公式サイトはこちら 座・高円寺2 8月5日のみ
ニューヨークで東日本大震災を知った演劇人たちが短編戯曲のリーディング企画を立ち上げ、それが全米70か所を越える地域に広がり、1年後の2012年3月11日、「SHINSAI Theaters for Japan」として開催された。公演の収益金はこの夏のあいだにまとめられて、日本劇作家協会を通して被災した演劇人の活動のために用いられることになっている。アメリカの厚情と友情に応えて、同企画に提供された日米の劇作家の作品すべてを日本語で読む。
少しわかりにくかったのは、アメリカで読まれたのが日米両国の作品であり、それと同じ作品を、ほぼ同じ順序で上演する・・・という流れがぴんとこなかったためであろう。しかし国やことばの違い、また震災という災禍をじっさいに体験したかそうでないかという違いがあっても、演劇という共通言語によって交流が生まれ、この日の公演が行われたことを喜びたい。想像を絶する困難において、演劇にできることは確かにあるのだ。
自分は第一部を観劇した。俳優が座る椅子、立って読む場合の台本を置くスタンド以外は道具もなく、音響や照明の効果もごくわずかだ。正面のホリゾントに作品名や作者の名前が映し出されるだけの、シンプルなリーディングである。
作品はどれも10分前後のもので、長い本編を凝縮したもの、あるいは抜粋で読まれるものもあった。9編は以下の通り。
①「残された人」鴻上尚史作・演出②「少数の屈強な人々」ジョン・グワー作 小田島恒志訳 成島秀和演出③「さようならⅡ」(抜粋)平田オリザ作 谷賢一演出④「子は人の父」フィリップ・カン・ゴタンダ作 吉原豊司訳 土田英生演出⑤「北西の風」篠原久美子作 関根信一演出⑥「あの頃の私たちの話」リチャード・グリーンバーグ作 谷賢一訳・演出⑦「一時帰宅」坂手洋二作 前川知大演出⑧「この劇の長さはウラニウムの半減期」スーザン=ロリ・バークス作 常田景子訳 河原その子演出⑨「指」瀬戸山美咲作・演出
不思議なのは、話されている内容や作品の設定に興味を抱いて耳をそばだてたものの、やがて意識が遠のいてしまったもののほとんどが翻訳作品であったことである。②「少数の屈強な人々」では永山智啓(elePHANTMoon)や宮崎雄真が好演し、④「子は人の父」は、父と子の複雑でありながら普遍的な関係がスライドの写真とともに幻想的な劇世界を構築、⑥「あの頃の私たちの話」では半分は日本人の血をひく息子が、白人の母親に抱く感情と東北で被災した親戚たちへの思いに苦悩する姿、⑧「この劇の長さは~」は、演じる3人の女優新井純、松浦佐知子、山像かおりがとにかくよかった!
・・・にも関わらず、しっかり覚醒していたのは⑧のみであとは残念ながら「ちゃんと聴きとった」とは言いがたく、ふがいないことであった。
ラストを飾ったのは瀬戸山美咲作・演出の『指』である。昨年「日本の問題」で初演され、この春は「日本の問題ver.311」において違う演出で上演された。今回のリーディングは初演と同じつついきえ、山森信太郎(髭亀鶴)のキャスト、作者である瀬戸山美咲の演出で行われた。リーディングではあるが、ト書きはいっさい読まれない。この調子でいくと、ラストシーンにおいて俳優は台本を放し、本式の上演と同じ演技を行うのかと予想したが、俳優はそのままであった。はじめてみる人が、あの場面の男女をどのように想像したかは大変興味ふかい。少しもの足りなくもあるが、こういう見せ方も潔いと思いなおした。
意外だったのは、客席から何度も笑いが起こったことだ。それがまったく場違いではなく、被災地にやってきて犯罪を行っている男女が、設定こそ特殊であるが一種の夫婦漫才風のおかしみを生んでいたのだ。演劇をその内容や作りによってかんたんに「悲劇」「喜劇」と括るのは危険であるし、ひとつの劇のみえない一面を封じることにもなり、もったいない。
9作品上演後、日本劇作家協会会長である坂手洋二の挨拶に続き、東北で演劇活動をしているくらもちひろゆき、大信ペリカンが登壇し、震災直後から今日までの演劇活動や実感を短く話した。アフタートークと銘打ってあるわけではなく、3人は「立ち話」状態なのだが(笑)、こういう形式も簡潔でよい。最後は出演者、作者、演出家全員がステージにあがり、篠原久美子、河原その子によるアメリカ公演の印象が、これも短く語られたのち幕となった。
猛暑の昼下がり、「あの日」に打ちのめされ、右往左往する日々を過ぎて、苦悩は続くけれども「今日」と「これから」に向かう新しい演劇の営みがはじまっていることを確信した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます