因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

『更地』太田省吾へのオマージュ

2009-06-20 | 舞台
*太田省吾作 阿部初美演出 公式サイトはこちら 川崎市アートセンター 21日まで
 岸田今日子と瀬川哲也による1992年の初演はみていない。また自分は太田省吾の決してよい観客ではなかった。3人とも既にこの世の人ではないことに改めて愕然とする。けれど太田省吾に師事し、その世界に長く深く関わった阿部初美が言葉に尽くせない思いがあるであろう作品を、今日の自分は下総源太朗と佐藤直子の共演でみることができた。そのことを感謝したい。
 上演前は舞台一面にさまざまなものが置かれていると思った。しかし暗さに目が慣れてくるとそれらがワイヤーで吊り下げられていることがわかる。箒にフライパンに薬缶、子どものおもちゃにマックのパソコンまで、縦横9列の(列数少々曖昧)夥しい道具類が、現実味のない妙な浮遊感を持ってまさに浮かんでいるのだった。
 六十代の夫婦が家の立て替えのために更地となったかつての我が家を訪れるという設定であるが、下総源太朗と佐藤直子はぐっと若く、どうみても四十代である。道具の数々は、二人が過ごした年月を象徴するものだ。はじめは道具が俳優の顔に重なって見づらかったのだが、それらは動きをまったく感じさせない速度で少しずつ上部に上がっていく。互いに出会う前のころまで遡って、夫婦は語り合う。それだけならごくありきたりなホームドラマである。過去のあれこれを思い出すだけではなく、二人はそこから何かを掴みたい、生きるよすがを得たいともがいているようにみえる。二人が幸せか、そうでなかったのかも単純にはわからない。
 六十代なら社会的にも現役を隠退し、第二の人生を歩き始める頃であるが、目の前の夫婦はよくも悪くもまだ生臭さを感じさせる。世界同時不況のただ中にあって、四十代で既に老境に達せざるを得ない(人生の先が見えている)のか、あるいは将来に希望が持てずに苦しんでいるのか、過去への思いに対する妻の願い(これはうまく記せない。夫と同じくわけがわからなくなったから)に身を切るような切実さが伝わる。

 はじめは足元にあった道具類は、最後には頭上高く上がってしまった。年月はいつのまにか、しかし確実に過ぎていくのである。当日リーフレットによれば阿部初美は本作の上演にあたって、小山田徹の舞台美術に背中を押されたという。もの言わぬ道具類が漂わせる過去の時間や、それらがまるでないかのように演じる俳優の姿も興味深い。ただ前半スパゲッティを手づかみで実際に食べる場面の具体性や、後半山登りのお弁当の場面で、その場にいない子どもたちをタオルと煙草にみたてるところなどのおもしろさのほうが印象に残る。

 結論の出る話ではなく、投げかけられた問いも容易ならざるものだ。しかし不思議な高揚感があってぼんやりしていたのか、帰りの電車を乗り間違えてしまった。次の駅で降りて反対側のホームに行く。いままで一度も降りたことのない、おそらくこういうことがなければ降りることもなかったかもしれない駅の風景を眺める。これは今日確かに自分に起こった出来事だ。劇中の妻の台詞を思い出す。『更地』の舞台の記憶とともに梅雨の合間のこの日に起こったいろいろなことを思い出すだろう。空の雲は厚くなり、湿った風がひんやりして歩道脇の緑が濃い香りを放つ。よい一日であった。
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