸城の麓にありこの時は為景方の下平氏らが攻勢に出たところを房長方の古藤氏らが迎撃したという構図が想定される。そして、この勝利を受けて同月房長は穴澤新右兵衛尉に下倉城を攻めることを命じている(*12)。同書状には「上条之者共令同心」とあるが、これは上条上杉氏ではなく穴澤氏の近隣の広瀬上条の地侍=「広瀬契約中」を指すと思われ、房長が薮神の在地勢力を味方につけていたことがわかる。

同年8月には上条定兼が平子弥三郎を味方に誘い、房長、中条藤資ら揚北衆からも同様の内容の書状が送っている(*13)。また、房長は同年9月22日までに古志郡蔵王堂周辺を攻撃したことが同日長尾張恕書状(*14)からわかる。上条定兼や揚北衆と連携しながら、中郡の為景方の勢力へ圧力をかけていたことが想定される。また、同書状で為景は福王寺氏へ敵は出陣中で留守となっているだろうから「妻有・河東」を焼くように、と命じている。同書状は従来天文5年とされてきたが、後述のように天文5年9月では房長は下倉城周辺において劣勢となっており中郡蔵王堂まで進軍することは困難であったと思われ、天文4年9月のものと考えられる。

しかし、同年9月に揚北衆の首魁中条藤資が病気となりそのまま死去し、定兼の軍勢は維持が困難となったと思われる (中条藤資の動向3 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。房長も定兼方の軍事力が低下したことを見て、自領へ帰還したことが推測される。翌年4月に定兼が死去したことが『越後過去名簿』に記載されていることから定兼は戦没した可能性が高く、これを以て天文の乱は為景の勝利で終結したと考えられる。

ここまで、房長は上条定兼らと共に為景に反抗し、上田庄から出陣し上条や蔵王堂など上郡から中郡にかけて軍事行動を展開しながらも、内部事情も絡んで上条方が不利となったために上田庄への退陣を余儀なくされたと考えられる。また、五十澤の戦いなど房長の留守中における上田庄を巡る戦闘も確認できた。

3>天文5、6年における抗争
上条定兼と長尾為景の抗争=天文の乱が終結した後も、房長と為景の対立は継続する。天文5、6年における両者の抗争を示す史料は多数残るがまずそれら文書の年次比定が必要であり、ポイントは署名となる。入道以前の「為景」としての終見は天文5年3月長尾信濃守宛柳原資定書状(*15)である。従来天文5年8月に為景から晴景に家督が相続され同時に入道したと考えられてきたが、前嶋敏氏の研究(*16)などにより正しくは天文9年8月であったことが指摘され必ずしも入道が天文5年8月というわけではなくなったが、私は入道の契機は天文5年4月頃上条定兼の死去にあったと以前に推測した(長尾為景から晴景への家督相続について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。そうであれば「為景」なら天文5年4月以前、「入道絞竹庵張恕」であれば天文5年月以降となる。このような現状を把握した上で当抗争に関する文書群をみていくと概ね矛盾なく成立するため、以下で具体的に整理していく。

まず、通説を確認する。『増補改訂版上杉氏年表』(*9)では、天文5年8月に福王寺氏、山吉氏らが上田長尾氏と戦い、9月には上田長尾氏が古志蔵王堂まで進攻したとする。翌年1月には大沢を上田長尾氏が攻撃したため、翌月福王寺氏らが広瀬で合戦に及んでいる。広瀬合戦では前年12月には為景方の調略により内応した江口氏も活躍した。5月には上田長尾氏が下倉城を包囲したが為景は中郡の諸将によって兵糧運搬を試みる。8月になっても状況は好転しなかったが、為景が娘仙洞院を上田長尾政景に嫁がせることで講和したとする。以上が通説であるが、房長有利の情勢で講和に至ったという印象である。これは為景の入道を天文5年8月以降とした結果であり、天文5年4月以降とした上で抗争の経過を再構成してみたい。つまり天文6年4月~8月とされていた文書が天文5年4~8月であった可能性があり、実際には上記通説とは異なる経過であったと思われる。

[史料1]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動、重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候爰元も造意等申追候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合、其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言、
    五月七日              張恕
     林部右京殿
     福王寺彦八郎殿

