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小さき花-第5章~1

2022-09-02 12:00:39 | 小さき花

 【5】
 天井から私に莫大の恩寵を与えて下さいましたが、私はこの恩寵を受けるだけの功績も価値もない者でありました。私は善徳を行いたいという熱望をいつも絶えず抱いておりましたが、私の行為にはいろいろの不完全が混ざり、至って激しい感情が他人にとってはさぞうるさい事でありましてでしょう、そしてこの困った欠点は如何に諭されても直すことが出来ませんでした。
 然るにかような欠点がありながら、どうして近いうちに「カルメル会修道院」に入ることが出来るだぞと思っていたでしょうか、私はこの欠点に打ち勝つには、ぜひ一つの奇蹟がなければならないと思い、平素これを望んで居りましたところが、1886年の12月25日という忘れる事の出来ない日に於いて、聖主イエズス様は此の奇跡を行ってくださったのであります。
 即ち愛すべき幼きイエズス様は、この御降誕日の背中に私の霊魂の闇を破って光を輝かせてくださいました。そしてなおも私を愛するため、御自身は弱く小さいお方となられて、私を強く勇気あるものとされ、御自身の武器までも与えて下さいましたので、私はこの夜からいろいろの欠点に打ち勝つことが出来、勝利に勝利を重ね、丁度巨人の歩調の如く早く完徳の方に進むようになりました。私の涙の泉も乾いたので、ここから後は泣く事が稀になり、容易な事では泣かないようになりました。 母様、私はどういう場合に於いて、この図り難き貴重な恩寵を受けたという事を、ただいま申し述べましょう。この日の夜12時のミサ聖祭が住んで家に帰りました。姉たちはまだ私を幼児の様に取り扱って居りましたので、この日も例年の様に降誕祭の祝いとして、私の為にいろいろの菓子やおもちゃを木靴の中に入れ暖炉の傍に置いてありました。
父も私がその奇妙な靴の中から、いろいろの珍しい物品を取り出す度毎に喜ぶ声を聴いて喜んで居られましたから、私も父の喜びを見て益々愉快に感じて居りましたが、しかし今年は聖主イエズス様が私の幼年の欠点を除かせたい思召しでありましたから、園全農の摂理に依ってこの無邪気な喜びを止めさせてくださったのであります。即ち父は毎年の習慣に反して少し煩そうに「もうテレジアも大きくなったから、そんな子供らしいことも今年だけで終いにしよう」と私の心を貫くようなことを申すのを、私が二階に上がる間に聞きました。
 セリナは私の感情の激しい事を知っておりますので、直に私の後を追って二階に上がり低い声で「お前は直ぐに降りなさるな、ちょっと待ちなさい…いまお前が父様の前で、靴の中から取り出すときに、もう今年でお終いであるなどと思うと必ず泣くに違いないから……」と申しました。しかしこの時にはもはや私の心は聖主の恩寵を受け、以前とは全然変わっておりましたから、早く食堂に行く、涙と打ち騒ぐ動悸を抑えつつ靴を取り上げて父の面前に置きちょうど女王のような態度で喜びつつ中に入っているものを皆取り出しました。そのとき父は少しも不愉快な顔色がなく相変わらず微笑んで居られました。そしてセリナも私の泣かないのを見て夢のように思って居りました。幸いにも夢でなく一つの事実でありました。これはつまり私が4歳6か月の時に失っていた霊魂の根気を復活したもので再び失せぬようになりました。
 この光に照らされた夜から、私の第三の時代に移ります。この時代は一番幸福な時代で、また、天の恩寵の最も豊かな時代でありました。
 私は数年の間、遂げることが出来なかった大事業を、聖主が私の善意を御満足なさって、僅か一瞬で成し遂げてくださいました。すなわち私は使徒のように「主よ私らは終夜働いて何をも獲ませんでした(ルカ5の5)」という事が出来ましたが、主は弟子等に対して顕された御情けよりも、一層私に対して多大の御情けを顕して、御自ら網を取って魚充満に漁どられ、私を以って霊魂を漁どる者としてくださいました。
 それ故、私の心の中に愛徳が燃えるように起こり、同時に絶えず己を忘れねばならぬという必要を感じましたので、私はその時から幸福なものとなったのであります。
 ある日曜日、ミサが終ったのち、祈祷書を閉じましたところが、聖主が十字架にかかっておられる聖絵が挿し挟まれてあって、釘づけられて紅の血に染まっている片手が見えました。この時、私は胸も裂けるような悲しい残念な感じが起こって、この聖き御血が下に滴るのを見て、この御血の滴を誰も受けに行かぬのかと思って悲しみました。そして私はこの救霊の梅雨を受け取って、人々の霊魂の上に注ぐ為、いつも十字架の下に立とうという決心を致しました。即ち他人の霊魂を助けるという志が起こったのであります。
 それ故、その日からイエズス様の「渇き」という十字架上の叫びが私の胸に響きますので、私の心の中に今迄覚えなかった一つの不思議な烈しい熱愛が起こりました。即ち我が親愛なる聖主の渇きを癒したいと望むと同時に、私も多くの霊魂を助けたいという渇きを覚えたのであります。そこでよし如何なる犠牲を捧げても、多くの罪人を地獄の永遠の火から逃れさせたいという望みが起こりました。ところが聖主は私のこの熱愛を励ます為、我が熱望がご自分のお気に召すという事を示して下さいました。
 ある日、私はブランジニという大罪人が、恐ろしい殺人罪科の為に死刑の宣告を受けましたが、それでも痛悔の念を起こさず、永遠の処罰をも思っていないという談話を聞きましたので、どうにかしてこの人の憐れな霊魂を助けて、取り換えしのできない不幸から逃れさせたいと思い、いろいろとその手段に掛かりましたが、私一人の力では、どうする事も出来ないという事を知って居りますから、イエズス様の限りない功徳と、諸聖人の功徳とを捧げてその助けを祈祷しました。



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