他の国が何と言おうが、参拝すべきなのです。
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靖国例大祭「安倍首相は堂々参拝を」=飯島氏(時事通信) - goo ニュース
2013年10月7日(月)21:49
飯島勲内閣官房参与は7日午後、大阪市で講演し、安倍晋三首相の靖国神社参拝について「靖国には堂々と行ってもらいたい。秋の例大祭には何としてでも安倍晋三という政治家として参拝してもらいたい」と述べ、17日から始まる秋季例大祭での参拝に期待を示した。
飯島氏は「私は習近平国家主席の取り巻きと会ったりしたが、中国指導部から靖国に行くなとか、全く発言が出ていない」と指摘。日中首脳会談の開催について「秋の例大祭に仮に行っても、そう遠くない年内に間違いなくそうなると信じて行動している」と述べた。
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飯島参与の物言いには、中国へのおもねりがあるところが気に入りませんが、大筋は同意見です。中国や韓国がどんなことを言ってきても、参拝すればよいのです。日本のために犠牲となった方々への敬意を示すことは、首相としての当然の勤めですから。
安倍首相の靖国参拝を強く支持します。
それにもかかわらず、国の指導者が無宗教で (靖国神社とは無関係に) 戦死者に追悼の念を表明できないのはどういうことなのか。
人間は、基準に合わせて判断を下している。
日本人の基準は序列である。序列の基準は現実の中にある。非現実の基準は考えることができない。
英米人の基準は ‘あるべき姿’ である。この基準は現実の外 (頭の中) にある。人々が求めるものは、個人の頭の中にあるリーズン (理性・理由・適当) である。
彼らはリーズナブルの範囲での決着を願っている。リーズンを失うことは恥である。この恥は、見栄とも外聞とも関係がない。
我が国においては、お上の言うことは、理由のあるなしにかかわらず、現実の基準 (錦の御旗) になっている。そうでなければ非国民 (非序列人間)。こうした傾向は、国の内外から危険視されている。
民はお上の恣意に対して無防備・無力・無抵抗。’耐え難き’ を耐え、’忍び難き’ を忍んで、南の島に雪を降らせている。
民はたとえ反抗しても、筋 (リーズン) を通すことは難しい。筋により事柄を取り決める習慣が社会にないからである。
我が国の長は、自分が日本人の信頼を得るために、序列人間である証拠を示さなければならない。だから、神社参拝が必要である。カミに服従を示すことが欠かせない。信なくば立たず。村八分にされては活動できない。
序列人間の長であることが人々に確信できれば、いったん緩急あれば、’たとえ火の中水の中’ という人間がいっぱいいる。ともに散ります国のため。かれらは、そうでなければ動かない人たちでもある。
だから、我が国の政治家は、英霊の御霊に追悼の念を表す際に、宗教家の手を煩わさないわけにはゆかないのである。