鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

伊達入嗣問題2 小泉庄を巡る抗争

2023-11-12 12:20:34 | 長尾為景
今回は伊達入嗣問題と関連した小泉庄を巡る抗争を検討していく。前回検討したように長尾氏と伊達氏間の入嗣交渉が決裂し時宗丸が守護継承者であることを大義名分に稙宗が軍事行動に及んだ、というのが大筋である。

まず、『平姓本庄系図』に記載されるように天文8年11月に伊達稙宗が小泉庄に侵攻し、小河氏らを味方にとし本庄房長を敗死させ同庄に伊達氏の影響力を強めたことは前後の状況から見て確かだろう。ただ、長尾氏と伊達氏の抗争だけでなく、小泉庄を中心とした領主や土豪層の在地的な紛争が存在したことを見逃せない。

[史料1]『新潟県史』資料編4、1439号
今度揚河北不慮之題目出来、以後中弾并黒兵へ度々覚悟旨申越候処、無相違返章、依之重申届候、然者此刻可被抽忠節事可為簡要候、各同心之上、頓速可披露其色候、恐々謹言、
九月十四日     絞竹庵張恕
築地彦七郎殿

天文8年9月に「揚河北不慮之題目」なる事態が生じ、「中弾并黒兵へ度々覚悟旨申越候」とあるように絞竹庵張恕(為景)が中条弾正忠や黒川清実ら協力を促している。

[史料2]同上、1081号(*1)
如来意之、雖未申通候、乍御返事申達候、仍不慮之再乱出来、然者御正印早速御帰庄、吾々迄も目出存計候、就之、従芸州両度正印所へ御懇書忝之由被申候、委曲可被及直報候、随而女川之事、如承候、御内意も候つる歟、先年井上将監并彼谷中之面々、様々被申旨候条、難捨被存、遠江存世之時、被任其意、至于当代迄、毛頭無如在被抱置候、内々御正印御本意之上可被返進候処、今度女川之面々、兼日理之無首尾候条、傍輩共申旨候へとも、抛諸事、為向後御甚深可被返進候歟、此意之趣、従是可被申達候、但年来之筋目相違、彼谷中之面々、於以後対当所慮外之義候者、可被致詫言候哉、至其義も、対御正印申一旦不可在御等閑候、猶態可申入候条、不具候、恐々、
天文八年
  十月十七     田中太 長義
           同平  長種
 後藤新六殿 御報

[史料1]における「不慮之題目」が[史料2]にある「不慮之再乱」にあたる。その内容は女川に居住していた「井上将監并彼谷中之面々」の動向であったことが記されている。女川の領主は色部遠江守憲長の頃から色部氏の影響下にあったが、今回彼らが色部氏に敵対したことが窺われる。ここからは、長尾氏と伊達氏の対立直前である天文8年小泉庄周辺の抗争が入嗣問題とは関係しない在地問題に起因したものであったことが推測される。

天文4年には色部氏家中、本庄氏家中で離反の動きがあり、本庄房長はその対応のため軍事行動も辞さない構えを見せている。[史料2]において「不慮之再乱」と表現された理由は、天文4年の紛争があったからであろう。天文4年の動揺は「(本庄氏)家中之面々、慮外之有題目」(*2)と記される。ここで注目したい点は本庄氏に敵対した有明氏、岩沢氏は[史料2]にもある女川に逃亡し、さらに伊達氏の支配領域出羽小玉川に逃げ込み本庄氏の追跡を振り切っている(*3)。つまり、天文4年の在地紛争において伊達氏の影響があった可能性は高く、天文8年の紛争においても伊達氏の影響力を無視できなかったと考えられる。紛争の当事者たちは一方は越後長尾氏を頼り、もう一方は出羽伊達氏を頼って自らの保身を図ると考えるべきである。そういった政治的関係の中で羽越国境において軍事活動を要するまで状況が悪化すれば、入嗣問題で緊迫した両者の政治的関係を破綻させるには十分な要因であったといえよう。

[史料3]同上、1440号
示給旨披見、祝着至候、各被露色刻、同時ニ御動之段、尤簡要候、何様休人馬、軈而其口へ可出馬候、委細中弾へ啓候、恐々謹言、
十月晦日     絞竹庵張恕
築地彦七郎殿

さらに日付が進んだ[史料3]を見てみたい。「各被露色刻、同時ニ御動之段」とあり、本庄氏・色部氏周辺の紛争に対し、中条氏らが動いていたことが推測される。「軈而其口へ可出馬候」から中条氏への出馬要請は続いており。紛争の終結には至っていないようである。ただ、既にこの時点で中条弾正忠は伊達氏に与して為景の指示に従わず、不審に思った為景が文書にて出馬の催促をしていた可能性もあろう。「各被露色刻」や「何様休人馬、軈而其口へ可出馬候」といった表現からは大規模な抗争が推測され、既に伊達氏の軍事介入が明らかであった可能性も考慮すべきであろう。

稙宗の攻勢が史料上確実であるのは、天文8年11月である。天文21年黒川実氏書状案(*4)が当時の状況を詳しく記している。これには「先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中、時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷伊達之人衆、本庄・鮎川要害□之条、彼面々大宝寺へ退去、己他之国罷成義、嘆ケ敷候」とある。つまり中条弾正忠が時宗丸入嗣を推進し、伊達氏を越後に引き入れ本庄城(村上城)、鮎川城(大葉沢城)を確保し、本庄氏らを大宝寺氏の元へ追放、「他之国」=伊達領にしてしまったということだ。

