高円寺の北口駅前にレイボーというパチンコ店があった。
小島さんが、わずか1列になってしまった手打ち式の台でねばっている。
インベーダーゲームが一世を風靡したころ、パチンコ店は衰退した。
小生は就職するに当って、パチンコ産業再興案を具体的に作成(卒論の何倍も出来がよかった)、そして桐生のメーカーに売り込んだ。が、「大学まで出て、悪いことは言わないから、真面目な世界で働きなさい」という親切な面接官のアドバイスに説得され、学校に求人のあったつまらない会社に就職した経歴を持つ。
また、同じようなジャンルで、ケイシュウニュースに願書を出し、大川さんから返事をもらった。
小生の就職活動話としては、上記2つと、NHKの話は抜群に面白いので、2年後くらいにまとめたい。
今日は高円寺の話だ。
ちなみに、フィーバーでパチンコ産業が復活するには、この後2年を要する。
小島さんは、電動式ハンドルをコインで固定し腕を組んで、パチンコ台を見つめるゲームに成り果てたパチンコが許せなかった。
手打ち式ハンドルをはじく親指に、魂がこもっている、同時に哀愁を感じながら、後ろから声をかけた。
「やっぱり、ここだった!」と小生。
就職したばかりで、会社の中野の寮に住んでいた私は、小島さんが心配で消息を探した。
学校で後輩の平山君に聞くと、手打ちの台が残っているのは、レインボーくらいだ。と、小島さんが嘆いていたとの情報で、この町に来たのだった。
びっくりして振り向く小島さん「何でここにいるって、分かったんだ?」
小生はそれには応えず「そろそろ、真面目に卒業を考えましょうよ」
小島さんは一つ先輩だが、専門の単位が一つだけ取れておらず、6年生であった。
困ったことに、その専門の単位は教授が退官したので、講義も試験も今年からなくなったという。この切実な問題に対し、小島さんは真面目に向き合っていなかった。
学生寮のマージャン室で知りあった平山君が小島さんと同じ学科であることが判明し、小島さんの4年も下の平山君にこの問題を託したのであった。
平山君の調査の結果、本人が大学の教務室に行って相談すれば解決策が示されるはずだ、とのこと。
OB会などで、先輩たちも小島さんのことが心配で、「お前が一番、小島と接触できるんだから、何とかしろ」と学年も学科も学部も違いキャンパスの場所さえちがう小生に命令した。(先輩達は本部の体育館での卓球の練習と、国分寺での飲み会で小生と喋るので、小生が工学部の学生と知らなかったのだろう)
先輩の命令が、なかったとしても小島さんには4年間お世話になった。もちろん、ほっとく訳にはいかない。
小島さんは、府中のアパートから、お姉さんが住んでいる高円寺に最近引っ越したという。
とにかく、平山君がいる寮に向かった。
寮で探すと、平山くんはマージャン室にいた。
ちょうどいいので、面子を分けて平山君、米田君と小島さん小生で卓を囲み半チャン4~5回。
夜になって晩飯を食べようということになり、「鳥ふじ」へ。焼き鳥を食べながら、善後策を協議した。
忙しかったのか数ヶ月が経過した寒い日、寮を訪ねた。マージャン部屋を覗くと、いた。
小島さん、平山君、米田君、もう一人は保科君だと紹介された。
「え!何でいるんですか?」小生の質問に、小島さん「寮に入ったんだ」という。
小島さんは、潔癖症だった。少なくとも、私と接触した4年間は、アパート生活だったし、遊びに行くと女性の部屋のように、きれいに掃除され、整頓されていた。
浜本くん(吉祥寺、鉄男編に登場した)のように、「寮に住んだらどうですか。楽しいですよ」という、皆の誘いには決してなびかなかった。
予想外だったが、夜を食べに行った「徳寿司」で、何となく理由が分かった。
平山君と米田君は面倒見がよかった。人間味があった。特に平山君は“よいしょ”の達人だった。
