夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」
2440 「ぐるぐる」
2441 不合理な二者択一
「遺書」の語り手Sは、不合理な二者択一を聞き手Pに迫る。
<凡(すべ)てを叔父任せにして平気でいた私は、世間的に云えば本当の馬鹿(ばか)でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊(たっと)い男とでも云えましょうか。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」九)>
Sが「本当の馬鹿(ばか)」つまり当時の言葉でいう〈白痴〉なら、叔父によってとっくに禁治産者にされていたはずだ。逆に、「純なる尊(たっと)い男」であれば、まるで「本当の馬鹿(ばか)」みたいに「財産」を叔父に与えて「平気でいた」ことだろう。「訴訟」(下九)に関わるような話題で「本当の馬鹿(ばか)」という言葉を用いる語り手Sは、社会人として怪しい。
聞き手Pの対応はどこにも記されていないが、読者は〈Pは「純なる尊(たっと)い男」を選ぶ〉と思うはずだ。この場合、読者は作者によって「純なる尊(たっと)い男」を選ばされることになる。
朝三暮四の故事において二者択一が成り立つのは、〈合計七つ〉という前提があるからだ。二者択一の前提を疑わずに即答してしまうのは、賛成しようが反対しようが、猿と一緒。悪意のある質問者の掌の上で踊らされているのに気づかない利口ぶった猿人だ。
<釈尊の弟子の一人。兄の摩迦槃特が聡明であったのに比し愚鈍であったが、後に大悟したという。悟りに賢・愚の別がないことのたとえとされる。
(『広辞苑』「周利槃(しゅりはん)特(どく)」)>
Sは、愚者のような賢者として描かれている。だが、「大悟した」という話はない。
<ああ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。ただどこまでも十力(じゅうりき)の作用は不思議です。
(宮沢賢治『虔十公園林』)>
何ですかあ~?
<「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ」
どんぐりは、しいんとしてしまいました。
(宮沢賢治『どんぐりと山猫』)>
作者の言いたいことを六十字以内にまとめよ。
まとめたあなたは「えらい」つまり「ばか」だ。「ばか」のふりをするあなたは「えらい」つまり「ばか」だ。「しいん」としてしまったあなたは、そう、「どんぐり」だよ。
2000 不純な「矛盾な人間」
2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」
2440 「ぐるぐる」
2442 ドラマティック・アイロニー
青年Sは、〈自分は「本当の馬鹿」か、「純なる尊(たっと)い男」か〉という不合理な二者択一を本気で自分に課したのだろうか。語り手Sは、聞き手Pを相手に芝居をしているみたいだ。
<イアーゴー ああ、みじめな阿呆(フール)だ、
愛してきたあげく誠実のせいで悪党(ヴァイス)にされるとは!
(シェイクスピア『オセロー』後出エンプソン論文から)>
「愛して」は、〈オセローを敬い「愛して」〉の略。「誠実」とは、イアーゴーがオセローに、その妻の不貞を告げたときの態度。不貞は、オセローを悩ませるための作り話だから、言うまでもなく、観客の観点では、イアーゴーは「悪党(ヴァイス)」だ。
イアーゴーは、〈「世間的に云えば」自分は「阿呆(フール)」だ〉と、オセローに訴える。オセローは〈自分は「世間的以上の見地」に立つ人物だ〉と思いたくて、イアーゴーにやすやすと騙されてしまう。
冷静な読者なら、「遺書」の語り手Sは、イアーゴーのような嘘つきのように思えるはずだ。また、聞き手Pがオセローに相当する騙され役のように思えるはずだ。ところが、このように解釈すると、『こころ』は作品として解体する。
<ここにあらわれているのは、世間はそう考えているかもしれないが、「阿呆(フール)」にはなるものかというイアーゴーの気持である。だがこの気持は劇的アイロニーでもあり、彼の「誠実な」の概念に立ち戻る。彼は陰謀に我を忘れることによって「阿呆(フール)」になっているのだ。彼は他人を認識することにも、そして恐らく自分自身の欲求を認識することにすら失敗している。
(ウィリアム・エンプソン『『オセロー』における「誠実な」Honestという単語』)>
エンプソン的に読めば、語り手Sは、ある種の「馬鹿」になっている。彼は、語り手として失敗しているわけだ。作者は、このことに気づいているのだろうか。
Pのいう「恐ろしい悲劇」は、〈「純なる尊(たっと)い男」であるSが「運命」(下四十九)に翻弄される〉といったドラマだろう。だが、このドラマは、作品の内部の世界の住人であるSの独り芝居だ。だから、『こころ』に意味があるとすれば、「遺書」をドラマティック・アイロニー(劇的アイロニー)として読むことになる。つまり、『こころ』は、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などの喜劇を悲劇に仕立て直そうとして意味不明になった失敗作なのだ。
語り手Sは、イアーゴーのように、「他人を認識することにも、そして恐らくは自分自身の欲求を認識することにすら失敗している」のだろう。ところが、作者が語り手Sをイアーゴー的しくじり先生として設定している様子はない。だから、作者こそ、「他人を認識することにも、そして恐らくは自分自身の欲求を認識することにすら失敗している」のだろう。こうした疑問を抱かない人は、実生活において、「他人を認識することにも、そして恐らくは自分自身の欲求を認識することにすら失敗している」のではなかろうか。
2000 不純な「矛盾な人間」
2400 「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」
2440 「ぐるぐる」
2443 「子供扱い」
青年Sが叔父のような普通の人から「子供扱い」(下八)をされるのは、当然だったろう。
<Aさんは親から譲り受けた莫大(ばくだい)な財産を持っているのですが、そのせいもあって、極度に他人を信じない傾向を心の中に持っています。Aさんにとっては他人とはすべて自分の財産を狙って近づいてくる下心を持った人たちであり、少しも油断できない存在です。ですから、Aさんはどんな人に対しても心を開こうとはしません。
(山岸俊男『日本人という、うそ―武士道精神は日本を復活させるか』)>
タイトルは、〈「日本人」はサムライかナデシコだ「という、うそ」〉などの略。
<もちろん、若いうちは、Aさんと友だちになりたいと考えた人もいたでしょうし、また誰も他人を信じられないAさんを気の毒に思い、手を貸してあげようと考える親切な人もいたかもしれません。
しかし、そうやっていくら仲良くしても、親切にしてあげても、Aさんが心の中で「何か下心があるのではないか」と疑っていることに気がつけば、普通の人ならば、Aさんと付き合うのがだんだんイヤになってくるものです。
(山岸俊男『日本人という、うそ―武士道精神は日本を復活させるか』)>
「普通の人ならば」Sを「Aさん」の同類と見なそう。『黄金』(ヒューストン監督)参照。
<その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明か(ママ)なものにせよ、一向記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……然しそんな事は問題ではありません。ただこういう風に物を解きほどいて見(ママ)たり、又ぐるぐる廻して眺めたりする癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」下三)>
「そんな」の指すものは、「……」を復元したときに発見される言葉だろう。
<この性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来(こうらい)益(ますます)他(ひと)の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶(はんもん)や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥(たしか)ですから覚えていて下さい。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」下三)>
「この性分」は「ぐるぐる」のこと。「ぐるぐる」は不合理な二者択一に関わっている様子の形容だろう。「倫理的に」は意味不明。「個人」は〈他人〉のこと。
「向って」や「積極的に」などは意味不明。「益(ますます)」だから、すでに叔父以外の誰かの「徳義心」を疑っていたことになる。それは誰だろう。両親しか考えられまい。
(2440終)