『平姓本庄系図』(*5)によると本庄房長の弟小河長資が本庄城を奪取、房長は11月28日に頓死したという。天文8年以降房長は文書上確認できず小川長資の台頭を認めることを踏まえても、『平姓本庄系図』の記載は概ね事実であろう。時期としても[史料1~3]の日付をみると、天文8年11月というのは妥当であろう。同系図は本庄城落城の時房長は出羽庄内に在陣していたとするが、当時小泉庄、奥山庄で戦火が広がっており反対方面の庄内に出兵しているのは不自然である。実際には小泉庄で敗北ののち、味方である庄内大宝寺氏の元へ敗走したというところではないか。或いは本庄城から紛争地域へ出陣していた時の急襲という点は事実を伝えている可能性もあろう。房長の死因について同系図には「罹病」「頓死」とあるが、紛争による戦傷やストレスと無関係ではなかったのではないか。

伊達軍の侵攻経路だが、色部氏、黒川氏が強固な反伊達氏勢力であることを踏まえると越後に入り、女川から村上へ抜ける街道と推測できる。女川は交通、軍事において要衝であり、女川が度々在地紛争においても問題とされることも頷ける。

天文10年7月色部勝長宛鮎川清長起請文(*6)において「近年相隔候、今度如前々申談事」、同年8月小河長資宛色部勝長起請文案(*7)に「近年依被相隔無音、然ニ今度如可申談之事満足候」とあることから、天文8年以降10年まで色部氏と鮎川氏、小河氏は対立していたことがわかる。先に見た「他之国罷成義」が表すように、鮎川氏らは伊達氏の影響下にあったということだろう。

また、天文10年の交渉においては下掲[史料4]にもあるように鮎川氏と本庄孫五郎盛長の間で所領問題などを巡って交渉が難航している様子が見られるから、本庄盛長は色部氏と同様に反伊達氏側だったことがわかる。盛長は天文15年本庄盛長書状(*8)にて「若子御若年之間、無御判候間、無粉添捻候」とて、本庄房長の遺児でまだ若年の繁長に代わり家臣へ知行を宛がっており、房長死後本庄氏当主を代行していた存在が盛長であった。すると、反伊達派につく理由も当然であろう。伊達稙宗が小泉庄を制圧後、小河長資、鮎川清長、本庄氏家中の一部などが伊達氏に従い、色部勝長、本庄盛長が越後長尾氏に従っていたことが理解される。

[史料4]『新潟県史』資料編4、1083号
   誓詞之案書
右之意趣者、年来月翁并矢羽幾佐渡守無曲刷連続、可被相隔仕合共現形故、三ケ年被覃闘争事、御双方倶労而無功由存候処、御家中依不慮之題目、色部殿以御取成、御一統円被仰合上者、吾々事も対孫五郎殿、全不可存別条候、万一有徒者申隔義候者、相互被打顕、被仰談、当郡無御異義事簡要存候、若此申事至于偽者、神名
   天文十年二月 日
 従此方対孫五郎方、不可存別条段顕之候間、自其方も対清長并市黒丸不可有余儀旨、可被加筆儀候由、被仰届尤候、市黒丸事軅而可替名候条、孫次郎与可被書候歟

[史料4]は小泉庄領主間での交渉の一部である。天文11年2月に比定され、鮎川清長から色部勝長への起請文を色部氏側で写したものである。当時、重要書類は案書と呼ばれる写本が作成されたのである。これによると、抗争の発端は「月翁并矢羽幾佐渡守無曲刷連続」だったという。矢羽幾佐渡守は本庄氏の重臣であり、天文8年に生じた在地的な紛争の一端を示すとみて良いだろう。抗争に関連した年不詳伊達稙宗書状(*9)において、矢羽幾氏が伊達方として活動していることが見える。領主・土豪層の対立と伊達氏の侵攻が密接に関係していることが窺われよう。尤も、「如前々申談」とあるように天文10年に領主層の多くは越後の支配体制に復帰したと想定される。


ここまで、小泉庄を巡る抗争について検討した。長尾氏・伊達氏の大名レベルでの対立、本庄氏や鮎川氏ら領主レベルでの対立、矢羽幾氏や「女川の面々」など在地レベルでの対立、と層状構造の中でそれぞれの立場が複雑に絡み合って生じた抗争であったことが推測されるのである。

次回も奥山庄の抗争の経過を整理しつつ、小河氏、鮎川氏らの復帰などについて考察していきたい。


*1) ちなみに、「正印」を上条上杉定兼 (定憲)に比定する研究もあるが根拠は不明であり、そもそも定憲は天文5年4月に死去していることが『越後過去名簿』から明らかあるから、完全な誤りといえる。「正印」とは「家の主、主人」といった意味であるから(戦国古文書用語辞典『伊達正統世次考』「正院とは君主を言う」とある)、発給者田中氏の主人である色部勝長と見るべきである。領外へ出かけていた勝長が「不慮之再乱」発生を聞いて、急いで小泉庄に「御帰庄」したという意味だろう。実際、元亀元年板屋古瀬若狭入道等宛正福寺周悦書状(「本間美術館所蔵文書」)では「従御正胤府へ被及御注進」と本庄氏家臣に向けて本庄繁長のことを正胤=正印と表現している一例がある。
*2)『新潟県史』資料編4、1091号
*3)同上、1101号
*4)同上、1482号、黒川実氏の実名が実際は「平実」である可能性を以前の検討で提示している(『越後過去名簿』から見た和田黒川氏 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)
*5)『越佐史料』三巻、849頁
*6)『新潟県史』資料編3、1106号
*7)同上、1086号
*8)『越佐史料』三巻、877頁
*9)同上、860頁