[史料2]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候之間、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
    五月八日              張恕
     福王寺彦八郎殿

[史料3]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦、得勝利凶徒数多討捕段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言、
    九月三日              張恕
     福王寺彦八郎殿


まず、[史料1][史料2]に見える天文6年5月とされる房長による下倉城包囲を天文5年5月と推測する。文中からは兵糧も逼迫するほど房長方の攻勢は激しく、この後間もなく講和するような戦況だろうか。天文5年5月であれば天文の乱直後でもあり、房長の攻勢が活発である一方、為景が頸城郡の鎮静化に追われ下倉城への援助が行き届かない状況も理解できる。年不詳5月12日福王寺彦八郎宛長尾張恕書状(*17)には「兵糧以前申付候」とあることから[史料2]で兵糧搬入計画を伝えた直後と想定される。同内容の5月12日下倉山在城衆宛長尾張恕書状(*18)も同日に比定される。8月4日長尾張如書状(*16)では以前「当口無手透、其口行延来計」と自身の出陣が叶わないことを、遅くなっているが下郡諸将へ援軍を要請していること、下郡諸将が動かない場合は黒田秀忠を派遣することを述べている。すなわち、これらの文書は天文5年5月から8月にかけての文書であったと推定される。

上述の5月12日張恕書状(*17、18)では「栃尾事連々ニ申越子細」とあり、年不詳7月長尾房長書状(*19)では栃尾城を古藤清雲軒が守備していることが明らかであるから、天文5年5月頃に房長は下倉城に圧力をかけながらさらには栃尾城を攻略していたことがわかる。上記張恕書状(*17、18)からは為景が古志上杉氏と相談して栃尾地域の奪還を目指していた様子がわかる。

続いて、 [史料3]をみると山吉政久らが下倉城へ派遣され同城を攻める房長方と交戦し撃退している様子が見える。三条の山吉氏らこそが[史料2]で伝えられていた中郡からの援軍ではないか。つまり、[史料1][史料2]を受けて為景が山吉氏ら援軍を派遣し[史料3]にある下倉城救援を行ったと考えられ、同文書は天文5年9月と推測できる。従来、この頃とされてきた房長の蔵王堂攻撃はこのような下倉城での敗戦を考えれば難しいと考えられ、先述のように天文4年9月のことと想定される。

天文5年11月には為景から福王寺氏へ「於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候」、「上田庄において彼者共相當之地可宛行候」(*20)と述べられ、為景方から房長の味方へ調略が仕掛けられていたことがわかる。同年12月21日長尾張恕書状(*21)にて江口藤五郎が「今度於其口露色被復先忠」と調略に応じ下倉城の防衛を為景から命じられており、天文6年1月13日長尾張恕書状(*22)には発智大学助が味方として見えるから、為景方の反攻に伴い薮神の領主の中に為景へ帰属する者がいたことが明らかである。

天文6年1月18日には下薮神の大沢城が房長方により攻略され、大沢伊豆守が戦死する(*23)。『越後入広瀬村編年史』は大沢氏も江口氏と同様に為景の調略に応じて房長方から為景方へ転じた領主と推測している。つまり、この房長の攻撃は相次いで離反する領主らへの報復であり、薮神での影響力低下を打開するためのものだったと考えられる。これに対し為景方の福王寺氏、江口氏らが反撃し、2月21日広瀬の戦いにおいて房長方を破っている(*24)。

これまでの年次推定を踏まえると、これ以降は抗争に関する所見はない。薮神における為景方の勝利が決め手となり、まもなく為景と房長の間で講和が結ばれたと見てよいだろう。史料はないがその後も状況から栃尾を始めとする古志郡における房長の占領地も奪還もしくは返還されたと推測される。

まとめると、天文の乱終結後も為景と房長の抗争は継続し、天文5年5月から7月にかけて房長が活発な軍事行動を見せ栃尾城を落とし下倉城も包囲するが、9月に山吉氏らの援軍が派遣され為景方が反撃を見せ、年末頃には江口氏など薮神の領主も味方につけるなど為景方が有利な状況へと展開していった。天文6年2月の広瀬の戦いにおいて挽回を目指した房長と為景方の決戦となり、それに為景方が勝利したことで講和へと至ったと考えられる。

