夏目漱石を読むという虚栄 2520
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2520 明治はまだ終わっていない
2521 「天皇に始まり天皇に終ったような気」
「明治の精神」という言葉は、唐突に出てくる。
<九月になったらまた貴方に会おうと約束した私は、嘘(うそ)を吐(つ)いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会う積りでいたのです。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御(ほうぎょ)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まり天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後(あと)に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)かろうと調戯(からか)いました。
(夏目漱石『こころ』「先生と遺書」五十五)>
「九月」の話が、〈十月〉でなく、どうして「冬」になるのか。「冬が尽きて」は意味不明。この後、〈ところが、「嘘(うそ)を吐(つ)いた」ような結果になります〉などといった文が続くべき。
「すると」は〈ところが〉などが適当。この「すると」は不図系らしい。「夏の暑い盛り」に文芸的な効果はない。Pの記憶を呼び覚ます効果なら、あるのかもしれない。
「明治の精神」の典拠は不明。私の知る限り、典拠を挙げた論文はない。「天皇に始まり天皇に終わった」は意味不明。「終ったような気」というのだから、「終わった」わけではない。語られるSの「気」を想像することは、私にはできない。
「最も強く」とする根拠は不明。「私ども」のメンバーは不明。静は含まれるとして、他に誰がいるのか。〈四十五歳以下はみんな死ね〉ってか。「その後」の「そ」が指すものは不明。「生き残っている」は意味不明。勿論、〈生きている〉でも変。「生き残っているのは時勢遅れだ」というのは意味不明。これに「という感じ」が付くと、ほとんど無意味。
「明白(あから)さまに」は意味不明。
静が「笑って取り合」わなかった理由は不明。「何を思ったものか」がわからないのに、どうして「調戯(からか)いました」と言えるのか。Sは「殉死」の静的意味を知っているのか。
<私は殉死という言葉を殆(ほと)んど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見(ママ)えます。妻(さい)の笑談(じょうだん)を聞いて始(ママ)めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新ら(ママ)しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)>
「忘れて」は「意識的に記憶から消そうとする」(『広辞苑』「忘る」)という感じを含むか。
「必要」は〈こと〉で十分だろう。「字」を「忘れて」いたってこと? 「記憶の底」は意味不明。〈「言葉」あるいは「字」が「腐れ」〉は意味不明。気障ですらない。つまらん。
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2522 死ねば?
「明治の精神に殉死する積り」云々の場面を、人々はどのように思い描くのだろう。
S (読んでいた新聞を膝に置いて)明治の精神が天皇に始まり天皇に終わったような気がする。最も強く明治の影を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じがする。その感じが烈しく私の胸を打つ。
静 (笑)では、殉死でもしたらよかろう。
S 殉死という言葉をほとんど忘れていた。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものとみえる。お前の冗談を聞いて初めてそれを思い出した。もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ。(笑)何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持ちがする。
こんな会話は、ありそうにない。
S (新聞を畳み)明治の精神が天皇に始まり天皇に終わったような気がする。最も強く明治の影を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じがする。その感じが烈しく私の胸を打つ。
静 (笑)では、殉死でもしたらよかろう。
S もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ。(笑)
静の返事が欲しくなる。
S (新聞を見ながら)天皇陛下がお亡くなりになったね。
静 ええ。これからどうなるんでしょう。(針仕事の手が止まる)
S 封建時代に戻るのかな。社会主義国になるのかな。いずれにせよ、そんな社会に自分が適応できるとは思えない。俺たちも死んだ方がいいんじゃないか?
静 死ねば? (作り笑い)じゃあ、殉死でもしてみます?