伊達入嗣問題1 交渉の経過とその背景

2023-10-28 12:17:08 | 長尾為景
長尾為景は上条定兼(定憲)との抗争である天文の乱を切り抜け、敵対していた上田長尾房長とも天文6年中に講和したと推測される。政治的にも安定した天文7年に持ち上がった問題が、いわゆる伊達入嗣問題である。今回からその経過、背景について検討していく。今回は、特に入嗣計画の成立から決裂、計画の背景について考えていきたい。


1>経過
[史料1]『越佐史料』三巻、845頁
納自伊達御曹司様御上為御要脚上田段銭之事
 合二町三段二十五束苅者三カ年分
右為頸城郡夷守郷大槻村村山与七郎方沙汰所納如件
   天文七年戊戌十月廿四日        景直
                      頼家
                      秀忠

[史料1]は越後守護の後継として伊達氏から養子が迎えられる計画に関する初見である。伊達氏から「御曹司」が来国するための資金として段銭が徴収されている。「御曹司」が伊達稙宗三男時宗丸(後の実元)であることは他の文書から明らかである。天文7年10月時点では既に、為景と伊達稙宗の間で合意がなされていたことがわかる。

上杉玄繁(定実)書状(*1)は天文7年11月と推測される(*2)が、書状中に「去年小梁川左近上国」とあり、天文6年時に伊達氏から越後へ使者小梁川氏が派遣され入嗣計画が協議されていた可能性がある。天文7年に現れる史料では既に段銭を徴収するほど計画が進行しており、協議検討が天文6年に行われていたとしても不思議ではない。

また、岩城氏へ入嗣推進を伝える天文9年6月伊達稙宗書状(*3)に「先年平子豊後守為迎被越置候」、「去々年已来両使節差越、国中一統之調法候」とあり、天文7年に越後側から伊達氏へ平子豊後守ら「両使」が派遣されたことがわかる。『伊達正統世次考』に平子氏・直江氏の両使が派遣され「重代腰刀宇佐美長光・竹雀幕、且贈実一字」とあるように、贈呈品と共に入嗣の計画が進展したことが窺われる。ちなみに、同書状は「彼国之乱劇未落去候」「残徒色部一ケ所迄候」とあることから天文9年に比定される。

『伊達正統世次考』では越後からの使者派遣を天文11年とするが、天文11年6月に勃発した伊達稙宗・晴宗父子の抗争である伊達天文の大乱の開戦理由を入嗣問題に求めた後世の編纂物による誤解と考えられる。先述した伊達稙宗書状(*3)から平子氏の派遣は伊達天文の乱勃発の数年前であることが確実であるからである。『正統世次考』は伊達氏側の編纂物であり伊達氏のイベントを中心として記載されてしまう点に留意すべきであろう。実際に伊達天文の乱は伊達稙宗と晴宗父子の方針の違いや懸田氏ら有力な領主層との齟齬など伊達氏内部の矛盾により起きたものと考えられる。

これまで『伊達正統世次考』の記述を元に平子氏派遣と家宝などの贈呈は天文11年と考えられることもあったが、整合性に欠くことが理解される。江戸期編纂の史料であることを踏まえても、『次考』の記述を元に古文書の性格や年次比定を行っていくのはナンセンスであると思う。

[史料2]『越佐史料』三巻、852頁
時宗丸相続之儀、以平子豊後守承候、則雖可為相上候、若年之事候間、遅延候、当年必可為致上国覚悟候、雖勿論候、至于其時者、懇切之儀可為本望候、如何様従半途可申合候条、不能具候、恐々謹言
  五月十五日             稙宗
   下伊賀守殿

[史料2]は天文8年5月の書状と考えられる。段銭徴収前の天文7年5月では早く、小泉庄での抗争が勃発した後の天文9年5月で不自然と感じる。平子豊後守が登場していることから、彼が派遣された天文7年からそう遠くはないと考えられよう。天文7年に平子氏が派遣され養子入りに合意したが越後入国が遅れ、年が明けてしまったため「当年必可為致上国」ことを伝えているのであろう。宛名下氏は羽越国境に近い下関の領主で、稙宗が通過する地域の領主たちへ便宜を図っていたことがわかる。

時宗丸の入嗣が遅れていたとされる天文8年であるが、史料に乏しく長尾氏・伊達氏間で実際どのような交渉が行われていたかは定かではない。しかし、天文9年6月伊達稙宗書状(*3)では「近日向彼口可致出馬候」、同6月大崎義直書状(*4)「伊達息時宗丸越後江上国、此度示定候、依之稙宗父子出馬之事以使者承候」とあるように、天文9年までに小泉庄を中心とした抗争が生じており長尾氏と伊達氏の対立は決定的である。天文8年11月には伊達稙宗が小泉庄を攻撃し本庄氏を没落させたと伝わるから、この時点までに両者間での政治交渉が決裂したことが推測される。[史料2]以降で小泉庄攻撃以前であることを踏まえると、決裂の時期は天文8年5月以降同年11月以前と推定される。


