*高円寺K'sスタジオ 公式サイトはこちら 15日まで
今年で創立20周年を迎えるワークショップ団体アクターズワークスが、有志で演劇集団を結成した。その第1回公演である。古今東西の短編4本を連続上演する試みで、主宰の柚木佑美がすべての演出を担う。それぞれ原作が発表された年代を、日本のある時期に置き換えての上演である。今回の作品のうち2本を脚色し、1本に出演する日下諭が上演前の挨拶にはじまって舞台全体の案内人となり、4つの物語に観客を導く。
*岸田國士『ヂアロオグ・プランタニエ』
本作はまさかの舞台美術に度肝を抜かれた2015年1月の東京乾電池公演が忘れようにも忘れられない。同じ年の12月に観劇のえうれか第二回公演は堅実な作り。昭和初期の作品を、今回は1960年代の設定で上演された(やや記憶に不安が。合っていますか?)。年ごろの娘の服装や髪型にそれらしき雰囲気はあるが、台詞のやりとりは原作の口調をほぼそのまま活かしたのではなかろうか。二人からは恋愛即結婚という意識が強く感じられる。食べたり飲んだりを挟みながらの会話にしたのは工夫のひとつであろうが、もっと台詞ひとつひとつを丁寧に聞き取りたかった。
*フィッツジェラルド原作 日下諭脚本『失われた三時間』
フィッツジェラルドは、ヘミングウェイやフォークナーと並んで1920年代に活躍したアメリカの小説家だ。村上春樹は、自らが翻訳した彼の短編集『マイ・ロスト・シティー』において、「フィッツジェラルド体験」という愛情溢れる序文を記している。1930年から1940年にかけて、作者の凋落期に発表された本作を、日本のバブル絶頂期に移行した。幼い日に恋した女性と20年ぶりに再会した男性。思い出話に花が咲き、次第にいい雰囲気になるが、この結末は笑うに笑えない。原作を読んだとき、「主人公の彼に申し訳ない、いっそ読まなかったことにしようか」と思ったくらいだ。今夜の舞台はコメディ色を強めに出していることであまり重苦しくない終わり方であったが、やはり原作の持つ、胸が痛むような寂寥感を味わってみたいのである。今回の舞台は、自分にとって、やや賑やか過ぎたか。登場する男女ともに、もっと複雑で微妙な造形が可能だと思う。
*土田英生作『強がる画家達』2009年の「せりふの時代」に発表されているが初演はいつだろう?ある著名な画家の展覧会で偶然あった若い男性画家ふたり。同好の士として和やかに話しはじめるが、次第に互いのキャリアや業界でのポジションなどを競い合い、見栄と意地と嫉妬が交錯するうち、どこまでがほんとうかわからなくなる。画家が男性と女性だったら、あるいは女性同士だったらここまで話がもつれるだろうかと想像する。日下諭と林田航平が台詞の呼吸、表情の変化のタイミングなどが絶妙で、入念な稽古があったことを窺わせる。
*アントン・チェーホフ原作 日下諭脚本『プロポーズ』
19世紀の終りに初演されたロシアの作品が、まさか少子高齢化、生涯未婚率の上昇する現代の日本を象徴する物語として上演されるとは。外国作品の翻案は容易ではない。先日その見事な成功例をみたばかりということもあり、少々辛めの心持ちで見始めたのだが、原作(浦雅春訳より)の「牛ケ原」が「柿の木」、飼い犬の「トビスケ」と「シュンスケ」が「ミント」と「トマトのテルコ」に取って代わる大胆な発想と、それでいてぜんたいを不自然でなく、むしろ原作から解放されたかのように自由に伸び伸びと楽しんでいるかのような筆致と俳優の熱演に、場内は大いに盛り上がり、気持ちの良い終演を迎えることができた。
アクターズワークスは、いわゆる劇団ではない。さまざまな場所で活動する俳優たちが立ち戻って勉強したり仲間を見つけたり、より生き生きと創作するためのエネルギーを得る場であると察する。自由で柔軟であることは、同時に俳優一人ひとりがプロとして、より強い自覚と責任感をもつことが求められるだろう。今回の公演が新たな出会いのきっかけとなり、観客にとってもまた次の出会いにつながることを願っている。
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