鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾為景から晴景への権力移行を考える

2023-10-10 21:54:53 | 長尾為景
前回前嶋敏氏の論稿(*1)を参考にして長尾為景から晴景への家督相続が天文9年8月であったこと検討した。今回はそれを踏まえた上で為景から晴景への権力移行の様子を見ていきたい。さて、為景その死去まで権力を維持し晴景の活動は確認されないわけだが、為景は晴景への権力移行をどの程度考えていたのだろうか。結論から言えば、計画的に息子への権力移譲を考えていたと私は考えている。そのことは古文書からも読み取れる。以下検討していく。


晴景は為景の没後まで発給文書が確認されない一方、幼名道一の時点から幕府・朝廷とのやり取りにおいて受給文書(*2)が確認される。これは為景が自身の死去直前まで自身に権力を集中させていた一方、早い段階から幕府朝廷へ晴景を露出させていたことが窺える。為景は意図的に晴景へ権威付けを行っていたと思うのである。これはもちろん為景の見栄や名誉欲ではなく、戦国といえども足利幕府体制が残る当時、守護代としてあくまで守護上杉氏の下位に位置する長尾氏の戦略である。幕府・朝廷の権威は当時も十分に効果のあるものであった。

享禄元年12月に長尾道一は将軍足利義晴より「弥六郎」の名乗りと「晴」字を与えられ、長尾弥六郎晴景を名乗る(*3)。将軍の偏諱はそれ自体が栄典であり、権威であった。木下昌規氏(*4)は偏諱の授与が「随分の者」、「先例」を基準とし、他家の被官=陪臣の立場では不可であったことを示している。守護代長尾氏においてこれまで将軍の偏諱を受けたものはいなかったから、これが異例であったことがわかる。つまり、これをもって単なる守護上杉氏被官ではなく将軍家と直接つながりを持つ存在であることが明確に示されたといえる。一字拝領が越後長尾氏にとって家格向上、晴景の権威上昇に繋がったことが理解される。

為景自身もこの時「白傘袋・毛氈鞍覆」の使用許可を受けており、その権威上昇を図っている(*5)。ちなみに木下氏によると白傘袋・毛氈鞍覆は陪臣層にも授与が確認される栄典であり、偏諱の方がより厳しい身分基準の元で授与の判断がなされていたという。

さらに享禄3年2月に足利義晴から小袖が下賜されるが、これも「長尾信濃守・同弥六郎対両人、小袖遣之候」(*6)とあり、為景は晴景と共に交渉に臨んだようだ。御礼品の献上についても書状類が多数残るが、為景名義と晴景名義でそれぞれ献上していたと推定される。越後国内において為景が晴景と連署した例や、同様の内容で書状を出している例はないことから、幕府工作では意図的に晴景を強調していたと考えられる。晴景と幕府関係者のパイプを構築する意味もあったのだろう。次世代へ向けて、権威付けだけでなく事務的な人脈の構築まで手助けしたことが推測される。現代とは異なり、交通・通信が発達していない時代である。遠方の勢力は自ら働きかけなければ幕府・朝廷にその存在すら知られることはなく、それ相応の人脈を持たなければ交渉を有利に進めることはできなかったのである。

さらに、為景は義晴の小袖のみならず佐子上臈の唐織物獲得も目指す。佐子上臈は義晴乳人で女房衆筆頭、義晴の後見を行うほどの有力者である。結果的に唐織物は下賜される(長尾為景・晴景と佐子上臈局「唐織物」をめぐる動向 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。ここで注目したい点は、唐織物が「晴景母」へ与えられるとされている点であろう(*7)。やはり晴景の名が登場し、結果として唐織物下賜は晴景の権威上昇に繋がる。為景が闇雲に権威を乱獲していたわけではなく、しっかりと次世代まで見据えた計画の元に進めていたように思える。

その後天文の乱が勃発し、為景は上条定兼ら反抗勢力との抗争を余儀なくされる。為景はこれに際して、朝廷へ天文4年に「御旗」獲得、天文5年に「治罰綸旨」を求めいずれも認められている。しかし、この時は為景が交渉の中心であり晴景の名前は出てこない。これが目下の抗争と関連し「御旗」や「綸旨」は偏諱や小袖より高度な政治性があったことが理由だろう。つまり、これは為景の越後支配のための一手であり、晴景への権威付けとは関係ないといえる。