2>背景
そもそもこの時宗丸を守護上杉氏の後継者にしようという計画の背景には、誰の、どのような思惑があったのだろうか。

まず、これまで形骸化していた越後守護上杉定実がこの前後で久しぶりに表舞台に現れるわけだが定実が政治的復権を果たしたわけではない。守護権力に基づく公的な発給文書がないことがその証拠である。つまり守護定実として主体的な決定ができたとは考えられず、時宗丸入嗣は傀儡守護を牛耳る長尾為景の意向あってのものである。つまり、為景は傀儡として守護存続を望んだが、定実が守護でいる限り自らや晴景の障害となることを予想し、守護交代を目論んだと推測できる。永正期から為景は一貫して定実を否定して代替守護を擁立する意思があったことは以前検討している通りである(*5)。

そこで浮上したのが伊達時宗丸だったわけだが、その背景には時宗丸の祖母、つまり伊達尚宗の妻が越後上杉氏出身という血筋がある。『伊達正統世次考』には「尚宗公者娶上杉氏」などの記事があり、大石直正氏(*6)はその関係性より伊達稙宗は上杉様の花押を用いたと指摘する。長谷川伸氏(*7)は上杉氏の女性が伊達氏へ嫁ぐことが記された中条朝資書状(*8)を文明18年に比定し、その女性こそ伊達尚宗妻=伊達稙宗母であったと推測している。

ただ、『正統世次考』が伝えるような「上杉定実娘」という説は年齢的にあり得ないだろう。例えば同時代を生きた長尾為景の生年が文明18年であるから、定実の姉妹とするにも無理がある。とはいえ、為景・定実と守護上杉房能や山内上杉可諄との抗争において伊達尚宗は為景・定実方へ味方していることを考えると、やはり尚宗妻は定実の家系=古志上条氏に連なる人物である可能性を考えるべきだろう。単純に年齢的に考えれば叔母といったところではないかと思われ、具体的には古志上杉房実娘=上杉定俊姉妹ではなかろうか(*9)。

入嗣計画を進める上で為景にとって誤算だったのが伊達稙宗の介入だろう。稙宗の勢力拡大への野心は強く、息子を守護にしたのちに越後への影響力を強めるべく動いた。そもそも稙宗は、相馬氏や葛西氏、大崎氏を始めとする周辺勢力に一族を入嗣させることで影響力を拡大してきた。越後守護への入嗣を利用しない手はないと思ったに違いない。

為景が忌避したであろう稙宗の行動が所伝からうかがえる。『伊達正統世次考』では、稙宗が時宗丸の上杉氏入りに際して多くの精鋭をつける方針に対して、晴宗は伊達家自身の弱体につながる反発して伊達天文の乱が始まったと伝える。先述のように江戸期の編纂物であるから細部の整合性は置いておくとして、この精鋭を派遣する計画は伊達稙宗が守護上杉氏を乗っ取ろうと考えていたとすると興味深い。守護上杉氏に強力な軍隊が付属することになり、守護代長尾氏の支配に影響を及ぼすことは間違いない。長年にかけて形骸化した守護上杉氏が伊達氏の軍事力を背景に実力を持って復権する可能性があるわけで、為景にとっては入嗣を認めるわけにいかなかったであろう。

推測するに、天文7年に平子豊後守らが派遣され大筋合意に至り、国内で段銭徴収などの準備も開始されたが、為景と稙宗の方針の違いで細部の交渉が難航、時宗丸入国が遅れる事態となったのだろう。そして、天文8年後半頃に交渉は決裂し、軍事衝突に至ったと考えられる。もちろん軍事衝突は偶発的なものではなく、時宗丸が守護後継者であるという名目のもと稙宗が越後へ影響力を強めるべく計画したとみて間違いない。


次回、天文8年以降における抗争の詳細について検討をすすめていきたい。


*1) 『新潟県史』資料編5、3211号
*2) 前嶋敏氏は天文8年とするが、8年11月時点では既に奥郡では抗争が勃発しており不自然である。よって、天文7年11月と考えられる。
*3)『越佐史料』三巻、853頁
*4)同上、854頁
*6)大石直正氏「戦国期伊達氏の花押について-伊達稙宗を中心に」(『戦国大名伊達氏』戒光祥出版)
*7)長谷川伸氏「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」(『長尾為景』戒光祥出版)
*8)『新潟県史』資料編4、1900号

長尾為景から晴景への権力移行を考える

2023-10-10 21:54:53 | 長尾為景
前回前嶋敏氏の論稿(*1)を参考にして長尾為景から晴景への家督相続が天文9年8月であったこと検討した。今回はそれを踏まえた上で為景から晴景への権力移行の様子を見ていきたい。さて、為景その死去まで権力を維持し晴景の活動は確認されないわけだが、為景は晴景への権力移行をどの程度考えていたのだろうか。結論から言えば、計画的に息子への権力移譲を考えていたと私は考えている。そのことは古文書からも読み取れる。以下検討していく。


晴景は為景の没後まで発給文書が確認されない一方、幼名道一の時点から幕府・朝廷とのやり取りにおいて受給文書(*2)が確認される。これは為景が自身の死去直前まで自身に権力を集中させていた一方、早い段階から幕府朝廷へ晴景を露出させていたことが窺える。為景は意図的に晴景へ権威付けを行っていたと思うのである。これはもちろん為景の見栄や名誉欲ではなく、戦国といえども足利幕府体制が残る当時、守護代としてあくまで守護上杉氏の下位に位置する長尾氏の戦略である。幕府・朝廷の権威は当時も十分に効果のあるものであった。