史料が不足しているため、講和条件については不明である。

為景と房長の抗争は古志郡や下倉など薮神を中心とし、上田庄や妻有庄へは依然として房長の影響力が色濃く残ったと思われる。為景は天文の乱直後で国内の鎮静化が最優先であったと思われ、この講和は房長を完全に屈服させたわけではなかった。よって、為景の優勢を以て講和に至ったと考えられるが、上田長尾氏の勢力は維持され、それがのちの長尾景虎と上田長尾政景の抗争へとつながっていくと考えられる。



*1)『新潟県史』資料編4、1630号
*3)『新潟県史』資料編4、1556~1558号
*4)『越佐史料』三巻、794頁
*5)同上、 796~799頁
*6)同上、807頁
*7)同上、813頁
*9)『増補改訂版上杉年表』、池亨・矢田俊文編、高志書院
*10)『越佐史料』三巻、808・809頁
*11)同上、813頁
*12)同上、814頁
*13)同上、818~820頁
*14)同上、824頁
*15)同上、828頁
*16)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』第808号)
*17)同上、806頁
*18)同上、806頁
*19)同上、816頁
*20)同上、825頁
*21)『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
*22)『越佐史料』三巻、800頁
*23)同上、801頁
*24)同上、803~804頁
*25)『上越市史』別編1、18号

※24/8/30 追記  25/1/18リンクを追加
年不詳7月22日長尾房長書状(越佐史料3-816)に見える古藤清雲軒の「新山」攻略を天文5年7月に比定していたが、その後検討した結果天文4年7月であるという考えに至った。そのため、天文5年7月の「新山」攻略についての記述を削除し栃尾城を巡る状況についての記述を一部変更した。「新山」攻略の詳細については、下記の[史料7]で提示している。

※25/1/28 追記
上田長尾政景と長尾為景の娘仙洞院の婚姻を天文6年の講和を契機としたものと推測していたが、その後検討した結果天文18年10月から翌年にかけてのことであったという考えに至った。そのため、仙洞院に関する記述を削除した。


赤堀上野介の動向

2024-08-04 20:49:51 | 赤堀氏
赤堀氏は上野国佐位荘(淵名荘)赤堀の領主である。秀郷流藤原氏の流れを汲む一族という。戦国期には越後上杉氏、横瀬由良氏、小田原北条氏といった大勢力の間で活動を見せる。赤堀氏は近隣の有力領主であった厩橋長野氏や由良氏、厩橋北条氏を寄親としていたように、領主としての規模を大きくはない。しかし、在地勢力として根を張る彼らの存在は決して無視できるものではなかった。このような領主の動向を検討することで当時の上野国における勢力図が詳細に浮かび上がってくると考える。今回は、特に永禄期から天正期にかけて活動した赤堀上野介(実名不明)の動向について検討したい。実名「景秀」とされることもあるが、確実な史料はなく信頼性の低い系図等の所伝にすぎないため、ここでは参考程度に留めておきたい。


1>永禄期以前の赤堀氏
観応3年(1352年)から赤堀氏の所見があり、南北朝期においても赤堀氏の活躍が見られる。その後しばらく赤堀氏の消息を伝えるものはないが、戦国期になり享徳の乱が勃発してから再び歴史の表舞台に現れる。

享徳3年に鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏の間で享徳の乱が生じると近隣の新田岩松氏、館林舞木氏らと共に赤堀下野守時綱は足利成氏方につく。享徳4年2月には赤堀氏が善氏を攻撃している(*1)。時綱は康正2年2月に深巣合戦で上杉方と戦い戦死し、嫡子亀増丸=孫太郎政綱が跡を継いだ(*1)。長禄2年になると岩松氏が上杉氏に内応するなど政情の変化があり、状況に応じて足利方から上杉方へつくこともあったようだ(*2)。結局文明・長享期において赤堀上野介=政綱は上杉方としての立場を取るようになる(*3)。

文明14年閏7月には山内上杉顕定より政綱の子彦四郎が善三河守の後継となることを認められている(*4)。つまり当時、赤堀氏と善氏は血縁的に一体のものとなったと推測される。永禄期頃においても赤堀氏と善氏の動向は概ね一致していると考えられ、両者が血縁的に深い関係あったことが想定できる。