そして、天文9年8月に家督を継いだ晴景が文書に現れるのが伊達入嗣問題の決裂、揚北衆中条氏の離反に伴う伊達稙宗の越後侵攻に対応した天文9年「私敵治罰綸旨」の獲得である。朝廷への政治工作が為景を中心に行われていることは多額の献金を献上していることから明らかであるが、同年9月27日長尾晴景宛広橋兼秀書状(*8)に「私敵治罰綸旨事、所望由候条、申調進入之候」ように肝心の綸旨については晴景が申請し受け取る形で交渉が成立している。同年9月27日長尾為景宛高橋宗頼書状(*9)にも「弥六郎殿御申綸旨」とあり、為景ではなく晴景個人へしっかり認識された上の綸旨であることは確かである。この綸旨も進行中の抗争を収める目的で申請しているが、先の綸旨と異なり晴景が綸旨を受け取ったことになる。晴景への家督相続が転機であったと考えられる。つまり、この時既に家督を晴景に譲っていた為景は晴景宛に綸旨を受け取り、晴景による越後支配を進めていく考えがあったと見て間違いないだろう。天文9年8月における家督相続により晴景が越後の国内政治の表舞台に立ったと評価することが可能であろう。


ここまで、為景の晴景に関する幕府・朝廷工作について見てきた。まとめると、家督を譲る前から晴景への権威付けを行い、家督相続後は後見を行いつつ晴景を中心として治罰の綸旨を獲得するなど、為景が計画的に晴景への権力移譲を行っていたことが理解される。

その後の長尾晴景は、天文13年4月後奈良天皇綸旨(*10)を得て越後国内の支配を進めるなど、為景時代から引き継いだであろう朝廷とのパイプを駆使しながら越後一国を失うことなく次世代へ繋いでいる。守護代長尾晴景は父、弟と比較され劣っていたとされることが多いが、歴史的価値の低い軍記物などに依拠していた部位が多い。長尾景虎への権力移行は晴景自身の病気が原因であり、晴景無能説や兄弟相克説が眉唾であることは言うまでもない。また、晴景と景虎は年齢の離れた兄弟であり、晴景は年齢相応に病没としたと見るべきで、病弱で求心力の低い当主という見方も適切ではないだろう。

残存する史料の少なさから正当な評価がなされていないと感じる晴景であるが、今後客観的な観点からの再評価が求められる。

追記:2024/2/4
[史料1]『新潟県史』資料編5,2716号
就 若君様御元服之儀、所被申無余儀候、雖然漸候間、相急被走廻候者、可為快悦候、巨砕各可申遣候、謹言
   九月十一日          憲当
     長尾六郎殿

[史料1]は佐藤博信氏(「足利藤氏元服次第のこと」『中世東国の支配構造』)によって天文17年9月における古河公方足利晴氏嫡子足利幸千代王丸=藤氏の元服に関する書状であることが明らかにされている。つまり、将軍足利義藤から古河公方足利藤氏への偏諱が山内上杉憲当(後の憲政、光徹)を通して行われ、憲当は交渉ルートとして越後の「長尾六郎」=長尾弥六郎晴景を選んだことがわかる。これについて佐藤氏は享禄元年における足利満千代王丸=晴氏の元服・偏諱の山内上杉氏から長尾為景を通して幕府への交渉を進めた手順と同様であるとの評価を下している。このことは長尾晴景は前代為景の政治的パイプを引き継ぎ、維持できていたという証拠になろう。関東と京の交渉を仲介できるほどの政治的な安定も実現できていたことが推測され、長尾晴景による越後支配が一定の水準にあったことがうかがわれる。

ただ、[史料1]の直後天文17年10月から重臣黒田秀忠が反乱し再び越後に混乱が生じていくことになる。簡単に言えば、晴景の治世は相続直後で不安定な初期、安定していた中期、黒田氏の反乱が生じ景虎への家督交代へとつながる不安定な末期と大きく三つに分けられると言えよう。


*1)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』2015年9月号)
*2)『新潟県史』資料編3、119号、120号
*3)『新潟県史』資料編3、116号、117号、118号
*4)木下昌規氏『足利義晴と畿内動乱』197頁~、(戒光祥出版)
*5)『新潟県史』資料編3、63号
*6)『新潟県史』資料編3、294号
*7)『新潟県史』資料編3、295号
*8)『新潟県史』資料編3、998号
*9)『新潟県史』資料編3、999号
*10)『新潟県史』資料編3、776号