享禄元年12月に長尾道一は将軍足利義晴より「弥六郎」の名乗りと「晴」字を与えられ、長尾弥六郎晴景を名乗る(*3)。将軍の偏諱はそれ自体が栄典であり、権威であった。木下昌規氏(*4)は偏諱の授与が「随分の者」、「先例」を基準とし、他家の被官=陪臣の立場では不可であったことを示している。守護代長尾氏においてこれまで将軍の偏諱を受けたものはいなかったから、これが異例であったことがわかる。つまり、これをもって単なる守護上杉氏被官ではなく将軍家と直接つながりを持つ存在であることが明確に示されたといえる。一字拝領が越後長尾氏にとって家格向上、晴景の権威上昇に繋がったことが理解される。

為景自身もこの時「白傘袋・毛氈鞍覆」の使用許可を受けており、その権威上昇を図っている(*5)。ちなみに木下氏によると白傘袋・毛氈鞍覆は陪臣層にも授与が確認される栄典であり、偏諱の方がより厳しい身分基準の元で授与の判断がなされていたという。

さらに享禄3年2月に足利義晴から小袖が下賜されるが、これも「長尾信濃守・同弥六郎対両人、小袖遣之候」(*6)とあり、為景は晴景と共に交渉に臨んだようだ。御礼品の献上についても書状類が多数残るが、為景名義と晴景名義でそれぞれ献上していたと推定される。越後国内において為景が晴景と連署した例や、同様の内容で書状を出している例はないことから、幕府工作では意図的に晴景を強調していたと考えられる。晴景と幕府関係者のパイプを構築する意味もあったのだろう。次世代へ向けて、権威付けだけでなく事務的な人脈の構築まで手助けしたことが推測される。現代とは異なり、交通・通信が発達していない時代である。遠方の勢力は自ら働きかけなければ幕府・朝廷にその存在すら知られることはなく、それ相応の人脈を持たなければ交渉を有利に進めることはできなかったのである。

さらに、為景は義晴の小袖のみならず佐子上臈の唐織物獲得も目指す。佐子上臈は義晴乳人で女房衆筆頭、義晴の後見を行うほどの有力者である。結果的に唐織物は下賜される(長尾為景・晴景と佐子上臈局「唐織物」をめぐる動向 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。ここで注目したい点は、唐織物が「晴景母」へ与えられるとされている点であろう(*7)。やはり晴景の名が登場し、結果として唐織物下賜は晴景の権威上昇に繋がる。為景が闇雲に権威を乱獲していたわけではなく、しっかりと次世代まで見据えた計画の元に進めていたように思える。

その後天文の乱が勃発し、為景は上条定兼ら反抗勢力との抗争を余儀なくされる。為景はこれに際して、朝廷へ天文4年に「御旗」獲得、天文5年に「治罰綸旨」を求めいずれも認められている。しかし、この時は為景が交渉の中心であり晴景の名前は出てこない。これが目下の抗争と関連し「御旗」や「綸旨」は偏諱や小袖より高度な政治性があったことが理由だろう。つまり、これは為景の越後支配のための一手であり、晴景への権威付けとは関係ないといえる。

そして、天文9年8月に家督を継いだ晴景が文書に現れるのが伊達入嗣問題の決裂、揚北衆中条氏の離反に伴う伊達稙宗の越後侵攻に対応した天文9年「私敵治罰綸旨」の獲得である。朝廷への政治工作が為景を中心に行われていることは多額の献金を献上していることから明らかであるが、同年9月27日長尾晴景宛広橋兼秀書状(*8)に「私敵治罰綸旨事、所望由候条、申調進入之候」ように肝心の綸旨については晴景が申請し受け取る形で交渉が成立している。同年9月27日長尾為景宛高橋宗頼書状(*9)にも「弥六郎殿御申綸旨」とあり、為景ではなく晴景個人へしっかり認識された上の綸旨であることは確かである。この綸旨も進行中の抗争を収める目的で申請しているが、先の綸旨と異なり晴景が綸旨を受け取ったことになる。晴景への家督相続が転機であったと考えられる。つまり、この時既に家督を晴景に譲っていた為景は晴景宛に綸旨を受け取り、晴景による越後支配を進めていく考えがあったと見て間違いないだろう。天文9年8月における家督相続により晴景が越後の国内政治の表舞台に立ったと評価することが可能であろう。


ここまで、為景の晴景に関する幕府・朝廷工作について見てきた。まとめると、家督を譲る前から晴景への権威付けを行い、家督相続後は後見を行いつつ晴景を中心として治罰の綸旨を獲得するなど、為景が計画的に晴景への権力移譲を行っていたことが理解される。

その後の長尾晴景は、天文13年4月後奈良天皇綸旨(*10)を得て越後国内の支配を進めるなど、為景時代から引き継いだであろう朝廷とのパイプを駆使しながら越後一国を失うことなく次世代へ繋いでいる。守護代長尾晴景は父、弟と比較され劣っていたとされることが多いが、歴史的価値の低い軍記物などに依拠していた部位が多い。長尾景虎への権力移行は晴景自身の病気が原因であり、晴景無能説や兄弟相克説が眉唾であることは言うまでもない。また、晴景と景虎は年齢の離れた兄弟であり、晴景は年齢相応に病没としたと見るべきで、病弱で求心力の低い当主という見方も適切ではないだろう。

残存する史料の少なさから正当な評価がなされていないと感じる晴景であるが、今後客観的な観点からの再評価が求められる。

追記:2024/2/4
[史料1]『新潟県史』資料編5,2716号
就 若君様御元服之儀、所被申無余儀候、雖然漸候間、相急被走廻候者、可為快悦候、巨砕各可申遣候、謹言
   九月十一日          憲当
     長尾六郎殿

