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イチゴロー’s Memorandum

日々の出来事、雑感や思いついたことの記録です

今日は

2021-10-10 07:28:43 | 伝える
今日10月10日は1964年に開催された東京オリンピックの開会式が行われた日です。
東京オリンピックは第2時世界大戦終結後、初めてアジアで開催されたオリンピックです。
それを記念して後日、体育の日として祝日になったのです。ですが、なぜか由来が不明として10月第2月曜日となってしまいました。
開会式の会場となった代々木の国立競技場上空で、航空自衛隊のブルーインパルスが見事な五輪を描き、話題になりました。
政治的には東京オリンピックは大東亜戦争で敗戦した国が復興した事を世界に知らしめる意味合いもありました。
無理矢理感はありますが、東名高速道路が開通し、東海道新幹線も開通しました。(させました。が正解かも)

硫黄島の戦い

2021-07-04 21:25:41 | 伝える
大東亜戦争の末期、当時の陸軍を主体とした硫黄島守備軍は、圧倒的兵力のアメリカ軍と戦いました。そして硫黄島守備軍はほぼ全滅。しかし、アメリカ軍にも硫黄島守備軍を上回る損害を与えました。

硫黄島はグアム島と日本本土との中間地点に位置し、アメリカ軍は日本空襲の爆撃機隊の護衛戦闘機隊発進基地と被害を受けた爆撃機の避難場所を必要としていました。
日本にとっては絶対国防圏として何としても守る必要がありました。

兵力は日本側は栗林忠道中将率いる陸軍の小笠原兵団、海軍合わせて約21,000名です。一方、アメリカ軍は海軍がリッチモンド・ターナー海軍中将(総司令官)の4個任務部隊と上陸部隊であるホーランド・スミス海兵中将の1個任務部隊、海兵隊がハリー・シュミット海兵少将の1個水陸両用軍団の約61,000名と圧倒的でした。

栗林中将は硫黄島を守り切ることは不可能として、アメリカ軍の進攻を遅らせるため、地下壕陣地を活用した遅滞戦術を取ることにしました。背景にはサイパン島の水際防御の失敗とペリリュー島の中川州男(くにお)陸軍大佐の戦いを戦訓としています。ペリリュー島の戦闘については機会がありましたら取り上げたいと思います。
戦闘に先立ち、栗林中将は軍人、軍属を除く島民を全員避難させています。もちろん戦闘に巻き込まないためです。
アメリカ軍は事前攻撃として艦砲射撃、艦載機による空襲で相手の戦力を喪失させて海兵隊の上陸といつも通りの戦術です。

戦闘は1945年2月16日にアメリカ軍による艦砲射撃から始まりました。2月19日にアメリカ軍は硫黄島への上陸を開始しましたが、ここから日本軍の反撃が始まります。
事前攻撃ではほとんど損害のなかった日本軍は、地下壕陣地から上陸したアメリカ軍に対して攻撃したのです。アメリカ軍は水際で攻撃されなかったことから油断もあったのでしょう。
上陸はしたものの日本軍の猛烈な攻撃で多数の死傷者や戦車などの被害を出しました。
日本軍は夜間にハラスメント攻撃を行うなどで抵抗しましたが、次第に戦力を失い、3月26日に最後の総攻撃を行うことで組織的戦闘は終了しました。
アメリカ軍はここまで奮戦した栗林中将に敬意を払い、その遺体を捜索したそうですが、階級章や身分のわかるものを全て外していた栗林中将の遺体を発見することはできなかったそうです。

日本軍は約20,000人の戦死者、アメリカ軍は約28,000人の戦死傷者出すという結果に終わりました。アメリカ軍の損害が日本軍の損害を上回るという、かつてなかった結果です。

戦後になってこの戦闘に参加した日米の軍人たちが硫黄島で合同慰霊式を開催するようになりました。
最初の合同慰霊式で建立された慰霊碑にはこう記されているそうです。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉を以って戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である」

現在、硫黄島に一般人が立ち入ることはできません。元島民はもちろんのこと、短期滞在することもできません。
島に駐留する自衛官と米軍人がいるのみです。

戦争は敵の命を奪い合う事だと前に書きました。
戦争に正しい戦争も悪い戦争もありません。そこにあるのは、かけがえのない命が失われていく事だけなのです。

いつの日か国家間の争いがなくなり、軍人たちがその使命を終える日が来る事を祈りたいと思います。

余話
海軍側司令官であった市丸利之助少将は「ルーズベルト二与フル書」という書簡をしたため、市丸少将の目論見通りにアメリカ側に渡りました。
この書簡はファシズム打倒の大義名分とスターリンのソ連と手を組むことの連合国側の矛盾を突いていました。しかし、ルーズベルト大統領は4月12日に亡くなっているため、読むことはありませんでした。
市丸書簡はアナポリス兵学校海軍博物館に保存されているそうです。

