鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示

2022-10-02 14:00:44 | 山内上杉氏
永正7年6月20日、関東管領山内上杉可諄(顕定)が「長森原」にて討死する。前年から越後へ侵攻し府中まで制圧するも、長尾為景の反撃に合っての結果だった。

通説では、「長森原」は現在の南魚沼市長森に比定される。当時の上田庄に位置する場所である。その根拠は、可諄の墓所と伝わる塚の伝承である。管領塚と呼ばれ史跡公園となっている。

しかし後述するが、実際には確実な史料はない。

『越佐史料』所収の編纂史料においても上田庄長森原と示しているものは、『新編会津風土記』が記す伝承が唯一の所見である。むしろ、『越後名寄』や『北越略風土記』においては妻有庄長森原と伝えられている。上田庄、妻有庄共に魚沼郡であり、「魚沼郡長森原」ではどちらかわからない。

『越佐史料』では上田庄長森原と推定し妻有庄長森原を誤りとしているが、その根拠は明らかでない。現在にも地名が残るのは上田庄の長森原であり、そこからの逆算的な考えであれば危うい。ここでは既存の固定観念を捨てて、「長森原」が実際にはどこであったか検討してみたい。

そして結論からいえば、戦場は現在の津南町と十日町市の接する地域、具体的に言えば波多岐庄のうち信濃川、中津川、清津川、十二峠に囲まれた領域に位置していたと考えられる。


1>中世妻有庄と近世妻有庄
はじめに「妻有庄」について説明する必要がある。というのも、中世妻有庄と近世妻有庄では指す領域が大きくこと異なるのだ。織豊期において荘園制は完全に実態を失い、それまでの荘園地域ごとの呼称が変化したことが示されている。「妻有庄」の変遷は『津南町史』の研究に詳しい。

まず、近世妻有庄は戦国期まで妻有庄波多岐庄に分かれていた。近世妻有庄は旧十日町市、旧中里村、旧川西町、現津南町のことを指す。

中世妻有庄は現津南町のうちでも中津川、志久見川に形作られた地域とそれに相対した信濃川北岸の地域であり、その他の地域は波多岐庄と位置付けられていたこと指摘されている。

つまり、戦国期妻有庄と江戸期の史料における妻有庄は別物であることに注意していく必要がある。ちなみに、波多岐庄だった領域が妻有庄に含まれる初見は文禄5年より行われた上杉景勝による魚沼郡検地である。この違いが歴史的認識の齟齬を生む原因になり得るため、便宜的に近世妻有庄を赤色、中世妻有庄、波多岐庄を青色に表記して差別化しておく。


2>長森原合戦前後の山内上杉氏の動向
それではまず、長森原合戦前後の山内上杉氏の動向を整理したい。

[史料1]『越佐史料』三巻、541頁
(前略)
上条弥五郎相馳砌、寺泊要害為始、長茂張陣之衆被除以来、各屋敷打明候之間、同名六郎至于寺泊出張、先衆号椎谷山地執陣間、一昨十日、憲房被及進陣候、然而平五郎上州一揆相重軍不可延引、勝利不可疑、去六日、於蔵王堂同名弥四郎遂一戦、六郎傍輩被官宗徒者百騎人討捕、験到来不知数、残党百、信濃川へ追入候、如斯間、揚河南者、三条、護摩堂計敵相踏候、其外悉復候、黒瀧要害之事者、八条修理、桃井一類在城堅固に候、寺泊六郎等取不除様廻行候、去月信濃口高梨衆同牢人等打出、上郷に相散、号板山地に執陣候間、廿八、九両日、自当府遣勢、可被懸之所敗北、是又可心易候、(後略)
  永正七年六月十二日      可諄
   長尾但馬守殿

[史料2]『越佐史料』三巻、542頁
渡海以後其口之儀不聞候、無心元候処、飛脚到来去月廿日一戦得勝利、糸魚河張陣之由候、各動神妙之至候、此口之事、度々合戦切勝至于柏崎進発、府中口へ先勢差遣候、本意不可有程候、可心安候、委細長尾六郎可申遣候、謹言
   六月十九日     定実
    村山源六殿


