*公式サイトはこちら 歌舞伎座 27日まで
昼の部から一週間後、夜の部「賀の祝」、「車引」、「寺子屋」を観劇する。おそらく「賀の祝」をみるのはこれがはじめて、「車引」は1度か2度、「寺子屋」はたぶん5回以上はみたはず。全編の通し上演の観劇は今回が初である。菅丞相の登場しない「寺子屋」は、その場にいない主君への忠義のために人々が苦しみ、悲しむ物語である。通し上演をみてようやく腑に落ちる台詞、納得のいく展開がいくつもあり、歌舞伎をある程度の年月つづけてみられる環境にあることを感謝せずにはいられない。
今回の上演の特徴は、座組みの中心が若手になったことであろう。片岡仁左衛門を筆頭に、中村吉右衛門や松本幸四郎がつとめていた松王丸を市川染五郎が演じる。武部源蔵に尾上松緑、妻戸浪を中村壱太郎、いずれも一筋縄ではいかないむずかしい役どころである。たとえば「勧進帳」の場合、経験不足の若い役者であっても、とにかく一生懸命無我夢中で演じれば、その心意気が客席に伝わって、「がんばったじゃないか」と大拍手したくなることはよくある。
しかし「寺子屋」はそうはいかない。
とにかく染五郎の気迫がものすごいのである。昨年の顔見世で「勧進帳」の弁慶を初役で演じたおり、「ほとんど命がけだ」と評した新聞劇評があった。弁慶が体当たりの命がけなら、松王丸はどんな命がけと言えばいいのだろう。まっすぐな一生懸命だけでは無理だ。頭で考え、心で悩み、台詞のひとこと、所作のひとつ、表情の一瞬すべてに松王丸の「肚」がなければならない。
三つ子のきょうだい桜丸は上品で雅、梅王丸は威勢のよい熱血型、いずれも陽のイメージであり、ふたりにくらべると松王丸は陰である。それでも「賀の祝」では梅王丸とけんかをしたり、子どものようなやんちゃぶりをみせたりするが、「寺子屋」は終始暗く、重々しい。この人はいったい何を考えているのか。
ぎりぎりまで堪えていたが、わが子が首を刎ねられるときに「にっこり笑った」と聞かされたときに、堤防が決壊したかのように悲しみが噴き出す。そしてわが子の死にことよせて、無念の切腹を遂げた桜丸への哀惜をもあふれさせるのである。
主君への忠義のためにわが子の命を犠牲にする。考えられない、ありえないことである。どんな気持ちだったのか。観客はとうてい理解が及ばないこれらの出来事を、松王丸の心の動きを通してみずからの心に問いかけ、答を探ろうとするのである。
松王丸だけではない、相手役の源蔵はある意味で松王丸以上の難役であり、うっかりすると大悪人になってしまう。なにしろ人さまの子を断りもなく殺そうとするからである。松王丸の子だったからまだよかったようなものの、いやほんとうはよくないのだが、これがまったく無関係の子どもだったら、源蔵は迎えにきた母親も殺したのだろうか。では彼は自分の忠義のために、他人のことなどまったく考えてないのか。そんな冷血な人ではないはず。
忠義の物語に慣れていない人でも、松王丸のしたことはまだ理解が及ぶ。しかし源蔵はそうではない。ここで、前半の「筆法伝授」がいよいよ重要な意味合いをもつことがわかる。源蔵と戸浪夫婦があるじの菅丞相をどれほど慕っているか、勘当を解き、主従のつながりを取り戻させてほしいと切望しているか。この思いあってこその「寺子屋」なのである。
前半の「筆法伝授」で源蔵を演じたのが染五郎なので若干混乱はするが、あの必死な面持ち、筆法は伝授されたものの、勘当が解かれなかった悲しみの様子を思うと、「寺子屋」における源蔵夫婦の苦悩がいっそう強く伝わってくるのである。
あるじへの忠義を尽くすのは、自分たちが許されたいから、つまり自分たちのためだけではない。もしかすると自分たちは人の子を殺す悪人とみなされても構わない、どうしても若君を守りたいからではないか。
あるじへの忠義は、現代においてはほぼ廃れた精神性であろう。だからこそ、いっそう知りたい。決して平然とわが子を犠牲にするわけではないその心の奥底を知りたいのである。
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