昭和50年3月31日 九州商船のフェリーボートが佐世保港に到着した。
小さなバッグと、ギターケースを抱えた小生は希望に胸を膨らませて九州本土に降り立った。
高校の先輩の中井さんが勤めている近畿日本ツーリストは港から佐世保駅までの途中にあった。
受付で中井さんをお願いすると、忙しそうに出てきた。「一緒にコーヒーでも飲もうよ。もう少し時間かかるから、玉屋の入り口で1時でいい?」
受験シーズン、中井さんには大変世話になった。
五島列島から国鉄の切符を事前に手に入れることが出来るとは、思ってもいなかった。
仕事とは言え、電話一本で間違いなく、さくら、みずほ、はやぶさの夜行寝台の切符を用意してくれた。
まさか自分が東京の大学に行くなどと、つい3日前まで、考えてもいなかった。
紆余曲折あり、昨日決断したばかりだった。
両親はとまどったが、浪人するよりいいだろうとの判断か、学校に寮があり、寮費が安そうなので、費用に大きな問題を感じず、息子の決断を追認した。
根拠もないのに、一期校に合格するとの自信があった小生は不合格が判明した3月中旬、浪人を覚悟し、予備校を長崎にするか福岡にするかの決断をしようとしていた。
従妹の姉ちゃんがいる福岡にしたいと思い水城学園の資料も取り寄せた。この場におよんででも、少しでも都会で過ごすことを画策した。
天神の照和に行きたいことが親にばれると、長崎の予備校になってしまうので、それはおくびにも出さず「やっぱり、水城がよかよ」と九州大学の合格者実績を比較して親にアピールしていた。
複数の学校を受験したので、今のところ、合格は2校もらっていたが、遠いとか、費用が高くなりそうだとか、行きたくないなどの理由で検討からはもれていた。
ところが、3月中旬から受験していた京都の公立と東京の二期校から、土壇場の3月下旬になって、さらに合格をもらってしまった。
実はこの2校の合格は予想外だった。なぜなら、理科と社会を自分の得意の科目で選択できなかったからだ。
もちろん一通り、授業を受けて高校での単位にはなっていたが、受験科目として勉強しなかった科目での受けざるを得なかった。
卓球の試合と重なり、行けなかった修学旅行代わりに、選択科目が合わないにもかかわらず、受験をたてに京都、東京に行ってきた大学だった。
合格の確率は極めて低いので、観光してリラックスして臨んだことが、かえってよい結果になったのかも知れない。
この結果を、春休みに入っていた学校に相談に行った。
担任は帰省しており留守、転勤が決まっていた副担任の先生の引越し準備に追われる教員宿舎に行った。
東京の学校出身の副担任は「よかったね。よかった、よかった」
小生が「合格した大学が九州でないので、浪人しようかな・・・」と言うと。
来年は新課程になるのに浪人するなんてとんでもない。国立に折角合格したんだから、絶対行ったほうがいい。と忙しそうに言った。
引越しの準備で忙しいのに、何とバカな相談してるのか。と思っているようだ。
家庭の事情など相談するムードではないので、自宅に帰って相談することにした。
親は黙っていた。
判断する材料を持っていなかった。
遠くは心配だし、費用も心配だと言いたいようだが、親として浪人を薦める根拠もない。
先生が言った「新課程」とは、小生の1年下の学年から教育課程が新しくなっていたことを指している。浪人すると、来年は新しい課程の試験問題になるので、小生の世代が浪人するのは不利と言われていた。
自分で結論を出すしかなかった。それも即刻、決断するしかなかった。
二期校の入学金納付は4月2日までと書いてある。もう時間がない。
以上の理由で急遽、中井さんに電話して翌日の特急寝台「さくら号」東京行きの切符を予約してもらったのだった。
まさかの展開だったが、東京に行けることになった小生は内心、大喜びだった。
二期校の受験の際、学校の寮に泊めてもらったので、費用のことも含め説得力のある説明できた。
京都の公立は四条河原町の旅館に泊まって受験したので、住むイメージが湧かなかったし、京都まで行くのなら東京でも同じだ。
九州でない場所は、五島列島から見ると、どこでも遠いところだった。
かくして、この日、佐世保にギターを持って降り立ったのだった。
順調にいけば、明日の午前中に東京に着くので、その足で学校に行って入学金を納付すれば、あとは何とでもなるだろう。
まずは、ジャンジャンに行ってみよう。コンサートは「吉田拓郎」か「かぐや姫」に行かなくては・・・
などと考えながら、中井さんを待つべく、四か町商店街のアーケードに入った。中井さんが指定した玉屋は長いアーケード街を抜けたところにある。
1時までは時間があるので、ぶらぶらと寄り道をした。
「そうだ、カポ買わなくちゃ」
提げているギターを買った楽器屋さんに寄って、金属製のカポスタートを買った。
今から、本格的にギターをやるんだから、今持っている布ゴムを巻きつけるタイプのカポでは東京では格好悪いかも、と見えを張った。
ついでにピックも買う。高校時代はプラの下敷きで何枚も作った自家製で友人も喜んでくれたが、何しろ東京に行くのだ。
楽器屋の次は電気屋に行く。買うわけではないが、いつか揃えるであろうオーディオを見る。
東京には秋葉原という町があって、そこでコンポを揃える計画だ。
田舎とはいえ、佐世保は長崎では2番目に大きな町だ。その中のアーケードに構える電気屋は恐らく都会と遜色ないアンプやスピーカーが置いてあった。
「やっぱ JBLはいい音だすな」
憧れのJBLのスピーカーからポールサイモンとアートガーファンクルのハーモニーが聞える。
隣のダイアトーンのスピーカーからは、ラジオが流れていた。昼どきで、地元のニュースが流れている。
次の瞬間、小生はとんでもないニュースを聞いてしまった。
「ここで、ニュースがはいりました。南こうせつとかぐや姫が解散するということです」「人気フォークグループのかぐや姫が解散というニュースが入っております」
がーん!
