*詩森ろば 作・演出 公式サイトはこちら 渋谷ルデコ4F 29日まで (1,2,3,4,5,6,7,8、9,10)
『紅き深爪』は今回で3度めの上演とのこと。自分は優秀新人戯曲賞2004(ブロンズ新社)掲載の戯曲を先に読んでいたが、実際の舞台をみるのはやっとこれがはじめてである。
親がわが子を虐待し、そのまた子へと連鎖する様相を描いた作品だ。虐待が子どもの心身に深い傷を残し、成長して子どもを持っても自分がされたようにその子を虐待してしまうことは、既にさまざまな媒体で広く語られている。本作初演当時から今日まで、子どもの虐待死の事件は枚挙にいとまがなく、当日リーフレットに掲載の詩森ろばの挨拶文にあるとおり、大阪で母親が幼児を置き去りにして飢死に至らしめた事件が記憶に生々しい。
親による子の虐待は、あまたある事件のひとつとしてことさら特殊性を持つものではなくなっており、演劇の題材に取り上げることに対しても、「これは大変なことだ」という感覚は持ちにくく、うっかりすると「またか」と思いかねない。虐待の連鎖についても、本作のなかで既に「『愛されなかった記憶が、子供を虐待する母親を作るのです』ってどうよ。まるで昼メロ」と痛烈批判する台詞があるとおり、既視感のある設定であろう。
事件性も低く、演劇の題材とするにも既に多く語られてきた感のある作品をなぜ再び上演しようとしたかは、公演チラシに詩森ろばの簡潔な決意が記されており、それに納得して、戯曲だけで知った『紅き深爪』を舞台で是非みたいという明確な意志を与えられた。
病室のベッドに老いた母が眠る。母には娘がふたりあり、妹が泊まり込みで看病を続け、姉は病室には来るが母の顔も見ようとしない。妹には気弱で優しげな夫と、少し様子のおかしい娘がおり、姉は初めての子どもを身ごもっている。姉妹とも幼いときから母親の虐待に苦しめられ、妹は自分の娘を殴り、姉は妊娠中の身で酒におぼれ、胎の子を呪わしく思う。このあたりまでは想像の範囲である。
本作に複雑な味わいをもたらしているのが姉の夫だ。高価な服飾に身を包み、病室の差額ベッド代を支払っているというから暮らしぶりもよく、仕事のつきあいも華やかな印象。その上彼はおっとりなよなよした身振りでオネエ言葉を使う。といってもゲイではなく、バイセクシャルでもない。からだは男で心は女であり、女として女の妻が好きなのだという一筋縄ではいかないセクシュアリティ、いやそれすらも超えた人格の持ち主なのである。これまでみた芝居や読んだ小説のどこにもいなかった人物であるが、自分は違和感なく彼をみつめることができた。
ひとことも発しない妹の娘に、「女の子はね、カロリー表示になんか負けずにパフェを食べなきゃ駄目。それで太っちゃうような女は気合いが足りないのよ」と優しく言う。自分はこの台詞が大変好きである。今回の佐野功はしなやかな身体と確かな台詞でこの複雑な人物を的確に造形した。この人が劇中でもっとも深い悲しみを抱いているのだ。
観劇の翌日、民法と児童福祉法の改正案が参院本会議で全会一致で可決、成立した。これで児童虐待防止のため、親権を最長で2年間停止できる仕組みが設けられたのだ。子どもを救う朗報と喜ぶ人もあれば、「親権を停止され、追い込まれる親もいるのでは」と案ずる人もある。法律は苦しむ人を助け出し、守るためにある。それでも双方の問題がすぐに解決されるわけではない。子どもの虐待は防いでも防いでも、もしかしたら人が存在する限り起こってしまうのではないか。
『紅き深爪』は問題意識を喚起したり、社会的に何かを告発するものではなく、姉妹の傷が癒えないまま母が亡くなってしまうことなど、問題は何も解決せずに終わる。愛されなかった女性を妻とする夫その人にも救いの手が必要であることがわかる。まことに苦く痛い物語である。ただ、殴る親がいて殴られる子がいる。そのことの善悪を示すのではなく、どうしようもなくそうしてしまう人のすがたをまっすぐにみつめる劇作家の姿勢を、自分は信頼したいと思う。法律や社会制度が整ってなお、解決されない人の心を救う希望が演劇にはあると信じている。
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