[史料3]『越佐史料』三巻、560頁
(前略)
抑去月六月十二日、於椎谷一戦失利候、所存之外候、然処長尾六郎、高梨摂津守競来候間、同廿日遂一戦可諄討死、不及申次第候、椎谷一戦之後者、妻有之庄ニ某立馬候、国中如此之上者、力不及、関東江入馬白井ニ候、(後略)
   八月三日      藤原憲房
  拝呈 上乗院


これらが当時の一次史料である。まず、山内上杉憲房が妻有庄にいたことは文書より確実である。では、系図類ではどうであろうか。

『上杉系図大概』
四郎顕定、越後国守護相模守房定実子、法名可諄、道号告峯、号海龍寺殿、為房顕養子、応仁元年丁亥任管領、永正七年六月廿日、於越州長森原合戦討死、年五十七

『高梨系図』
憲房椎屋ト云所へ押寄合戦アリ、憲房打負妻有荘へ引籠、上野ノ勢ヲ待、重テ退治スヘシトテ軍勢を催ケルニ、高梨・長尾勝誇タル勢ニテ逆寄シケレハ、同廿日ニ可諄長森原へ打出合戦アリテ長尾六郎ヲ追立ラル所へ高梨突懸戦ヘバ、可諄打死シ、悉敗軍シケル、


次いで、江戸期の編纂物を見てみたい。

『関八州古戦録』
山ノ内管領民部大輔顕定入道可諄斎、永正七年六月廿日、越後ノ国魚沼郡長森原ニ於テ、長尾六郎為景、高梨攝津守政盛等ト戦テ討死

『関東管領記』
(椎谷合戦にて)顕定父子軍ニ打負テ、妻有庄へ引退テ、猶上州ノ勢ヲ招キ、暫時令逗留処ニ、為景並ニ高梨摂津守、椎屋ヲ払テ、千二百騎大軍ヲ将テ押寄ス、顕定出向テ、同国長森原ニ於テ合戦ス、顕定入道可諄長刀ヲ持テ、敵兵ニ切懸ル処ニ、高梨摂津守馬ヲ駆寄、組テ落、終ニ顕定を討取ル


以上をまとめると、それまで越中や佐渡に逃れていた長尾為景が永正7年4月に越後蒲原に上陸し寺泊を制圧、その後上杉憲房を椎屋に破り、劣勢となり越後府中を退陣してきた上杉可諄を高梨政盛と共に討ち取ったことがわかる。編纂物では可諄は妻有庄にいたとするものが散見される一方上田庄の名前は全く見当たらない。


さらに上杉可諄戦死の場所を伝える史料を見てみたい。

『新編会津風土記』
越後国魚沼郡之五 六日町組 長森村 長森原
村南ニアリ、永正七年六月二十一日、管領山内ノ上杉民部大輔顕定入道可諄打死セシ古戦場ナリ、(中略)、此合戦ニ打死セシ屍骸ヲ埋シ所ト見エテ、今田園ノ間ニ数十ノ堆土累々トシテ連レル者所々ニアリ、其辺ヲ耕ス者、時々白骨ヲ見ルコトアリト云フ

『北越風土記』
古戦場 魚沼郡
長森原 妻有 山中なり、永正七年六月廿日上杉顕定と高梨攝津守政頼と合戦、顕定敗北討死

『越後名寄』
古戦場魚沼郡妻有庄
長森原 山中也、永正七年六月念日戦場ナリ

『北条五代記』
翌年一揆おこつて府中をはいぐんし給ふ、えちごしなのさかひながもり原にをいて、たかなし落合、おなしき七年六月廿日、とし五十七にしてしやうがいなり

『本土寺過去帳』
越後国関山ニテ薨去、武州管領 可准尊霊 永正七年庚午六月廿日申酉刻討死


このように具体的な場所を伝えるものの記述は注目に値する。まず、『新編会津風土記』
であるがこれが現在の通説である。しかしよく読めば、塚については雑兵の屍骸を埋めたものと伝えており、通説とは食い違いがある。つまり、可諄の遺体を埋めたことが記された史料は認められない。