敵国条項

2021-02-07 16:25:58 | 伝える
国連憲章の中に「敵国条項」があることをご存知でしょうか。敵国とは第二次世界大戦に於ける枢軸国を指しています。
この条項では旧枢軸国が再度、敵対的な行動を起こそうとした時に安全保障理事会の許可がなくても軍事的制裁を行うことができるというものです。
ロシアと中国は日本に対して、この敵国条項を持ち出すことがあります。特に中国は尖閣諸島に絡んだ問題で敵国条項を持ち出したことがあります。
敵国条項を国連憲章から削除するためには、国連総会で加盟国の3分の2以上の賛成と国連加盟国の3分の2以上の批准が必要です。
1995年121月11日の国連総会で採択されており、あとは3分の2以上の批准を待つのみとなっています。
なお、隣国については第二次世界大戦当時は日韓併合によって日本領であったため、この条項は適用されません。
なぜフィンランドが敵国条項の対象国になっているかと言うと、第二次世界大戦でソ連と戦ったためです。積極的に枢軸国側に立って戦ったのではありません。
ソ連のフィンランド侵攻を食い止めるために戦ったのですが、ドイツと秘密軍事協定を締結したことが大きいのだと思います。
戦争が終わって70年以上も経つのに、未だにこのような条項があること自体が異常なのです。

Wikipedia


大空の勇者

2019-06-24 23:28:06 | 伝える
約20年前の出来事です。1999年11月22日、訓練飛行をしていた自衛隊機が基地へ帰投中に墜落事故を起こし、首都圏で大停電が発生しました。この機体を操縦していたパイロット2名が死亡しました。
この事故はデスクワークなどについているパイロットが定められた飛行時間を満たすために行われた訓練飛行から入間基地に帰投中に機体が故障し、入間川の河川敷ゴルフ場に墜落する寸前に送電線を切断したために首都圏が停電しました。
当時は左翼系の新聞は随分と自衛隊を叩いていました。今でもそのことは変わりませんが。

入間基地に帰投する訓練機がなぜ入間川に墜落したのか?
パイロットは二人とも飛行時間が数千時間というベテランでした。推力を失い操縦困難な機体を入間基地を取り囲む住宅街に墜落することを避けるために墜落寸前まで脱出していません。この訓練機の脱出装置は高度600m以上で有効でした。(現在は0・0システムと言って速度0、高度0でも脱出可能です。)
緊急着陸するために入間基地への進入コースを取っていた訓練機から高度600m以上で脱出すると訓練機が住宅街に墜落する可能性大でした。というか、ほぼ確実でした。
そのために墜落ギリギリまで操縦を続け、入間川の河川敷に機体を誘導した後、本当に墜落する直前に脱出装置を動作させました。助からないことはわかっていたのにです。
自衛官の服務宣誓に「身をもって国民の生命と財産を守る」という一節があります。二人のパイロットはこの一節を実践したのです。

当時の自衛隊のパイロットはインタンビューでこう答えています。
「私も最後まで操縦する覚悟はあります。そしてわずかでも時間があれば脱出装置を動作させます。脱出装置を整備した整備員が心配しますから」

事故調査委員会の調査で、事故原因は燃料供給装置の故障でした。燃料が機体内部で漏出し、着火。それにより制御装置が溶けてしまったことで燃料供給がストップし、エンジンが停止ました。

私はこの二人のパイロットは勇者だと思います。

射撃管制レーダー照射問題のその後

2019-01-08 18:29:53 | 伝える
昨年12月に起きた韓国駆逐艦による海上自衛隊哨戒機への射撃管制レーダー照射問題ですが、未だにゴタゴタしています。
と言うのも韓国側の反論動画が反論になっていないからです。独自の映像はほんの少し。大半は海上自衛隊哨戒機が撮影した映像だったことによります。
至近距離で超低空を飛行して威嚇した。と言っている韓国ですが、反論動画ではその証拠は提示されていないからです。
前の投稿で韓国の駆逐艦がなぜ、あの場所にいたのかも明らかではありません。と書きました。一説では北朝鮮と瀬取りをしていたのはないとまで言われています。もし、瀬取りをしていたなら国連決議違反であり、制裁の対象になるのですが…
正直な話、疑問だらけです。また、海上自衛隊哨戒機が通常とは違うコースを飛行していたのかも不明です。
大和堆付近は好漁場であるため、北朝鮮の漁船が不法操業しています。これは海上保安庁の出番であって海上自衛隊の出番ではありません。

こうして見ると韓国だけではなく日本側にも疑問点はあります。解決にはもう少し時間がかかりそうです。