明応3年には山内上杉顕定と古河公方足利政氏が連携し、顕定の養子として政氏の子が入るなど両者の融和が見られる。政綱が次男彦九郎を足利政氏のもとに参陣していることを示す明応6年以降の文書(*5)があるが、善氏へ入嗣した彦四郎が長子であれば彦九郎が赤堀氏の後継者であった可能性もあろう。

天文15年4月に山内上杉憲政が「赤堀上野守娘」へ川越合戦で戦死した「赤堀上野守」=赤堀上野介の名代=家督を認めている。明応期から天文15年まで約50年の空白があり、戦死した上野介は政綱ではなく、後代の人物である。詳細な系譜関係は不明である。こののち時期はわからないが、上野介娘から赤堀氏の家督を継承した人物が永禄期より所見される赤堀又次郎=上野介と考えられる。女性を挟んでの家督継承の形であることから、上野介(永禄期)は戦死した上野介と父子関係ではなく、庶流から家督を継承した存在と想定される(*6)。


2>赤堀上野介の動向 -謙信の在世期-
永禄3年秋に越後長尾景虎が山内上杉憲政と共に関東へ出陣し、参陣した諸将の書き上げとして永禄4年初頭に『関東幕注文』が作成された(*7)。その中に横瀬成繁傘下(=新田衆)の同心として「赤堀又次郎」が見える。以降に見える上野介の前身だろう。上野介の後継者が又太郎を名乗ることから見ても妥当と考える。

享徳の乱以降の戦乱において地理的関係から金山城を拠点とした新田岩松氏とその家宰横瀬氏の影響は大きかったと思われ、その傘下として編成されたと見られる。しかし、それも状況によっては変化したようで、天文10年に厩橋長野賢忠、深谷上杉憲盛、那波宗俊らが横瀬泰繁を攻めた際に、当時横瀬氏の同心であった善氏、山上氏が横瀬氏を離反し厩橋長尾氏へ帰属し、その後永禄3年の長尾景虎越山までその状況が続いていたという(*8)。「関東幕注文」の時点で善氏、山上氏は新田衆に見えるため、永禄4年初頭までに横瀬氏に再び帰属したことになる。久保田順一氏(*9)は厩橋長野氏が長尾景虎に軍事的抵抗を見せたため、その間に善氏ら同心は厩橋長野氏から離反した可能性を推測している。赤堀氏については史料がないが、善・山上氏と同様の経過を辿った可能性は高い。

永禄4年以降、赤堀又次郎は横瀬成繁の同心として位置づけられ活動していたと見られる。新田荘長楽寺の義哲により記された『永禄日記』には赤堀氏が所見され、永禄8年3月23日に「赤堀御料人」が22歳で死去し義哲が焼香のため赤堀に行ったことが記録されている。赤堀御料人の詳細は不明である。当時御料人は息女を指し、年齢や由良氏に属する義哲の視点から記されることなどから由良氏関係者の娘が赤堀氏へ嫁いだと見るべきだろう。義哲が知らせを受けて金山から赤堀へ向かったのも御料人が由良氏関係者であれば頷ける。もちろん「赤堀御料人」は赤堀上野介の妻であろうから、上野介と由良氏方との間には婚姻関係が結ばれていたことが想定される。

上杉輝虎が永禄9年3月下総臼井城攻めに失敗すると関東諸将の離反が相次ぎ閏8月に由良(横瀬)成繁も上杉氏を離反し小田原北条氏に帰属する。ここで善氏、山上氏は由良氏に従わず上杉氏方として残るが、同年末に北条氏政が佐野まで進軍した際に小田原北条氏に従属し、再び由良氏の同心として位置づけられた(*8)。赤堀氏の動向を示すものはないが、当時赤堀氏の周囲の由良氏、厩橋北条氏は共に小田原北条氏に服属しており、善氏らの動向と同じく永禄9年内には由良氏の元に編成されたのではないか。