そして、『北越風土記』、『越後名寄』は長森原を妻有庄と伝えている。

さらに、『北条五代記』は「越後信濃境長森原」としている。信越国境であれば、上田庄ではなく妻有庄のことである。

『本土寺過去帳』は現南魚沼市の関山で死去したことを伝えている。ここまで見ない所伝だが、これについては後述する。

このように通説とは異なり、一次史料や所伝類においても妻有庄の存在は大きく、反対に上田庄との関連は乏しい。尤も先述したように、江戸期史料の「妻有庄」は中世における妻有庄+波多岐庄であることに留意して利用する必要がある。


3>戦場を妻有庄・波多岐庄とした場合の整合性
ここから、長森原が近世妻有庄妻有庄+波多岐庄であったと仮定して整合性を確認していく。最も重要なことは、この地域が越後府中と関東の経路上にあることを認識することであると思っている。

越後府中と関東を結ぶ街道は複数あり、越山後に南魚沼から柏崎へ抜けるルートと南魚沼から松之山を通り直峰へ抜けるルートに大別される。後者が安塚街道や松之山街道と呼称され妻有庄を通過する経路であり、越後府中‐関東を結ぶ最短ルートでもある。

さて、永正6年8月11日国分胤重廻文(*1)には抗争当初上州から進行してきた山内上杉可諄・憲房を高梨氏ら長尾為景に味方する信濃の軍勢が志久見口、白鳥口から妻有庄に出陣し迎撃したとある。つまり、越後入国の際に可諄らは妻有庄を経由するこの最短ルートを用いたことがわかる。妻有庄は山内上杉氏の領有する土地でもあり、自然な選択である。

問題は、可諄らの退却経路だろう。椎谷の戦いに可諄は参戦しておらず、スタート地点は越後府中だ。

ここで上田庄長森原を通るには府中出発後柏崎を通り、小千谷もしくは十日町を経由し南魚沼に出たことになる。しかし、椎谷は柏崎に近く、その後の経路も遠回り且つ危険性が高い。わざわざ敵の近くを遠回りして退却することは非合理的であり、入国時と同様に妻有庄を経由する松之山街道が退却に使用されたと考える方が自然である。そもそも憲房が妻有庄にいたわけであり、可諄も合流したと考えるべきであろう。

この場合、もちろん上田庄長森原は経由しない。


ここからは、さらに退却路について根拠を示したい。

 [史料1]「去月信濃口高梨衆同牢人等打出、上郷に相散、号板山地に執陣候間」に注目する。「板山」は現津南町外丸字板山の丸山に位置する板山城のことであり、「上郷」はその板山の西側に現在も地名が残る。つまり永正7年5月時点でも高梨政盛が妻有庄で軍事活動に及んでいたことが明確である。

この時は5月28、29日に山内上杉軍に敗北し退陣したとあるが、長森原の戦いが起きた6月近くも妻有庄山内上杉軍によってしっかり防衛されていたことの証拠であろう。とすると、6月近くまで信越国境にいた高梨政盛が強固な防衛線が引かれていた妻有庄を飛び越えて上田庄長森原に進軍し可諄を討取るというのも考えにくく、戦場は妻有庄・波多岐庄である方が自然である。


また可諄の退却経路の参考として、永正4年8月上杉房能の事例がある。房能は長尾為景と対立し越後府中から関越国境方面へ退却したわけであるが、逃げ切れずに現十日町市松之山天水にて自害する。この天水という場所は、雁ケ峰峠を越えると妻有庄・波多岐庄に至る。つまり、房能が使用した経路こそ松之山街道である。

先に見た板山城はこの峠を絞扼する位置にある。高梨政盛の板山城を巡る攻防も越後府中と妻有庄の分断を意図したものと見れば、可諄が特に書状に記すほど重要視したことも理解でき、妻有庄は可諄の退却においても重要な拠点とされたことは容易に想像できる。