[史料1]は佐藤博信氏(「足利藤氏元服次第のこと」『中世東国の支配構造』)によって天文17年9月における古河公方足利晴氏嫡子足利幸千代王丸=藤氏の元服に関する書状であることが明らかにされている。つまり、将軍足利義藤から古河公方足利藤氏への偏諱が山内上杉憲当(後の憲政、光徹)を通して行われ、憲当は交渉ルートとして越後の「長尾六郎」=長尾弥六郎晴景を選んだことがわかる。これについて佐藤氏は享禄元年における足利満千代王丸=晴氏の元服・偏諱の山内上杉氏から長尾為景を通して幕府への交渉を進めた手順と同様であるとの評価を下している。このことは長尾晴景は前代為景の政治的パイプを引き継ぎ、維持できていたという証拠になろう。関東と京の交渉を仲介できるほどの政治的な安定も実現できていたことが推測され、長尾晴景による越後支配が一定の水準にあったことがうかがわれる。

ただ、[史料1]の直後天文17年10月から重臣黒田秀忠が反乱し再び越後に混乱が生じていくことになる。簡単に言えば、晴景の治世は相続直後で不安定な初期、安定していた中期、黒田氏の反乱が生じ景虎への家督交代へとつながる不安定な末期と大きく三つに分けられると言えよう。


*1)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』2015年9月号)
*2)『新潟県史』資料編3、119号、120号
*3)『新潟県史』資料編3、116号、117号、118号
*4)木下昌規氏『足利義晴と畿内動乱』197頁~、(戒光祥出版)
*5)『新潟県史』資料編3、63号
*6)『新潟県史』資料編3、294号
*7)『新潟県史』資料編3、295号
*8)『新潟県史』資料編3、998号
*9)『新潟県史』資料編3、999号
*10)『新潟県史』資料編3、776号

長尾為景から晴景への家督相続について

2023-09-23 13:46:15 | 長尾為景
長尾為景から長尾晴景への家督相続は晴景宛為景譲状[史料1]に明らかであり、通説では天文5年8月に比定され、私もそれに従ってきた。しかし、前嶋敏氏(*1)は[史料1]は天文9年8月の文書であり、家督相続も同年同月であったことを主張している。家督相続の時期は為景権力、晴景権力の存在形態を考える上でも重要であり、この問題について検討する。


1>前嶋氏の主張
[史料1]『新潟県史』資料編1、109号
日柄好候間、従今日籏・文書、重代相譲候所帯等之義、別紙日記有之、至于子孫万劫も相続繁昌可目出候、恐々謹言
  八月三日               為景
   長尾弥六郎殿

まず、前嶋氏の主張を見ていきたい。為景は天文5年に入道し以降「張恕」や「信濃入道」などと見えるが、天文9年8月5日広橋兼秀女房奉書副状(*2)宛名に「長尾信濃守」とある以降は再び「信濃守」として所見されることから入道ではなくなっていたと推測する。そのため「為景」署名だけで[史料1]を天文5年以前のものとすることはできず、天文9年以降の可能性も考慮すべきという。さらに、伊達時宗丸入嗣問題を詳しくみると、天文8年10月までは為景は交渉推進方と協調しているが天文9年9月には晴景が交渉反対派として推進派中条氏への攻撃を賞賛していることから、為景=推進派・晴景=反対派として天文9年に大きな転換があったと推測している。そしての転換は方針の相違により対立し、晴景が為景体制を否定し自身の権力を形成していった結果と捉えている。よって、為景譲状はこの転換点にある天文9年8月であったと推定している。

上記主張の内、為景が天文5年より入道し天文9年半ばに再び入道でなくなった点については文書上の裏付けがあり首肯される。

しかし、前嶋氏は家督相続の時期と伊達入嗣問題における父子の政治的立場という二点を一体として考えているが、それぞれは独立した課題であり安易に関連付けるべきではない。天文の乱において優勢であったことで天文5年における家督相続を否定できるはずもなく、また伊達入嗣問題が直接的に家督相続に繋がるとも言い難い。つまり、前嶋氏の主張は論理的な飛躍があり、家督相続と伊達入嗣問題における政治的立場をそれぞれ慎重に考える必要がある。

私の考えとして結論的に言えば、家督相続は前嶋氏の主張の通り天文9年8月であった可能性が高いが伊達入嗣問題において為景・晴景間の政治的対立はなかった、と推測できる。下記において家督相続、伊達入嗣問題での政治的立場の二点において詳しく見ていく。


2>伊達入嗣問題における父子の政治的立場
伊達入嗣問題において為景と晴景に政治的対立があったことは肯定できない。まず、前嶋氏が為景の意向に反して晴景が入嗣反対派である証左として挙げる田中兵部少輔宛晴景書状(*3)は、実際には天文11年9月であったと推測されるからである。この文書が為景死後のものであれば、前嶋氏の主張は根幹から否定されることとなる。

前嶋氏はその書状を天文9年9月に比定、晴景が色部氏による中条氏の攻撃を賞する文書とし、晴景の伊達氏への敵対的な立場を表すとしている。前嶋氏が天文9年9月に比定する根拠を引用すると「色部氏は天文9年6月には孤立していたが、天文十年二月以後には本庄氏等と起請文取り交わしの交渉を行っている。このことと、後掲注(※県史1482号のこと)に示す通り「伊達問題」において中条氏が孤立していることに鑑みれば、色部氏による中条氏への攻撃はその間に行われたものと考えられる」とある。しかし、本庄氏らとの起請文取り交わしに中条氏は関与しておらず、それ以降に色部氏・中条氏間に抗争が生じない理由には全くならない。むしろ中条氏が居城に追い込まれるほどの状況としては、色部氏が孤立していた天文9年より本庄氏ら周辺領主と和睦し体制を整えた天文10年以降の方が自然である。つまり、前嶋氏の比定には当時の状況的にも不自然であり文書上の根拠も乏しい。