永禄12年6月に越相同盟が成立すると上野国は上杉輝虎の管轄となり、由良氏も名目上は上杉氏傘下となる。由良成繁はその後も小田原北条氏寄りの立場を取っていたが、赤堀氏は永禄13年3月22日上杉輝虎安堵状(*10)において「度々譜代之筋目無拠申由、殊誓詞亦神妙ニ候」とあり、上杉氏の直臣となることを申し出て了承されている。

元亀2年末に越相同盟が崩壊し甲相同盟が復活、再び上杉氏と小田原北条氏の対決姿勢が鮮明となると、由良成繁は小田原北条氏へ味方する。一方で、赤堀氏、善氏らは由良氏に従わず上杉氏への従属を維持した。その結果、善氏は元亀3年6月に由良成繁から居城善城を攻撃されている(*11)。『関八州古戦録』はこの時に「善備中守宗次」が戦死し善城が落城したことを伝えており、この後に善氏の所見がないことからも同氏は没落したと考えられる。山上氏についてもこの後所見がないことから同時期に由良氏の攻撃を受け没落したことが想定される。女淵城についても城将沼田平八郎が上杉氏から離反し由良氏に帰属している(*12)。さらには天正元年3月には上杉方桐生城とその領域も併呑し、黒川谷の領主阿久沢氏も従属させた(*13)。ここにおいて赤堀氏は周囲を由良氏に囲まれる形となる。この際の状況について述べられているのが前回(赤堀上野介関連文書の年次比定 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で検討した元亀4年3月上杉謙信書状(*14)、同年5月上杉謙信書状(*15)である。前者において赤堀上野介が厩橋北条高広へ自身の窮状を訴え近いうちの謙信越山を要請していることがわかり、謙信は赤堀城の堅守を指示している。後者においては近日中に援軍を送るため安心してほしいことを伝え、北条高広・景広父子と相談の上赤堀城の防衛を指示している。この頃、謙信は越中方面の対応に追われ元亀4年=天正元年において関東へ出陣できる状況ではなかった。天正2年2月までに後藤勝元が越後から由良氏との前線に派遣され、敵を討取り首験は厩橋城へ送っていたことが同年2月上杉謙信書状(*16)に記される。後藤勝元が赤堀上野介へ伝えられた援軍である可能性もあろう。

しかし、謙信の激励も届かず赤堀氏も小田原北条氏、由良氏方へ従属したと考えられる(*17)。その契機は天正元年7、8月の北条氏政の上野国出陣であろう(*18)。同年8月1日には氏政が厩橋を攻める動きを見せており、赤堀氏もこの際の圧力に屈して小田原北条氏へ帰属したことが想定される。永禄9年末における善氏や山上氏らの事例を踏まえると、やはり従来の関係性により由良氏の同心とされたのではないか。

上杉謙信は天正2年1月26日になって関東出陣の陣触れを出し2月5日に沼田に着陣した(*19)。同年3月10日北条高広書状(*20)において「赤堀・善・山上・女淵属御手」とあり、この時までに由良氏から赤堀城、善城、山上城、女淵城を奪還したことがわかる。ちなみに、同年3月13日上杉謙信書状(*21)では「善・山上・女淵付落居候」と諸城の攻略を伝えているが、赤堀城について記載はない。善・山上・女淵城は善氏・山上氏ら領主層の没落と由良氏の家臣の入城が想定されるため謙信に対して抵抗を見せたことが推測できるが、赤堀上野介は周辺勢力の中では最後まで謙信へ従っていた存在であり、他城とは異なり越山した謙信に呼応して積極的に再従属したのではないだろうか。

この天正2年初頭の攻勢によって謙信は女淵城へ後藤勝元、善城へ河田九朗三郎(後に備前守)、山上城へ倉賀野尚行、新たに築城した今村城那波顕宗が配属され(*22)、深沢城阿久左馬助も上杉氏へ帰属しており、赤堀城赤堀上野介も彼らと共に小田原北条氏、由良氏への防衛線として機能していくこととなる。天正2年7月赤堀上野介宛上杉謙信書状(*23)はこのような中で発給された文書である。