S ジュンシ? ああ、殉死ね。いや、勝手に殉死なんかできないんだよ。だから、もし俺が殉死するとしたらだな、ううむ、明治の精神に殉死するつもりにでもなってみるかな。(すすり泣きのような含み笑い)
静 (溜息のように)イミフ~。(反応がないので)略してIMFナンチャッテ。
S (静の声が聞こえているのか、いないのか。ぎらぎらした目で中空を仰ぐ)
静 (Sを不必要に長く見てから針仕事に戻ろうとするが、手は動かない)
静は、夫婦(めおと)心中の誘いを拒絶するために、Sに自殺を勧めた。本音が漏れたわけだ。自分でも気づかなかったSに対する疎ましさを、静は露呈してしまった。静の害意を感知して、Sは慌てて嫌味で返す。同時に自殺願望が募る。静がSを殺したようなものだ。
女に対する不満や恨みなどを、作者は露呈している。文芸的に表現しているのではない。
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2520 明治はまだ終わっていない
2523 ボッチの夢
語り手Sは「明治の精神」という言葉を不意に持ち出す。語られる時点において、明治はまだ終わっていないから、「明治」限定と断言できる「精神」など、あるわけがない。
<すると、漱石が「明治の精神」と呼ぶものは、明治二十年代において整備され確立されていく近代国家体制の中で排除されていった多様な「可能性」そのものだった、といっていいのではないでしょうか。つまり僕がいおうとする「歴史」とは、今や隠蔽され忘却されてしまったもののことです。
(柄谷行人『漱石の多様性』)>
「漱石」ではない。Sだ。「明治の精神」という言葉は、「体制」によって「隠蔽され忘却され」るように暗示された不可能性のモザイクといってもいいのではないか。私のいおうとする〈歴史〉とは、軽薄才子の発信するフェイク・ニュースのことだ。
「明治」の真意は「自由と独立と己れとに充(み)ちた現代」だろう。この「明治」は、単なる元号ではない。「精神」も、漠然とした〈物質や肉体でないもの〉とは違う。これは「向上心」のことだが、「向上心」はKの自分語であり、Sに真意は知り得ない。
「明治の精神」はSの自分語だろう。自分語を共通語に偽装したがるのが「明治の精神」の症状だ。ボッチを恥じるボッチは、自分が虚構の共同体に属しているように装う。そこは、軽薄才子の集うクラブハウスだ。家族やリアルな友人などから排除され、また、新しく親密な人間関係を構築する夢も希望もないとき、〈自分を「受け入れ事」のできるは少なくない〉という夢を見て不安を解消しようとあがく。この夢を共有する人がいたとしても、当人を「受け入れる事」はできない。できるふりをするのが夏目宗徒だ。
『こころ』の作者がSの自己欺瞞を文芸的に表現している様子はない。作者が自身の言語技術の限界を露呈しているだけのことだ。言うまでもなく、「先生」は漱石先生ではないが、両者の言語能力の性格は同質だ。また、柄谷のような夏目宗徒の言語技術も同質だ。意味不明の言説を理解したふりになりたがる軽薄才子がいるだけのことだ。
「明治の精神」は明治限定の心的現象ではない。現在も継続中の何かだ。だからこそ、『こころ』は今も読まれている。Sにとって、「明治の精神」は「明治」限定の「精神」のように思われる自分の精神状態の仮称でしかない。それを「殉死」の対象とみなしたとき、ようやく意味ありげに思われる気分でしかない。ただし、「殉死」もSの自分語であり、確かな意味はない。ありそうでなさそうな「殉死」の「意義」も明示できないでいる。
「明治の精神」とは、意味ありげなだけで確かな意味のない自分語、他人に通じることがないばかりか、自分でも共通語に仕立て直せない、自分でもどんなことを指しているのか、明白でないような精神状態、朦朧とした、混乱した、曖昧な、矛盾だらけの悲痛な気分の仮称だ。「明治の精神」とは、「明治の精神」などといったレッテルを貼って粋がるしかないような深刻な憂鬱な精神状態を指すが、同時に、ご大層なレッテルを貼ってしまえば悶々をお蔵入りにできてしまいそうに思ってしまいがちな軽薄さの仮称なのでもある。つまり、無知な人間でさえ免れない「神経衰弱」を、自他に対して隠蔽する言葉だ。
(2520終)