数十年たった今でも、これらのメンバーが集まると、関西で役人をやっている平山君の話題になる。
平山君の巧みな話術は卓越していた。客観的には“よいしょ”なのかもしれないが、平山君のそれは、文字にすると、かなり乱暴だ。ほめていないし、称えてもいないのに、言われたインテリは必ず気分がよかった。
米田君も関西の出身だが、品がよく、抜群に気が付く後輩だ。
どうも、あれから何度か寮でマージャンした小島さんは、楽しくて最近入寮したとのこと。
まあこれで、小島さんの卒業も何とかなるだろうと、後輩の平山君に託し少し安心した。
しかし、その後、小生の仕事が忙しくなり、1年くらい皆と会えない時期があった。
そして、次に会った時には、小島さんは8年生になってしまっていた。
久しぶりに寮に行って、平山君に様子を聞くと、小島さんは、一度教務に行って、事情説明をしたものの、教務側もあまり前例がなかったケースだったようで、教授預かりになった。しかし、その後、小島さんが教授に交渉する動きをしていないと言う。
早速、皆で会って相談した。
小島さんは「もういい」と言う。8年かけての卒業証書に価値がないと言う。散々、みんなで説得しても、頑なだ。
ここで、説得している人たちは、私も含め全員後輩だということに気が付いた。平山君は役人に、米田君は一流の電気メーカーに就職が内定している。すでに4年生だった。
心配しているOBに説得してもらうべく、働きかけた。しかし、小島さんは顔向けができないと、拒絶した。
小生の説得がうっとうしくなったのか、その後、寮にも寄り付かなくなり、会えないまま8年が過ぎてしまった。
それからも、ひょっとしてという思いで、高円寺北口のレインボーを何度か覗いた。
わずか数年で、手打ちのパチンコ台も消滅し、小島さんがいるはずもなかったが・・・
そして、小島さんとは現在も音信不通だ。
30年が経過した今でも、学校の近所で年に一回くらい小島さんの子分が10人くらい集まる。平山君は地域的な制約があるので来れないが、米田君や谷山君が招集してくれる。
この集まりに参集する10名ほどは、学校は一緒だけれど、各々の関係性は希薄だ。学年も違うし、学部も違う、クラブも違う、共通しているのは、2年間の小島さんの寮生活の際、子分だったという人たちだ。
利害関係がないので続いているのかもしれないが、全員が、小島さんと遊んだ縁だけで知り合った仲間なのだ。
子分たちは30年続いているが、そこにこれほど慕われた親分はいない。
追記
米田君たちが、年に一回くらい集めてくれる飲み会だが、最近は携帯電話という便利なものがあるので、都合で集まれなかった小島さんの子分に、宴会場から電話する。
もちろん、平山君にも。電話が通じると、出席者全員に回し、それぞれの人と懐かしそうな話をしている。10分くらいすると、一周した携帯が私に帰ってくる。
最初、小生が話した時点では、かつての平山節の片鱗を思わせる巧みでウィットに富んでいる。しかし一周して戻ってきた電話の向こうの平山君の声は震えて、明らかに涙をこぼしながらただただ、私に礼をいう。
言葉にはしないが、平山君は青春時代の仲間と久々に喋ったことの礼と、小島さんを卒業させられなかったのは、自分のせいだと言いたいのだ。
その声を聞きながら、私も込み上げてくる。
「平山君、無理なことを頼んで悪かったね。本当は私の仕事だったんだよ」そして「小島さんは平山君にすごく感謝してるよ」と心の中で言う。
「それじゃ、またな」「がんばれよ」と電話を切る。
皆が私を見て「あんなにいいやつはいなかった」「平山最高」と口々にいう。
宴会が終わると、2卓くらい囲んでのマージャン大会だ。
だれかが必ず小島さんの話を始め、口ぶりをまねる。
爆笑がおこる・・・
おしまい