ショックだった。
かぐや姫は青春そのものだ。
高校時代の美しい思い出だ。クラスの女子とカセットの交換もした。
今から、見に行くつもりだったのに・・・
後から知ったことだったが、4月12日の神田共立講堂が最後のコンサートだった。
LPレコードでは擦り切れるほど聞いたが、東京に行ったら、何処よりも先にアビーロードの町を歩いてみたかった。
その、かぐや姫が解散だという。
中井さんが、玉屋に来て一緒におしゃれな洋食屋に入った。
さすが、社会人かっこいい。
「ランチ食べる?」
「おなか空いてないので・・・」
中井さんはおいしそうなハンバーグランチを食べたが、小生はかぐや姫ショックで、食欲がなく、紅茶を飲んだ。
中井さんに、かぐや姫のことを言ったが「へー?!」っと言っただけで、さほど関心がなかった。
傷心の小生であったが、切符の手配で、さんざんお世話になった中井さんと別れて「さくら号」に乗り込んだ。
傷心のまま東京に着いた2日目、小生は朝から張り切って渋谷まで出た。
ハチ公口の交番で青山通りを教えてもらい、外苑方向に歩く。
「♪あの日の君は傘さして青山通り歩いてた、君は雨の中、ちょうど今日みたいな日だった♪」
イントロのギターから口ずさんだ。よく晴れて、少し汗ばむ歌詞とは違う天候だったが・・・
「♪ビートルズの歌が、聞えてきそうと、二人で渡った交差点♪」
一人ボーカルでコーラスも自分で口ずさみながら、坂道を登った。
本当は東京タワーまで歩く計画だったが、青学のあたりで、めげた。
表参道で左折して、原宿方向へ。ペニーレインに向かう。 吉田拓郎の「ペニーレインでバーボンを」が流行っていた。
「案外、地味な店なんだ」
外から見ただけで、とりあえず満足。
「さて、このあとどうしよう」少し考え「新宿いかなくちゃ」
新宿駅で歌舞伎町の行き方を聞いて、靖国通りを横断する。
正面奥にコマ劇場があった。左に回りこみ、コマの正面に。
空腹に気がついた。コマの前の立ち食いそば屋でうどんをたのむ。
なぜか、スープが黒い・・・
平日の昼間の歌舞伎町は人がまばらだった。
うどんをすすりながら、コマのスピーカーから流れてくる有線を聴いていた。ピンカラ兄弟だった。
お腹が満たされて、コマとミラノの間の広場に出ると、聞えてくる音楽が替わった。
「♪空にあこがれて、空を駆けていく、あの子の命は、ひこうき雲♪」
荒井由美だ。
TBSパックインミュージックのパーソナリティーだった林美雄が天才だと盛んに紹介していたので、注目していた。
「かぐや姫は解散だけど、荒井由美がいい味を出しているし、ジャンジャンとかルイードいけば、未来のスターに会えるかも・・・」
と、東京での生活のスタートに希望を持った。
こうして、小生のギター生活が東京で始まるはずだったのだが・・・
荒井由美については、小生の故郷と少し関係しているが、それは後日書くつもりだ。
つづき
・・・ませんが、
PS
かぐや姫は、この年の4月12日に神田共立講堂で解散コンサートを行い、ファンは泣いた。
ところが、その夏、吉田拓郎が「つま恋コンサート」を企画した。その際、かぐや姫に出演を依頼し、ちゃっかり再結成した。
次回は、その「つま恋」の事を書くつもりだ。
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