その後、天正2年8月には北条氏照の厩橋・大胡攻め(*24)などの小田原北条氏との攻防も見られるが、謙信死去まで赤堀城周辺の勢力図は大きくは変わっていない。天正4年2月(*25)、同年7月(*26)に由良成繁による善城攻めが確認されるが、謙信死去まで善城は上杉方であるから赤堀氏ら一帯の武将の防戦により由良氏を撃退した状況が想定される。女淵の地衆北爪氏が記した『北爪大学覚書』(*27)には「赤堀ノ御働ノ時首壱ツ取申候」などと北爪氏が上杉氏方として活躍したことが記され、年不詳ながら赤堀城を巡って合戦があった可能性が示唆される。『群馬県古城塁址の研究』はこれをもって天正2年3月に赤堀氏が上杉氏へ帰属した際に合戦があったと推測するが、時系列で記される同覚書の中で上記は天正2年閏11月に上杉謙信が羽生城衆を引き取った記載の直後に記されているため、それ以降のことと想定される。先述の通り天正2年3月において赤堀城での合戦は明らかでなく、また同地域一帯が由良氏・北条氏へ帰属していた状況で女淵を拠点とする北爪氏が上杉氏方として活動していたとは考えにくいという点などからも、同記載は史料に現れない由良氏と上杉氏方の境界線における紛争を示していると思われる。

3>赤堀上野介の動向 -謙信死後-
さて、このような状況が一変したのが上杉謙信の死去である。越後国内では上杉景勝と上杉景虎が対立し御館の乱が勃発し、景虎の実家小田原北条氏も積極的に介入する姿勢を見せる。上野国へも北条氏の影響力が強まり、天正6年6月には白井長尾憲景、厩橋北条高広・景広、河田重親らが同氏へ従属し、同年7月には北条氏方が沼田城を攻略している。天正7年5月北条氏政条書写(*28)には善城は「去冬沼田本意依頼属味方」とあり、「赤堀之地」は善と同様と記される頃から、沼田城が小田原北条氏に攻略された天正7年7月頃に赤堀上野介も当時の善城主河田備前守らと共に同氏へ帰属したとわかる。また、同条書には両氏を従来の通り由良氏の「馬寄」=同心とするともあり、やはり赤堀上野介は由良氏(当時は成繁の次代国繁)の同心と位置付けられた。

しかし、天正11年3月北条芳林(安芸守高広)覚書(*29)には当時小田原北条氏から離反し、上杉景勝と交信していた北条芳林が自身の支配領域として「大胡・山上・田留・赤堀」が挙げられており、当時赤堀上野介が厩橋北条氏に従属していたことが推測される。このような状況に至った経緯として武田勝頼の上野国への攻勢が想定される。天正7年、上杉景勝と同盟を結んだ武田勝頼は、上杉景虎を支持した小田原北条氏とは断絶することとなり、以降両氏の間で抗争が開始される。天正7年8月に厩橋北条氏が武田氏へ従属し、翌年5月には沼田城も武田氏が攻略している。その中で勝頼は天正8年9月に上野国へ出陣し新田領を始めとする東上野を攻撃し、善城を攻め落とし河田備前守を討取っている(*30)。赤堀氏周辺は武田氏の影響力が強まったことが想定され、同時期に赤堀氏は武田氏へ従属し厩橋北条氏の同心として位置づけられた可能性が考えられる。同時期玉村の領主宇津木氏が厩橋北条氏の同心と推測され (*31)、赤堀氏も同様の形態であったと考える。そして天正10年3月に武田氏が滅亡すると、厩橋北条氏は滝川一益に帰属した。この間、赤堀上野介は厩橋北条氏の同心として行動を共にしていたことが想定される。当時の厩橋北条氏は戦国大名である上杉氏や武田氏に従う有力な国衆として存在し、以前赤堀氏が従属していた厩橋長野氏、由良氏と同質の存在といえる。つまりこの頃においても、大名クラス-有力国衆-中小領主である赤堀氏、という階層構造が大きく変わることはなかったといえる。

