*エリアム・クライエム作 常田景子翻訳 宮田慶子演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 20日まで
劇の題名は観客に対する第一声、最初のアプローチである。内容ずばりを示しすシンプルなもの、象徴的なもの、いずれもこれからはじまる芝居のなかのたくさんの台詞のすべて、劇作家の思いが凝縮された重要な役割をもつ。
今回の「負傷者16人」という題名は、そっけないくらい具体的な数値である。
しかしそれが何を意味するのか、5人の登場人物がかわすやりとりがどのようにここへつながっていくのかを終始考えさせる非常に意味深長なものである。
1990年代のオランダ・アムステルダムで、パン屋のハンス(益岡徹)がなじみの娼婦ソーニャ(あめくみちこ)と過ごしていた夜、フーリガンに暴行をうけたアラブ人の青年マフムード(井上芳雄)を助け、親身に面倒をみる。ハンスがユダヤ人であることに激しく反発するマフムードであったが、次第に心を開き、ハンスを家族のように思い始める。パン屋に出入りするダンサーのノラ(東風万智子)と恋をし、やがて生まれてくるふたりの子どもに希望を抱く。しかしそこにマフムードの兄(粟野史浩)が現れ、事態は急変する。
2004年、9.11の惨禍が記憶に生々しく、イスラム教徒に対する憎悪犯罪が頻発していたアメリカで初演された作品の本邦初演である。
物語前半、互いに愛しあいはじめたノラとマフムードのやりとりのなかで、マフムードが過去や家族のことを明かさないに苛立つノラに対して、彼が「俺は隠れてるんだと」と答える台詞である。それにノラは「何ですって?」と激しい反応を示す。ここがしっくりこなかった。なぜ「隠れている」ということばになるのか。「俺は追われているんだ」ならば、すぐに理解できるのだが。
こういった箇所がいくつかあって、意味はわかるけれども人が話す言葉としてこなれていない感覚が積み重なり、劇世界ぜんたいが明確なかたちをもってこちらに届いてこなかった。戯曲の原文がじっさいにどういうことばなのかはわからないが、翻訳、演出が検討し、俳優の演技もまだまだ練り上げる余地があるのでは?
聞きとりにくい台詞、聞き取れない箇所、不自然に間があるところも散見する。この日たまたま俳優陣の調子が悪かったのか。4月23日に開幕して今月20日の千秋楽まで、折り返し地点を過ぎているにしては残念である。登場人物はわずかに5人だが、全員がそろう場面はなく、ふたりきりの会話が長い。ある場面での会話がつぎの場面に有機的につながって劇ぜんたいが動き出し、人物の関係や背景があぶり出されてくると想像するが、「ひとつひとつ」的な印象にとどまった。
物語はハンスとマフムードが牽引する。そこにあとの3人の人物がどのように絡むか。俳優陣をしっかりまとめる必要があるが、人種や宗教の異なる人々なのだから、ばらばらでぎくしゃくしたところがひとつの持ち味にもなりうる。ミュージカル、新劇、小劇場、テレビタレントと、みごとなまでにばらばらな背景の俳優陣は演技の方向性も明確ではなく、このぎくしゃく感は劇世界の構成に有効に作用していただろうか?
題名の「負傷者16人」の意味するものは、最後の最後になって明かされ、このいっけんシンプルでそっけない題名に内在するものがいかに重苦しく、深いことを知ることになる。さらに登場人物の心象によりそって思い悩むところに行き着けないであろう自身を省みて、互いの違いを認識した上で相手を尊重し、歩み寄り理解しあうことの困難に立ちすくむのである。
人種や宗教をめぐる紛争について、日本人は理解がむずかしいことはたしかである。しかしパンフレットに青鹿宏二の寄稿に、本作の根底にあるホロコーストやパレスチナ紛争について、「どちらにおいても日本は幸運なことに当事者ではない。だからこそ、作品の本質を客観的に受け止められるはず、と信じて疑わなかったからである」という信念に希望を抱くのである。海外で大好評を博した作品があまたの賛辞を引っさげ、さらなる評価を求めて日本にやってきたわけではなく、青鹿氏も「(本作の)ブロードウェイ公演はタイミングが悪く、旬ではなかったと言い切れる」と書いておられる。そういう作品が日本で上演されることの意味をいま一度考え、受けとる自分たちの姿勢を正す必要があるだろう。
演劇をみるのは人生の愉しみであると同時に、作品によっては義務と責任を伴うのである。
疑問やもどかしさを感じるところが多かったが、自分は本作に出会えたことが嬉しい。
この夜の客席の緊張感や集中力は驚くほどで、のんびりゆったりとした雰囲気ではなかった。娯楽とは異なる手ごたえを求める気持ちに、『負傷者16人』は応えることができるのではないか。リーディングや戯曲研究など、多面的な企画が生まれることを願っている。
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