私が天文11年9月に比定する理由は次の通りである。まず、起点となる文書は当時を回想する天文21年黒川実氏書状案(*4)であり、そこには「色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き」とある。中条氏の居城が落城目前となると伊達晴宗が中条氏と長尾晴景の「無事」を仲介しそれが成立したとある。伊達氏として晴景の主体性が見えており、中条氏の窮状が伊達稙宗と晴宗が対立し分裂する伊達天文の乱が勃発する天文11年6月以降(*5)のことであることを示す。また、中条氏攻めが「揚北中申合」の上で行われたという記載も、前嶋氏が本庄氏らと起請文を取り交わす以前に色部氏のみで行われたとする推測を覆すものであろう。さらに中条氏の降伏を巡る伊達氏と晴景、色部氏の交渉は11月長尾晴景文書(*6)にも記されており、使者が「門目丹後守」であったことがわかる。門目丹後守は天文11年12月伊達晴宗書状(*7)に「去秋門目丹後守為使」と見え、中条氏を巡る交渉が天文11年秋であったことを補強する。

以上より、文書的な裏付けを取ると長尾晴景・色部氏ら陣営による中条氏攻撃は天文11年9月に行われその後伊達稙宗に敵対し晴景と協調路線をとる伊達晴宗の仲介のもと中条氏が降伏したと考えられる。尤も、中条氏はまもなく再び反抗し伊達稙宗陣営につくがこの点は別稿を参照してほしい。黒川実氏書状案の検討 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

ここまでの見てきたように、伊達入嗣問題において為景と晴景の政治的立場の相違があったとはできない。文書の年次比定の誤謬からその政治的立場の解釈にも誤解を生じたと考えられる。為景と晴景が政治的に協調していたことは次の史料群からも示される。

[史料2]『新潟県史』資料編3、999号
尊書祝着之至候、抑為先年 綸旨御礼御申段珍重存候、次対私五百疋被送下候、御懇之儀畏存候、只今又弥六郎殿御申綸旨之儀、内海被申候条、随分被申調被遣候、希代御面目候、急度御礼御進上之儀可然存候、巨細内海可被申候条、不能詳候、恐々謹言
    九月廿七日              宗頼
   長尾信濃守殿 尊報

[史料3]『新潟県史』資料編3、998号
私敵治罰 綸旨事、所望由候条、申調進入之候、弥可為本意之次第候、猶宗頼可申候也、謹言
    九月廿七日              (広橋兼秀)
    長尾弥六郎殿

[史料2]、[史料3]は天文9年における治罰の綸旨発給についての朝廷側から発給された文書である。[史料2]で晴景に綸旨発給がなされたこと、[史料3]は[史料2]の副状であり為景に同様の内容が伝えられている。つまり、天文9年9月の時点で為景・晴景は共同して治罰の綸旨を獲得し伊達稙宗・中条氏を始めとする敵対勢力に対抗していたことがわかる。ここからも、入嗣問題の是非を巡り父子間の対立があったとは考えられない。

[史料4] 『新潟県史』資料編3、104号
其地敵退散、奥方所々御本意之由、其聞得候、如此頓道行候事、誠以きとくまで候、御留守中無何事候、おそなき御かたがた御堅固候、可有御心安候、恐々謹言
  十月廿三日                  玄清
  信濃守殿

[史料4]はその年次比定が問題となる文書であるが、天文8年7月まで上杉定実は「玄繁」の名乗りで見えることから、玄清の署名で発給された[史料4]は天文8年11月以降の文書と考えられる。次回以降検討する同時期の奥郡の情勢を考えると天文9年10月である可能性が高い。天文9年より還俗したことを踏まえると、宛名「信濃守殿」は矛盾ない。内容からは「奥郡所々御本意」とあり、為景が奥郡を制圧しつつある様子が窺われる。為景も積極的に軍事行動に及んでおり、前嶋氏の推測する入嗣推進派=親稙宗派としての姿とは異なる。実際には為景・晴景の父子関係は良好であり、伊達稙宗に与する奥郡の勢力と交戦を続けていたことがわかる。


3>家督相続の時期
一方で、家督相続の時期については通説の天文5年8月よりも前嶋氏説・天文9年8月である蓋然性が高いように思う。その理由は長尾晴景の発給文書が為景生前に全く所見されないこと、天文9年8月治罰の綸旨において晴景が申請者として認められる点にある。

まず、晴景の発給文書であるがその初見は田中兵部少輔宛長尾晴景書状(*3)であり、上述の通り天文11年9月と推定される。為景の死去する天文10年末まで発給文書が一通もなくその死後から確認される点は、史料的偏りよりも実際にそれまで晴景の発給文書が少なかったことを示唆している。この場合天文5年8月に家督相続があったとすると5年以上にわたり家督にありながら発給文書が確認できない状況となり不自然である。つまり、家督相続は天文9年8月であり、そのために晴景の発給文書が少なかったと考えるべきであろう。

また、天文9年8月において晴景は治罰の綸旨の受給者となっており(*8)、その申請も晴景の名によるものであったことが明らかである(*9)。これ以前の綸旨や御旗の申請においてその主体は為景であり、晴景の登場はなかった。天文9年8月において晴景の政治的立場はそれまでと明らかに変化しており、それは家督相続であったと考えられる。