天正10年6月に本能寺の変が生じ滝川氏が没落すると厩橋北条高広は一時小田原北条氏へ従属したものの、同年11月には上杉景勝へ接近し小田原北条氏から離反した。このような状況で発給されたものが天正11年3月北条芳林覚書(*29)であり、上杉景勝重臣直江兼続に対して関東出陣を要請し、自らの支配領域として大胡、山上、赤堀などの守備に努めることを伝えている。厩橋北条氏は天正11年9月に小田原北条氏に降伏し、厩橋城を没収の上小田原北条氏に服属する(*32)。赤堀氏もこの時までに小田原北条氏への帰属を遂げたと考えられる。『石川忠総留書』「牧和泉守事」(*33)には赤堀上野介の嫡子又太郎が白井長尾氏家臣牧和泉守の聟であったことが記され、天正11年10月には東上野に在陣する北条氏直に赤堀上野介が牧氏は自らの赤堀城に居住していることを言上したことが伝えられる。赤堀氏の姻戚関係と厩橋北条氏降伏直後の動向が記されていて興味深い。

天正11年以降赤堀上野介は、小田原北条氏に直接に従属関係を結ぶ関係となり、黒田氏により大名クラスへの「旗本化」として指摘されている(*34)。以降も赤堀氏が由良氏や厩橋北条氏らの傘下となることはなかった。これまでの国衆の傘下として位置づけられる立場からの脱皮を遂げたと捉えられる。

天正13年北条朱印状(*35)に厩橋城の在番を宇津木下総守、高山彦四郎らから「赤堀上野」ら3人に交代するように指示がある。小田原北条氏の元で自らの赤堀城だけでなく、主要な城郭への在番が求められたことがわかる。宇津木氏らは在番を交代したのちは「可致参陣」とあり、同様に赤堀氏に対しても北条氏の軍事行動への従軍が求められていたことであろう。こういった北条氏からの直接の指示は大名への「旗本化」を示すものであろう。

天正16年12月北条氏邦書状(*36)、同日北条氏直書状(*37)で赤堀又太郎が利根郡阿曾城に在番することとなったことが記されている。この時までに上野介からその嫡子又太郎へ代替りしていたことがわかる。その後天正18年に至り、小田原北条氏の滅亡と共に領主としての赤堀氏は没落したと考えられる。



ここまで永禄-天正期に活動した赤堀上野介を中心に検討した。赤堀氏のような規模としては大きくない領主が戦国大名、有力国衆の動向に大きく左右されながら存続していく様子が理解される。これは中小領主がより自身の維持のためには大規模な勢力を頼る必要があることを示すと同時に、国衆や大名クラスにおいても在地の領主を味方とすることが地域支配の鍵となっていたことを示唆している。赤堀氏の動向は戦国期における境目における支配、紛争などを考える上で貴重な一例であるといえよう。


*1)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、21号
*2)同上、28号
*3)同上、36~45号
*4)同上、41号
*5)同上、46号
*6)女性が家督を相続した例では越後水原氏が挙げられるが、同氏では水原景家の戦死後息女祢々松が相続し、その後伯父政家が継承している(大見水原氏の系譜 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。
*7)池上裕子氏「『関東幕注文』をめぐって」(『上杉謙信』戒光祥出版)
*8)『戦国遺文後北条氏編』補逸編、4899号
*9)久保田順一氏「『関東幕注文』と上野国衆」(『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院)
*10)『新潟県史』資料編5、4035号
*11)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、445号
*12)『新潟県史』資料編5、3551号
*13)黒田基樹氏「阿久沢氏の動向」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*14)『新潟県史』資料編3、927号
*15)同上、928号
*16)『新潟県史』資料編5、3414号
*17) 同上、3773号
*18) 同上、3444号
*19) 同上、3414号・4020号
*20) 同上、3773号
*21) 同上、3551号
*22)栗原修氏「上杉氏の勢多地域支配」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*23)『新潟県史』資料編3、929号
*24)『戦国遺文後北条氏編』2巻、1718号
*25)『戦国遺文後北条氏編』3巻、1833号
*26)『金山城と由良氏』、291号
*27)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、1124号
*28)『戦国遺文後北条氏編』3巻、2067号
*29)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、807号
*30)同上、661号
*31)同上、622号
*32) 栗原修氏「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*33) 黒田基樹氏「白井長尾氏の研究」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*34) 黒田基樹氏「由良氏の研究」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*35)『戦国遺文後北条氏編』4巻、2832号
*36)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、938号
*37) 同上、879号


