因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

海千山千プロデュース『楽屋』

2009-06-17 | 舞台
*清水邦夫作 西沢栄治演出(これまでの舞台評はこちら→1,2,3,4,5,6,7,8,9) 公式サイトはこちら 下北沢OFFOFFシアター 21日まで
 シアタートラムで上演されていた『楽屋』は連日大勢の立ち見が出る盛況だった由。下北沢の『楽屋』はひっそりとした小さな空間だが、幅広い年齢層の観客で満席であった。『楽屋』をみるのはこれで3度めになる。最初は十数年前、友人が群馬県前橋市でプロデュースし、出演もした舞台である。戯曲に正面から向き合う誠実な姿勢が伝わってくる上演であった。それから何年かたってベニサン・ピットで鈴木裕美演出の同作品に再会した。カーテンコールで場内が思いも寄らず温かい空気に満たされ、出演者が戸惑いながらアンコールに応えて再登場した様子を思い出す。『楽屋』は不思議な力をもつ戯曲だ。演じる人、みる人を呼び寄せ、惹きつけてやまない魅力がある。
 海千山千は今回が初見だが、すでに旗揚げから13年の実績があり、「既成の台本を上演する」のはこれが初めてで、外部から演出家を招くのも久しぶりらしい。改めて西沢栄治演出の魅力は何かと考えてみると、舞台から発せられる力強さだと思う。舞台装置、衣裳やメイク、音楽にもさまざまな工夫と試みが凝らされており、しかもそれらは決して小手先のものではない。数百年、いや数千年前に書かれた戯曲を現代に生き生きと甦らせる、「演劇讃歌」のエネルギーだ。しかし今回の『楽屋』については西沢の手法はぐっと抑制されている印象をもった。『楽屋』は堅固な戯曲であると思う。特別な趣向を凝らさずとも正面からきっちり取り組めばそれにちゃんと応えてくれるのではないか。

 登場する4人の女優は皆それぞれの立場で満たされない思いを抱いている。プロンプばかりで一度も脚光を浴びることなく人生を終え、それでも女優業への未練や執念が断ち切れず、夜な夜な楽屋に出没するA(多田慶子)とB(鯨エマ)。一応『かもめ』のニーナ役を演じてはいるものの、四十を過ぎて容色の衰えは隠せず、それでも若い娘の役にしがみつくC(高橋紀恵/文学座)。もしかすると彼女も既にこの世の人ではないのかと思えることもある。病いが治って復帰しようとしたが、結局ABの仲間入りをすることになるD(谷村実紀)。幸せな人は誰もいないのだ。こう考えると暗澹たる気持ちになる。演劇は大好きだ。女優という仕事も大変だろうけれど憧れる。『楽屋』は多く存在する「バックステージもの」の範疇を越えて、演劇の底知れぬ魅力とそれに取り憑かれた女優と呼ばれる人々の業の深さを描いている。実際に演劇作りに関わる人にとっては、「それでもその仕事を続けられるか」という問いかけであり、みる側は遥かに気楽ではあっても仕事で報われない人生というものを考えずにはいられない。

 ひとりの女優が主役を数十年に渡って何百回、何千回と演じ続けている作品がある。いくつになっても瑞々しく、謙虚に稽古を重ねて日々新しい発見を求める姿勢は勿論素晴らしい。その偉業に水を差す気はないのだが、「他にもやれる女優さんがいるのではないか」「違う女優さんが演じることで新鮮な作品になる可能性があるのではないか」と思うのである。女優さんのためというより、戯曲にとって「勿体ない」と思うのだ。『楽屋』にはこれからも会うことができるだろう。違う劇場、違う俳優、違う演出で。そのたび『楽屋』の持つ強靭な力に改めて気づかされるのだ。

 女優3人が、この世に生きているあいだは口にできなかった『三人姉妹』の台詞を言う幕切れはいつも心打たれる。存分に言って欲しい。わたしはあなたたちの姿をみて、台詞を聴いているから。
 
 
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