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小さき花-第1章~6

2019-12-04 19:08:30 | 小さき花
また、一日田舎に住居しているところに行かねばなりませんでした。そのとき母はマリアに向かって「テレジアに一番好きな衣服を着せ、腕を露わさないようにしなさい」と命じました。私はこれを聞いて扮装などは一向に頓着しないというような顔をして黙っておりましたが、腕を露わすようにして下さったならば、私はもっと可愛らしい風に見えるのに……と、心の中に思いました。
 私の性質は斯様に悪い傾向がありましたので、もしもこれが信仰の無い、徳の無い親に育てられたならば行く末必ず悪い者となり、自ら己の霊魂をも滅ぼすような哀れな者となったかも知れません。しかし幸いにも聖主は自分の小さき許婚に恩恵を垂れ、御眼を注いで下さったのでこの多くの欠点は利益になるようにお計らい下さいました。それでその欠点を矯め、これに打ち勝つようになり、ついにこれが善徳に進む便りとなりました。私は自尊心、自愛心と善を好む心を持っておりましたから、一度誰かに此れは悪い事である彼をしてはならぬと教えて貰えば、再びこれをする気になりませんでした。私は母の手紙を見て喜んでいるのは、私が成長するに従って益々母に慰めを与えておったという事であります。
 幸いにも私の周囲には、ただ良き模範ばかりありましたので、自然にこれを見倣っておりました。四歳前後の時に書かれた母の手紙の中に「……テレジアさえも犠牲を捧げようとする、マリアはセリナ、テレジアに犠牲の仕業を数える為に出来た小さいコンタツのような物を与えました。ところが感心にも此の幼い子供はそれから後、一日に何回となく懐中に手を入れて、些細な犠牲を捧げて数えるのです。また、二人が寄って時々面白い霊的の講話をしますが、ある時もセリナとテレジアとが何か問答をしているから、黙って聞いているとセリナに向かって「天主様はどうして小さい「ホスチア(聖体のパン)」の形色中におられる事が出来るのであろうか」と尋ねると、テレジアは「そんなに難しくはありません、天主様は全能であるからと」「それならその全能は」「何でも皆思うままに出来るという事です」と少しも困った様子がなく、すらすらと答えたのです。此の二人はなかなかの仲良しで、一緒にいれば一日退屈せずに遊んでいる。あるとき乳母がテレジアにつがいの鳥を与えたところ、彼女は直ぐに雄鳥を姉に与え、それから後、毎日食事が済むと姉セリナは雄鳥と雌鳥を捕らえテレジアと一緒に炉の傍で喜んで遊んでいるのです。ある朝も、乳母が衣服を着せ替えるためにテレジアの寝台に言ったが、一向に姿が見えないので驚いてあちらこちらを捜し、ようやくセリナの寝台の中に入っているのを見つけました。ところがテレジアは固くセリナを抱いて乳母に「二人はちょうど此の小さい鳥のようなもので離れる事が出来ませんと申しました……」と。
 実際、此の手紙にある通り、私はセリナを離れて一人でいる事が出来ない程仲良く食事の折りなどもセリナが先に終わって部屋を出ると、私は食事を棄ててまでも一緒に付いて出るくらい親しくありました。日曜日には教会に行くにはあまりにも小さいので母は私を留守番に残していった時には、音がしないように足のつま先で歩いて出て行かれました。しかし、私だけ家に残っておりまして、皆がミサから帰り家の門が開くと飛びたつばかりに嬉しく、すぐさま美しき小さき姉の側に走りより「姉さん、早く祝せられたパンを頂戴」と言って、セリナから祝せられたパンを貰うのが楽しみでありましたところが、ある日曜日セリナがこれを持って帰りませんでしたから、私は「これは私のミサとなるべきものであるから、どうしても食べずにいる事は出来ません。早く拵えてください」とせがみました。するとセリナはしばらく考えたあと、立って台所の押入れを開け、パンの一切れをとり、真面目になって天使祝詞を唱え終り、うやうやしそうにして私に渡してくれましたから、私は更に十字架の記しをして食べました。私にとっては本当に祝聖されたパンと全く同じ味があると思ったからであります。
 ある日レオニアは遊び事をするには年齢が行きすぎたと見えて、綺麗な籠の中に人形の衣類等を多数入れ、その上に自分の人形を置いて、私とセリナが遊んでいるところへ売る真似事に来ました。そしてその中の物を何でも選べと申しました。セリナは小さい紐を取りました。私は暫く考えてから「みんな選ぶ」と言って、遠慮会釈なく衣服も人形も籠までも取りました。(無論、この籠の中には好きな布も、嫌いな衣服も有ったでありましょう)私の幼年のこの一例はちょうど私の一生の略歴であります。(すなわち私は天主様に対して気に入る事だけ努め、気に入らない事をしないというような勝手な事をせず、いつも聖寵のすすめに従い、まったく聖慮に従ったのであります。)
 後、私は完徳が解るようになりましてから聖人になるには(一)多大の艱苦をなめる事(二)最も完全な方法を執る事(三)自分を全く棄てるという、この三つがなければならぬという事を悟りました。また、完徳にはいろいろの階級があって、各々の霊魂が聖主の恩寵のお招きに従うと否と、また多く愛すると、少なく愛するという自由、主が望み給う犠牲を選ぶ自由を持っているという事を悟りました。そのとき私は幼年の時のように「主よ、私は生半可の聖女となる事を望みません。みんな選び取って全き聖女となる事を望みます。私の最も恐れている唯一の事は自分の意思だけに依るという事でありますから、どうかこの私の意思を取り除けてください。私は主の為にいかなる苦難をも忍び、主の望み給う総ての事を皆選び行います」と祈りました。
 母様!私の申し上げる事が前後になりましたが、未だ少女の事を申し上げる筈でなく三歳四歳赤子の時代のお話しを続けましょう。
 その年に見ました夢は未だにありありと明らかに記憶しております。その夢は私がただ一人、庭園を散歩しておりました。俄かに木陰から突然見苦しい悪魔が二つ現われ、足は重い鉄鎖で繋がれてあるにも拘らず、そこにあった石灰の空き樽の上にすこぶる敏捷に躍り舞っているのを見ました。私のいるのに気づいたのか、少し驚いた風をして、私を燃える眼つきで睨みつけ、忽ち樽の中に飛び込みました。私は彼等が何をするかを知りたく思い、窓の方に行きました。すると彼等は私を恐れたのか、その空き樽に飛び込み、また飛び出したりして駆け回りました。終いには庭の方の洗濯部屋に隠れてしまいました。
 これはうたた寝の夢で、無論、この夢は何の不思議でもありませんが、しかし天主様は私に「聖寵の持っている霊魂は決して悪魔に恐れるには及ばない、悪魔は至って臆病な者であって、たとえ小児の霊魂でも聖寵に充たされておりさえすれば、これを退ける事が出来る」という事を深くさとす為に、この夢を利用なされたのであろうと思いました。(続く)

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