*デイヴィッド・オーバーン作 小田島恒志翻訳 松本永実子演出 公式サイトはこちら 下北沢・小劇場楽園 公演は1日で終了
登場人物は4人、天才的な数学者でありながら精神を病んで亡くなった父(多根周作)、父の数学的才能だけでなく、精神の病いも受け継いだのではないかと怯える娘キャサリン(はざまみゆき)、父のもとを離れニューヨークでキャリアを積む姉のクレア。そして父の愛弟子であり、恩師の残した歴史的数学の証明を発見するハル(伊原農)。
旗揚げ以来、破竹の勢いで意欲的な舞台を作り続けてきたハイリンドが挑戦したのは、初の翻訳劇、しかも今回は客演なしで、メンバー4人だけである。ハイリンドは翻訳劇上演を中心とする加藤健一事務所の卒業生が作った劇団であるのに、翻訳劇が初めてとは意外であった。このふたつのハードルがどう表現されるか。それが今回の観劇のキーポイントとなった。2時間の上演後、それらが吉とでたかそうでなかったか、まだ判断ができないでいる。
父親役の多根周作は、多少白髪まじりにしている程度で、ことさら年配者らしいこしらえも演技もしていない。その点が好ましくもあり、しかしキャサリンの父親としてみるには相当無理があるのも否めない。また本作は過去と現在が倒錯する作りになっている部分があるのだが、どういうわけか、その時間の流れがあまり感じられなかったこともある。さらにキャサリンとハルのあいだに愛情が通うというところがどうしても実感できず、これはハイリンドという劇団のメンバー4人が共に舞台を作るという志のもと、とてもいい雰囲気の結束感、思わず応援したくなるような親しみやすく、素敵な仲間という感じで、劇中とはいえ彼らが恋人同士を演じると、みている方がいささか照れくさくなってしまうのである。
しかし2時間のあいだ、あの狭くて空気の悪い「楽園」の中で、緊張感緩まずみることができた。が、言い換えれば、2001年の鵜山仁演出、寺島しのぶ主演の上演をほぼまったく覚えていないことに、改めて愕然とするのである。寺島しのぶのキャサリン。さぞよかっただろうに、なぜなのだ。姉役に秋山菜津子、父親は内田稔でハルは田中実であった。布陣からすればこちらのほうが人物と俳優の実年齢のバランスもよく、翻訳劇を演じる点でも自然であったと思う。だがハイリンドの『proof』が残したもののほうが、遥かに強く深いのである。
終演後は毎回多根周作が来場の御礼や次回作の案内などをするのだが、今回は客席にむかって一礼するのみ。カーテンコールにアンコールがあるかと期待したがそれもなく、少し淋しかったが、作品の余韻を大切にしたのだろうと思う。猛然と戯曲『proof』が読みたくなった。数学の証明、人生の証明、そして愛の証明。数学にさえもすべてに正しい答があるわけではない。それを求めて思い悩み、孤独に陥る。人との繋がりを欲しながら退ける。しかし勇気をもって証明に取り組み、人との交わりを取り戻そうとする。その姿こそ、人が生きる証(あかし)であり、愚かしくも美しく、愛おしいのではないか。
登場人物は4人、天才的な数学者でありながら精神を病んで亡くなった父(多根周作)、父の数学的才能だけでなく、精神の病いも受け継いだのではないかと怯える娘キャサリン(はざまみゆき)、父のもとを離れニューヨークでキャリアを積む姉のクレア。そして父の愛弟子であり、恩師の残した歴史的数学の証明を発見するハル(伊原農)。
旗揚げ以来、破竹の勢いで意欲的な舞台を作り続けてきたハイリンドが挑戦したのは、初の翻訳劇、しかも今回は客演なしで、メンバー4人だけである。ハイリンドは翻訳劇上演を中心とする加藤健一事務所の卒業生が作った劇団であるのに、翻訳劇が初めてとは意外であった。このふたつのハードルがどう表現されるか。それが今回の観劇のキーポイントとなった。2時間の上演後、それらが吉とでたかそうでなかったか、まだ判断ができないでいる。
父親役の多根周作は、多少白髪まじりにしている程度で、ことさら年配者らしいこしらえも演技もしていない。その点が好ましくもあり、しかしキャサリンの父親としてみるには相当無理があるのも否めない。また本作は過去と現在が倒錯する作りになっている部分があるのだが、どういうわけか、その時間の流れがあまり感じられなかったこともある。さらにキャサリンとハルのあいだに愛情が通うというところがどうしても実感できず、これはハイリンドという劇団のメンバー4人が共に舞台を作るという志のもと、とてもいい雰囲気の結束感、思わず応援したくなるような親しみやすく、素敵な仲間という感じで、劇中とはいえ彼らが恋人同士を演じると、みている方がいささか照れくさくなってしまうのである。
しかし2時間のあいだ、あの狭くて空気の悪い「楽園」の中で、緊張感緩まずみることができた。が、言い換えれば、2001年の鵜山仁演出、寺島しのぶ主演の上演をほぼまったく覚えていないことに、改めて愕然とするのである。寺島しのぶのキャサリン。さぞよかっただろうに、なぜなのだ。姉役に秋山菜津子、父親は内田稔でハルは田中実であった。布陣からすればこちらのほうが人物と俳優の実年齢のバランスもよく、翻訳劇を演じる点でも自然であったと思う。だがハイリンドの『proof』が残したもののほうが、遥かに強く深いのである。
終演後は毎回多根周作が来場の御礼や次回作の案内などをするのだが、今回は客席にむかって一礼するのみ。カーテンコールにアンコールがあるかと期待したがそれもなく、少し淋しかったが、作品の余韻を大切にしたのだろうと思う。猛然と戯曲『proof』が読みたくなった。数学の証明、人生の証明、そして愛の証明。数学にさえもすべてに正しい答があるわけではない。それを求めて思い悩み、孤独に陥る。人との繋がりを欲しながら退ける。しかし勇気をもって証明に取り組み、人との交わりを取り戻そうとする。その姿こそ、人が生きる証(あかし)であり、愚かしくも美しく、愛おしいのではないか。
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