赤堀上野介関連文書の年次比定

2024-06-29 20:29:06 | 赤堀氏
ここで扱う赤堀上野介は永禄期から天正期にかけて上野国赤堀を拠点とし活動した人物である。戦国期赤堀氏は越後上杉氏や小田原北条氏といった大勢力や近隣の有力国衆金山由良氏との境目に位置し、その動向はそれらの勢力と大きく関係していた。今回は、赤堀上野介に関わる三通の書状について年次比定を試みてみたい。


 [史料1]『新潟県史』資料編3、927号
其元無力之旨無余儀候、因茲北条丹後守所に具申越候、近日可為越山候条、其内堅固之仕置専一候、猶万吉重而候可申越候、謹言
    三月廿三日        謙信
      赤堀上野守殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、928号
上表存分之儘ニ有之而納馬候、定而可為大慶候、扨亦其元無別義由簡要候、雖無申迄候、北条父子有相談、堅固之備専一候、謹言
追而、無力ニ付而、合力之義申越候、委細令得其意候、近日可差遣候間、可心安候、以上
    五月十八日        謙信
      赤堀上野介殿


[史料1]、[史料2]は「無力」につき援軍を要請している点から両通は同じ年のものと見られる。「謙信」の署名から元亀元年末以降であり、越相同盟が崩壊し由良氏と敵対する元亀2年末以降、[史料2]「上表存分之儘ニ有之而納馬候」からは4月21日(*1)に越中から帰国した元亀4年の書状と考えられる。元亀4年に謙信の関東出陣はないが、赤堀氏の越山要請に対し[史料2]にて「近日可差遣候」、援軍派遣の検討のみと自らの越山は明言していない点から矛盾はない。天正5年にも5月までに「属加州御手」(*2)と述べられるように越中方面から帰国している状況があるが、この時はすぐに謙信が越山し5月14日には「明々之内新田足利表へ可揚放火候」(*3)と軍事行動に及んでいる様子が明らかであるから、謙信が越山せず劣勢にある[史料2]の内容と合わないため天正5年ではないことがわかる。よって、[史料1]は元亀4年3月、[史料2]は元亀4年5月に比定される。当時は由良氏の攻勢が強まり近隣の味方であった善城、女渕城が落とされており、赤堀氏にとってはまさに「無力」といった状況であったのであろう。


[史料3]『新潟県史』資料編3、929号
為音信樽肴到来、目出喜悦之至候、仍其表之備、弥々堅固之由簡要候、雖無申遣候、皆共令談合、可然様之防戦専一候、初秋ニ者、早々越山候間、可心安候、猶北条弥五郎可申越候、謹言
    七月十八日       謙信
      赤堀上野介殿

[史料3]は謙信署名と由良氏との敵対以降の元亀2年末以降、北条景広が丹後守として初見される天正2年11月までの書状である。ここでは「其表之備、弥々堅固之由」とあり、劣勢を訴えていた[史料1、2]と異なり、上野介は赤堀城の防御は十分であることを謙信へ伝えていたことが推測される。元亀4年であれば、7月には北条氏政自身が上野国へ出陣する(*4)など状況は悪化しており、より積極的に劣勢を訴え援軍を求めて然るべきである。つまり、北条氏、由良氏の攻撃を受け窮状に瀕していた元亀3、4年ではなく、天正2年3月に上杉謙信の越山により善城や女淵城を奪還し赤堀周辺が一定の安定を得た後と推測する。天正2年8月には謙信が関東へ再び出陣しており(*5)、「初秋ニ者、早々越山候」という一文にも一致する。さらに「皆共令談合」とある点も、善城や山上城、女淵城に入城した上杉氏家臣との相談を指示しているとすれば自然である。よって、[史料3]は天正2年7月に比定されると考える。


今回は赤堀上野介に関する書状の年次を推測した。その上で次回、上野介の動向について詳しく検討していきたい。


*1)『越佐史料』5巻、152頁
*2)同上、371頁
*3)『上越市史』別編1、1336号
*4)『戦国遺文』後北条氏編、1660号
*5)『越佐史料』5巻、236頁

※24/7/9 史料の刊本における通し番号に誤りがあったため修正した。