*仁3プロデュース 小里清劇作 小高仁演出 下北沢OFFOFFシアター 公演は4日まで。少々ネタばれあります。
2004年から風琴工房の公演に足を運ぶようになった。ここの舞台は客演陣が充実していて、それぞれ個性豊かな俳優さんたちが自己を強く主張することなく、舞台の世界に自分をしっかりと根付かせるような演技が印象深い。今回出演のお三方も風琴工房の客演として顔と名前を知った人である。それ以上の予備知識は何もなく、開演前に当日パンフ掲載の小里清(フラジャイル主宰)の挨拶文を読んで驚いた。これは教育に関しての作品らしいのである。タイトルの意味も相当にヘヴィで「これはただごとではない話なのかも」と俄に身構えた。
冒頭暗転のまま、男の嘔吐く(えずく)声が聞こえる。流さないとまずい、でもみつかるかもしれないなどと複数の声が。明るくなると舞台には3つ並んだ洋式便器と男が3人。散弾銃をもって暴れ回っている生徒から身を隠している教師たちだ。彼らはカート(好宮温太郎/タテヨコ企画)、デイヴ(児玉貴志/THE SHAMPOOHAT)、ヘンリー(小高仁/第三エロチカ)と、なぜか外国人名で呼び合っており、生徒もバーディ(小飯塚貴世江/俳優座 声のみ)と呼ばれている。教員トイレの個室に隠れた教師たちが、互いに壁越しに会話する様子が描かれており、彼らはそれぞれバーディに対して後ろめたい事情があって、「狙われているのは自分だ」と怯えている。
暴力生徒の襲撃に怯える教師たちという話なら、山田太一のドラマ『教員室』(舞台にもなった)を連想するが、今回はそこまでリアルではなく、隠れている教師たちが切羽詰まってあれこれ話す内容は結構笑えて、客席に緊迫感は伝わらない。しかし後半から少し劇世界が捩じれてくる。ピザ配達の少年(宮嶋美子/風琴工房)からピザを受け取るときのカートの会話は、トイレとは別の空間であることを匂わせるし、3人の会話にはルーティン的やりとりがあるのだが、それが微妙にずれはじめて、もしかしたらこれは1人の教師の心の声が分裂しているのでは?とも思わせる。
これは相手とのコミュニケーションが取れずに立ちすくみ、引きこもっている人間の閉塞状況を描いたものではないのだろうか。話の流れが読めなくなり、身を乗り出して舞台を見守るが、ラストシーンには正直拍子抜けした。俳優が舞台で実際にものを食べることの効果は果たしていかほどあるのだろうか。意味や教訓やはっきりした結論が欲しいのではないが、「仮にも劇作家を名乗るのならば、現実の包囲網に対して、想像力をもって抗せねばなりません」という小里の強い決意を充分に描いているとは感じられなかった。
だが終演後しばらくして思い直す。舞台をみて自分はいろいろなことを想像した。姿を見せないバーディという生徒のこと、バーディと教師たちの過去のこと。トイレに引きこもった教師たちが外に出たあとの未来のことを。1時間少しの短い舞台だったが、後を引く。自分は教師ではないけれど、あの3人の教師は自分のある面を映し出す存在かもしれず、やはりこの舞台はただごとでないだけではなく、他人事でもないと思わせるのだった。
2004年から風琴工房の公演に足を運ぶようになった。ここの舞台は客演陣が充実していて、それぞれ個性豊かな俳優さんたちが自己を強く主張することなく、舞台の世界に自分をしっかりと根付かせるような演技が印象深い。今回出演のお三方も風琴工房の客演として顔と名前を知った人である。それ以上の予備知識は何もなく、開演前に当日パンフ掲載の小里清(フラジャイル主宰)の挨拶文を読んで驚いた。これは教育に関しての作品らしいのである。タイトルの意味も相当にヘヴィで「これはただごとではない話なのかも」と俄に身構えた。
冒頭暗転のまま、男の嘔吐く(えずく)声が聞こえる。流さないとまずい、でもみつかるかもしれないなどと複数の声が。明るくなると舞台には3つ並んだ洋式便器と男が3人。散弾銃をもって暴れ回っている生徒から身を隠している教師たちだ。彼らはカート(好宮温太郎/タテヨコ企画)、デイヴ(児玉貴志/THE SHAMPOOHAT)、ヘンリー(小高仁/第三エロチカ)と、なぜか外国人名で呼び合っており、生徒もバーディ(小飯塚貴世江/俳優座 声のみ)と呼ばれている。教員トイレの個室に隠れた教師たちが、互いに壁越しに会話する様子が描かれており、彼らはそれぞれバーディに対して後ろめたい事情があって、「狙われているのは自分だ」と怯えている。
暴力生徒の襲撃に怯える教師たちという話なら、山田太一のドラマ『教員室』(舞台にもなった)を連想するが、今回はそこまでリアルではなく、隠れている教師たちが切羽詰まってあれこれ話す内容は結構笑えて、客席に緊迫感は伝わらない。しかし後半から少し劇世界が捩じれてくる。ピザ配達の少年(宮嶋美子/風琴工房)からピザを受け取るときのカートの会話は、トイレとは別の空間であることを匂わせるし、3人の会話にはルーティン的やりとりがあるのだが、それが微妙にずれはじめて、もしかしたらこれは1人の教師の心の声が分裂しているのでは?とも思わせる。
これは相手とのコミュニケーションが取れずに立ちすくみ、引きこもっている人間の閉塞状況を描いたものではないのだろうか。話の流れが読めなくなり、身を乗り出して舞台を見守るが、ラストシーンには正直拍子抜けした。俳優が舞台で実際にものを食べることの効果は果たしていかほどあるのだろうか。意味や教訓やはっきりした結論が欲しいのではないが、「仮にも劇作家を名乗るのならば、現実の包囲網に対して、想像力をもって抗せねばなりません」という小里の強い決意を充分に描いているとは感じられなかった。
だが終演後しばらくして思い直す。舞台をみて自分はいろいろなことを想像した。姿を見せないバーディという生徒のこと、バーディと教師たちの過去のこと。トイレに引きこもった教師たちが外に出たあとの未来のことを。1時間少しの短い舞台だったが、後を引く。自分は教師ではないけれど、あの3人の教師は自分のある面を映し出す存在かもしれず、やはりこの舞台はただごとでないだけではなく、他人事でもないと思わせるのだった。
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