鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

琵琶嶋弥七郎と「政勝」

2020-11-15 16:16:54 | 琵琶嶋上杉氏
戦国期越後国刈羽郡琵琶嶋を拠点とした一族に琵琶嶋氏がおり、天正3年の『上杉家軍役帳』(以下『軍役帳』)にある「弥七郎殿」は元亀4年上杉謙信書状(*1)の宛名にある「琵琶嶋弥七郎殿」と同一人物と推定されている。『軍役帳』において弥七郎は上条氏、山浦氏、山本寺氏といった上杉一門と並び記載されていることから琵琶嶋氏も上杉氏一門であるとわかる。すなわち、琵琶嶋上杉氏と呼ぶべき存在であったことが理解される。

今回は、琵琶嶋弥七郎という人物について検討してみたい。

琵琶嶋に位置する鵜川神社には戦国期の文書が多数残存している。まずは、その中の一つである、某政勝宛行状を見る。


[史料1]『新潟県史』資料編4、2273号
就軍役過上、彼地八幡田之義、可召放由存候へ共、様々致詫言候間、新而出之候、於向後者、八社詫言仕候共、於彼地相違有間敷候、連々宮之儀取立可申候、仍如件、
 天正四年
   七月二日            政勝
   千日大夫

[史料1]は天正4年に某政勝が千日大夫宛に「彼地」を安堵しているものである。内容は、政勝配下千日大夫の軍役と領地の調整である。天正3年に上杉氏において『軍役帳』が成立し、上杉謙信によって軍役の整備が進められていたと考えられる。その中で、天正2年上杉謙信軍役状(*2)では和田中条氏に対し「鑓」や「馬上」の数を増減させて調整している様子も見える。[史料1]もそうした動きに対応したもの、と推測される。軍役に合せて、「召放」(没収という意味か)が予定されていた土地を安堵していると捉えられる。

ここで注目するのは、『白川領風土記』の記載である。そこでは[史料1]が記され、政勝を「上杉七郎政勝」と伝えている。さらに「系図纂要上杉系図ヲ検スルニ亦政勝所見ナシ」、北越軍記に「上杉左衛門尉政勝」が登場するのみとし、「疑ヲ存シテ後考ヲ俟ツ」と記す。上杉七郎政勝についての考察過程がよくわかり興味深い所伝である。『越佐史料』もこれに従い、「上杉政勝」と比定している。

上杉七郎の名乗りと、琵琶嶋という土地から推測されるのは琵琶嶋上杉氏である。

よって、[史料1]は上杉一門として琵琶嶋に存在した琵琶嶋弥七郎政勝による文書であることが推測される。


[史料2]『越佐史料』五巻、227頁
細工之為辛労分、内藤分事五百苅、諸役停止出之、於何時も申付候細工之儀、無如在可致之者也、仍如件、
  天正二年六月十五日     政勝
            歌代神五郞

[史料2]は刈羽郡鵜川庄に伝来した文書であり、琵琶嶋を拠点とした政勝の発給とみて矛盾はない。

天正6年には琵琶嶋善次郎という人物が琵琶嶋で活動していることが確認され(*3)、この時点までに政勝は死去していたと考えられる。


また、『越後平定太刀祝儀写』永禄2年の部分には「びわ嶋殿」という記載があるがこれは政勝とは別人と考える。詳しくはまた別の機会に譲るが『上杉御年譜』には永禄12年12月に「枇杷島弥七郎病死ス」との記事を載せており、政勝はこの人物の後に琵琶嶋氏を継承したと推測される。また、今福匡氏(*4)は『上杉御年譜』には弥七郎死去に続いて「嫡子ナキニ付テ名字断絶ス」、『越後三条山吉家伝記之写』に「琵琶嶋は在名、本名は長尾」とあることから、長尾氏との関係を指摘しており、政勝は琵琶嶋氏直系ではない可能性がある。実際、他の上杉氏一門山浦国清なども他家からの養子であるように、それは十分に考えられるであろう。


以上、元亀~天正期にかけて琵琶嶋弥七郎政勝が存在したことを確認した。


*1)『越佐史料』五巻、173頁
*2)『新潟県史』資料編5、3698号
*3) 『越佐史料』五巻、624-625頁
*4) 今福匡氏『上杉景虎 -謙信後継を狙った反主流派の盟主-』(宮帯出版)



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