ここで、『津南町史』を参考に可諄の退却路についてさらに詳細に検討する。府中-直峰-松之山・天水と通過し、雁ケ峰峠を越えると、外丸-鹿瀬へ出て信濃川を渡河する。さらに、その後関東へ出るには十二峠、栃窪峠、切明越など複数の経路があるが、栃窪峠は北上して遠回りする必要があり、切明越は江戸期に至っても通行困難といわれる悪路であるから、可諄は十二峠を越えて南魚沼へ進出し、三国峠から関東への退却を図ったと思われる。

さて、この十二峠についてさらに注目する。『津南町史』における渡河後の推定経路は、津南原-所平-田代-倉俣-小出-葎沢-十二峠-関、という。これは近世妻有庄に位置し、中世では波多岐庄に属する領域である(*2)。合戦が行われるとすれば、この領域と推測される。

さらにここで先ほど掲示した『本土寺過去帳』の記載に注目する。可諄は「関山ニテ薨去」、関山という地にて死去したと伝えるのである。現在、十二峠の麓南魚沼市石打に関山神社が残り、その周辺の地名は「関」である。

長森原合戦が松之山街道を退却する過程で生じたとすると、実際可諄の死亡確認や遺体整理などは戦場ではなく、十二峠を敗走し自勢力が残存する上田庄内で行われた可能性が高いであろう。

越後府中-松之山-妻有庄・波多岐庄-関-三国峠-関東、という関連地が街道に沿って矛盾なく並んでいることが理解できるであろう。

ちなみに、上田庄は永正7年6月以降も山内上杉氏勢力が残っていることが確認できる。上田長尾氏が寝返った結果、可諄は上田庄長森原に追い詰められたというような俗説も見るが、これは根拠がない。妻有庄・波多岐庄であれば山越えで行軍が遅延した所を追いつかれたという流れが想像できるが、平地である上田庄長森原では合戦の生じる理由がなかったため、上田長尾氏が寝返り挟み撃ちになったのだろうという妄想にすぎない。長森原合戦に上田長尾氏の動向が伝えられていないことも寝返ったと邪推された一因だろうが、戦場が上田庄でないのならそれも当然である。

上田長尾氏の寝返りは史料上確認できず、可諄戦死後も上田長尾氏は山内上杉氏方として交戦を続けていた可能性が高いことは以前も検討済みである。

以前の記事はこちら


4>まとめ
このように、諸史料類を吟味していくと長森原古戦場は上田庄ではなく、近世妻有庄、中世における波多岐庄に属する十二峠手前の地域だったと考えられる。


そもそも関東管領ほどの人物が戦死したからといって戦場に放置され、その場で塚に埋められるとは考えづらい。

上田庄は長年に渡り様々な合戦の舞台となっており、それにより放置された雑兵の遺体を埋葬した塚なども散見されたのであろう。そういった塚のひとつが偶然にも地名が一致していたため、著名な長森原合戦と結び付けられ、関東管領の塚などという尾鰭までついて現在に伝承されたと考えられる。中世において交通の要衝だった津南地域だが、現代においては南魚沼地域に主要な交通路が発達し津南地域は山間部の難所といったイメージがありそれをそのまま中世に投影してしまった可能性もあろう。

現在、上田庄に比して妻有庄・波多岐庄についての史料は少ない。これも妻有庄・波多岐庄が見過ごされた一員であろう。しかし、史料が少ないから歴史的価値が低いわけではない。むしろ要地であったが故に山内上杉氏や越後上杉氏の支配が強く、両氏の没落によって史料が失われたのではないか。

山内上杉氏、越後上杉氏だけでなく、上杉謙信の代においても軍事・経済の基盤として重要視されていたことは間違いない。妻有庄・波多岐庄の再評価が今後必要になってくるだろう。


*1)『越佐史料』三巻、519頁
*2)正応4年鳥山氏が「波多岐庄」の深見、倉俣などに関する譲状を発給している。