家督相続の理由ははっきりとはしない。そもそも生前に家督を譲渡することは他の戦国大名でも見られるが、その理由を明確にすることは難しく、また様々な要因があったなかでの総合的な判断であったと考えられる。前嶋氏の主張のような優勢だから家督相続はしないという考え方は短絡的に過ぎるだろう。個人的には伊達入嗣問題や為景が当時50才半ばで天文10年末に死去することを踏まえると、不安定な国内情勢と自身の体力的衰えなどといった複数の要因があったのではないかと憶測している。

ただ家督相続が天文9年8月であったとすると天文5年以降の入道には別の意味があった推測され、それを考える必要がある。私は、入道の理由として上条定兼の死亡を考えている。為景は永正期にも一時期入道し桃渓庵宗弘を名乗っているが、これは上杉房能の死亡への配慮と推測されている(*10)。この事例を参考にすれば、天文の乱における上条定兼(定憲)の死亡に配慮した形で一時期入道したと考えられないだろうか。越後過去名簿より上条定兼の死去は天文5年4月であることが明らかであり、為景との抗争に関連して敗死した可能性は十分に考えられよう。上条定兼の政治的立場については別の機会に検討したいが、佐渡の抗争を仲介した実績(*11)や、本願寺へ「上杉惣領」を自称していた(*12)ことを踏まえると、当時の定兼の立場は守護上杉氏に比肩するものであったことは疑いなく、この推測は十分に成立すると考えている。


以上、長尾為景から晴景への家督相続について前嶋敏氏の主張を元に検討してきた。その結果、家督相続は天文9年8月であった可能性が高いと考えられるが、伊達入嗣問題における父子間の対立は認められないことを示した。天文9年8月における治罰綸旨の発給が長尾晴景の家督相続と密接に関連していたことが示唆されよう。天文10年末為景の死去後、本格的に晴景の活動が所見されることとなる。



*1)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成-伊達時宗丸入嗣問題を通して-」(『日本歴史』2015年9月号、吉川弘文館)
*2)『新潟県史』資料編3、997号
*3)『新潟県史』資料編4、2076号
*4)『新潟県史』資料編4、1482号、黒川実氏は実際には「平実」の可能性があるがここでは史料名として「黒川実氏書状案」を利用している。
*5)『晴宗公采地下賜録』奥書に「天文十一年六月乱之後」とあり、伊達天文の乱の勃発が天文11年6月であることが確実である。
*6)『新潟県史』資料編4、1056号
従伊達為使門目丹後守方上府、中弾前事、雖被申之候、各へ時宜談合申、於其上可及御返事之由、於其上可及御返事之由、令挨拶候、依之先日以使者申宣候き、定可為参着候、恐々謹言          
   十一月廿一日        長尾弥六郎 晴景
   色部弥三郎殿 御宿所
森田真一氏・長谷川伸氏(*13)は上記書状を「入嗣問題に否定的な守護代長尾晴景は「国内の諸将に相談した上で入嗣問題の返事をする」として使者を追い返し、この旨を色部氏に伝えた」と解釈しているが、晴景は「従府内も承筋目候」とあり使者の提案に同意しており、さらにこの時晴景が諸将に相談したことは「中弾前事」=中条弾正忠の処遇であり入嗣問題の是非ではない。
*7)『新潟県史』資料編4、2045号
*8)『新潟県史』資料編3、775号
*9)『新潟県史』資料編3、998号
*10)木村康裕氏「桃渓庵宗弘の発給文書」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*11)『新潟県史』資料編5、3096号-12
*12)『石山本願寺日記』
*13)森田真一氏・長谷川伸氏「守護上杉定実と守護代長尾為景」(『長尾為景』戒光祥出版)

紋竹庵か、絞竹庵か。

2023-09-07 21:41:38 | 長尾為景
長尾為景は晩年に入道し、入道名を名乗る。『新潟県史』は「紋竹庵張恕」とし、私もそれに従ってきた。しかし、前嶋敏氏(*1)は原本から見て正しくは「絞竹庵張恕」であったことを指摘している。「紋」と「絞」と表記に相違がある。今回は改めて長尾為景の庵号を確認したい。


まず、『新潟県史』では先述のように「紋竹庵」である。『越佐史料』においても「紋竹庵」とある。また、研究者の論稿を見ても多数の文献で「紋竹庵」が散見される。つまり、通説的には「紋竹庵」が広く伝えられていたことがわかる。

しかし、前嶋氏のいうように原本や謄写本を確認すると「紋」ではなく「絞」に見える。例えば、築地彦七郎宛長尾張恕書状(*2)の原本や『歴代古案』の謄写本である。『長尾政景夫妻画像』における戒名を見ても「絞竹庵」と記されている。 

長尾為景文書を詳細に検討した阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」(*3)においても庵号は「絞竹庵」とされていた。


以上から、主要な刊本において誤読され、それを元に誤った庵号が通説化したと考えられる。よって正しくは「絞竹庵」であり、長尾為景の入道名は長尾絞竹庵張恕であったことが理解される。

以前の記事においては『新潟県史』を参考として表記していたため修正しておきたい。原本の確認が大切であることを再認識させられた。


*1)前嶋敏氏「越後享禄・天文の乱と長尾氏・中条氏」(『長尾為景』戒光祥出版)
*2)『新潟県史』資料編4、1438号
*3)阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」(『長尾為景』戒光祥出版)