因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

MyrtleArts 公演『日の丸とカッポウ着』

2025-02-05 | 舞台
*くるみざわしん作 東憲司演出公式サイトはこちら 11日終了 浅草九劇
 くるみざわしん作品の観劇は、昨年夏の東京芸術座公演『戻り道を探して ミレナとカフカとマルガレーテ』に続いて2作めとなる。地下鉄浅草駅から雷門通り、すしや通りなど賑やかな界隈を過ぎ、浅草六区のやや閑散としたあたりの浅草九劇へ行くのは今回がはじめて。さまざまな劇団、ユニットから多種多彩な俳優たち結集した力強い座組の初日を観劇した。

 舞台は昭和7年の大阪。「愛国婦人会」の婦人3人が会合を開く。夫はいずれも社会的地位が高く、彼女たちも高価な和服に身を包み、立ち居振る舞いも上流階級の奥さま然としているが、特に会長の桜よし(山像かおり)は極道の姐さんばりの迫力。副会長の市高なお(山本あさみ)、会員の稲多トモ(小林美江)が圧倒されつつ必死で従うところがコミカルで可愛らしい。一方、橋本たみ(松熊つる松)はいたって庶民的な主婦だが、故郷の親への思慕を残したまま慌ただしく出征する若い兵隊を不憫に思い、着の身着のまま街頭で献金を呼びかけ、港でお茶の接待をはじめる。亭主の忠吉(久保井研)も高射砲を模した献金箱や襷などを器用にこさえ、女房を助ける。たみと忠吉のやりとりは夫婦漫才のごとく微笑ましい。ご近所の松井絹江(鴨鈴女)と辻野ちか(近藤結宥花)も仲間に加わり、「自由と平等」を求めて台所を飛び出し、白いカッポウ着をユニフォームに「国防婦人会」として陸軍のお墨付きのもとに活動を展開する。

 物語はふたつの「婦人会」の対立を軸に進行する。地元の船商人森尾(荒谷清水)や新聞記者大江(津村知与志)、地元警察の石本(川口龍)、陸軍中佐(物語終盤で大佐)藤原(原口健太郎)らが彼女たちの対立をも利用し、否応なく戦争礼賛の嵐に巻き込んでゆく。

 劇作家くるみざわしんが演劇活動の拠点として通っていた「ドーンセンター」は、かつて大阪国防婦人会の会館があった場所だという。それを知って、修業時代に世話になった大阪のおばちゃんたちの顔が浮かび、遠くにあった戦争がぐっと身を寄せて来たという。

 「これはと思って書き上げた一作がようやく舞台にのぼる。今できる、ぎりぎり精一杯の恩返し。いや、仇討ちかもしれへんな」

 公演チラシに記された劇作家の文章を読み返すと、戦争中の婦人たちへの哀惜と、自分が関わったおばちゃんたちへの感謝の思いがひしひしと伝わってくる。当時の市井の人々の苦悩と葛藤、悲しみをどうしても書きたいという願いが溢れるような舞台である。ふたつの婦人会の成り立ちや展開などは単純なものではないが、登場人物はいずれも凡庸ではなく、それぞれに背景が事情があり、思いを抱いて活動に参加していることが描かれている。

 史実をモチーフにした劇の場合、劇作家の主張をどこにどのように織り込むかが大きな見どころ、ポイントとなる。本作では桜とたみが対峙する場面がそれである。桜は対立ではなく協力を求めながら、次第に反戦の思想を語りはじめるのである。たみは驚き、混乱する。人々はひたすら戦争に向かって猪突猛進したのではない、もしかしたらこんな議論もありえたのではないか、いや、あって欲しいという作者の願いの発露であろうか。

 この場面は、史実と劇作家の希望、願いをどのように描くかについて、ひとつの方法を提示している。戦争に突き進んでいく中にも、三浦伸子演じる「ノラ」という名の浮浪者が物語の時や場所を示したり、盲進する人々に警告を呼びかけたりする。狂言回し的な役割とともに、作者自身として観客を導き、語りかける存在という見方もできよう。三浦は年齢や背景、性別すらはっりせず、こちらの安易な想像を拒否するがごとき造形である。その気迫には並々ならぬものがあるが、前作と同様に観客に解説してしまっている印象があり、本作を受け止めることにいささか躊躇うのである。

 使用された楽曲はトルコの軍楽「ジェッディン・デデン 」だが、特徴のある音とメロディを聴いた瞬間、即座に向田邦子脚本のテレビドラマ『阿修羅のごとく』を想起してしまうのは、もはや一定以上の年齢になるのだろうか。音色がややソフトになっていたこともあり、今回の舞台鑑賞の妨げになるほどではなかったが、多少の躓きはあった。

  俳優たちが舞台奥の扉の開閉、平台の出し入れなどを行いながら、複数の場所の転換も自然に見せる。時おり白い仮面をつけ、どこの誰ともわからぬ群衆、コロス的な役割も演じるなど、目に見えない無数の存在を不気味に表現する。終幕に激しく降りかかる赤い薄紙は、召集令状でもあり、戦争で傷つき、命を散らした無辜の人々の血の色でもあろう。

 力づくで人々の声を封じ、命を奪う戦争、戦争を起こした権力に対して、劇作家はペン1本で恩返しも仇討ちもする。俳優、スタッフ、そして観客もその闘いに喜んで助太刀できるのだ。物語終幕で橋本たみの「お願い。爆弾落すのためといてんか。頼む。うち、考えたいんや」という叫びは、戦火のやまぬこの世、新たなる戦前の足音が近づく今に対して発せられているのだ。
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