夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6500 近道の『道草』
6520 「行きづまり」
6521 蘇る虐待の記憶
『こころ』を書きながら、Nは自身の「黒い影」(下五十五)に気づいたらしい。自分の過去の虐待の記憶が蘇ったようだ。
<漱石は四歳の時に塩原昌之助のところへ養子にやられたが、養父が女をこしらえて家出したので、また連れ戻された。漱石の父は、漱石を復籍するに当って塩原の要求する養育料を支払ったが、その時漱石が塩原の要求によって、他人にはなっても今後不実なことはしないという一札を入れた。漱石はその後成人し、高等学校の教授として洋行し、帰ると大学の講師となり、つづいて『吾輩は猫である』によって一躍文界の名士になった。塩原は、その頃零落し、貧窮のどん底にあって、かつての養子の成功を見ると、漱石が入れた一札を利用することを思いつき、それを種にしきりに金をねだりに来て、ついにそれを売りつけた。この事件が殆(ほとん)どそのまま『道草』に使われている。その頃(三十六・七歳頃)の漱石は帰朝したばかりで、高い理想を持って非常な意気込みで研究に精進しようとしていたが、周囲の事情から、研究が思うように進まないで、苛々(いらいら)していた。そこへ更に強請(ゆすり)にも似た養父の事件が起ってきたりして、漱石は生活をますます掻(か)き乱されて苛立ち、しぜん、性格的に合わない漱石夫婦の間にいらざる風波も加わったであろう。そしてその結果夫婦はお互いを憎悪(ぞうお)しないでいられなくなることもあったのであろう。『道草』における夫婦の相剋(そうこく)はそのまま漱石夫婦のそれであったであろう。
(本多顕彰『道草』新潮文庫解説)>
健三は養父を嫌いつつも彼に同情してしまう。そうした複雑な気分を、健三はお住に説明してやれない。だから、夫婦仲がこじれる。お住が夫の苦衷を忖度できない理由は単純だ。彼女が夫を愛していないからだ。健三の気分を、語り手は表現できない。
<大学教授である主人公健三(けんぞう)が、世俗的社会に束縛されながら、孤独に生きるさまを描く。養父との確執を核に、自分の体験に素材を求めた自伝的作品。漱石が晩年こだわった自己本位の生の根拠を、人間と現実の内部に問おうとした。
(『近現代文学事典』「道草」)>
「世俗的社会」も「社会に束縛され」も意味不明。
「養父」の名は島田。「自分」は次の文の「漱石」のこと。「自分の体験に素材を求めた」は意味不明。〈「自分の体験」を「素材に」した〉と解釈する。
「こだわった」は怪しい。〈こだわる〉は「拘泥る」(『角川類語新辞典』「こだわる」)と書くぐらいで、マイナスの価値の言葉だ。この語を、この事典は、「本物の味にこだわる」(『日本国語大事典』「こだわる」)といった場合と同様のプラスの価値で用いているのかもしれない。この使い方は、昭和四十年代に始まったものだろう。その頃は冗談めいた用法だったが、この事典の用法は不明。「自己本位」は意味不明。「生の根拠」は意味不明。「現実の内部」は意味不明。「人間と現実の内部に問おう」は意味不明。
6000 『それから』から『道草』まで
6500 近道の『道草』
6520 「行きづまり」
6522 「自分の生命を両断しよう」
『道草』の語り手は、健三の視点で語る。他人の思いを語るときも、その内容は健三の推測の域を出ない。語り手独自の見解ではなさそうだ。健三の思考の場合、もっとおかしなことになる。語られる健三の言葉を語り手が代弁するのか、語り手が独自の考えを述べるのか、後日の語られる健三の言葉を語り手が代弁するのか、判別できないのだ。
<彼は自分の生命を両断しようと試みた。すると綺麗(きれい)に切り棄てられべき筈(はず)の過去が、却って自分を追(おっ)掛(か)けて来(ママ)た。彼の眼は行手(ゆくて)を望んだ。然し彼の足は後(あと)へ歩きがちであった。
(夏目漱石『道草』三十八)>
「自分の生命を両断し」は意味不明。
<自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合が失われる心因性の障害。心的外傷(トラウマ)に対する一種の防衛機制と考えられる。
(『広辞苑』「解離性障害」)>
先の本文に戻る。「すると綺麗(きれい)に」の「すると」は、〈ところが〉と〈だから〉の混交を隠蔽する言葉だ。「綺麗(きれい)」は意味不明。「過去」を「切り棄て」る様子は想像できない。「られ」が可能か、受身か、判断できない。「べき」は処置なし。「はず」は無用。彼自身の探索が「過去」氏による追跡として表現されている。「過去」氏の原型は養父だろう。〈「すると綺麗に切り棄てられ」たくない「過去が却って自分を追掛けて来た」〉なら、意味がありそうだ。「却って」は無駄。
「絵巻物」(下二)を見る健三の「眼」が「絵巻物」の中の健三の「眼」に変わる。「行手」は「絵巻物」の右側だ。彼はこちらを開かない。現在は「過去」とだけでなく、未来とも繋がっている。現在が未来の始まりでなければ、「過去」の終わりとしての現在はない。「望んだ」は意味不明。これは〈将来の幸福を希望した〉と〈未来の物語を眺望した〉の混交らしい。「望んだ」は〈希望した。しかし、眺望できなかった〉の不当な略だろう。
この「しかし」は、〈希望した。しかし〉の残滓であり、不要。「過去」氏が健三に近づいているはずが、健三が「過去」に近づいているようでもある。両者が近づいているのではなかろう。無茶苦茶。ファンタジーとしてさえ成り立たない。。
0 絶縁した養父が健三に復縁を迫るようだ。
Ⅰ 「絵巻物」の中の「過去」氏は「絵巻物」の外の健三を追いかける。
Ⅱ 「絵巻物」の中の健三は右を向いて後退し、少年になる。
Ⅲ 「絵巻物」を見る健三は左を向いて前進し、少年健三に接近する。
この四つの物語を、語り手は仕分けできていない。実際に仕分けできないのは、言うまでもなく、作者だ。
6000 『それから』から『道草』まで
6500 近道の『道草』
6520 「行きづまり」
6523 「家というものの経験と理解」
『吾輩は猫である』の作者は、〈ワガハイの「過去」の物語〉を封印した。ワガハイが「過去」氏を排除したり無視したりしたのではない。Nは、彼の「過去」氏との関係を封印することによって、近代小説家に擬態したのだろう。
<彼の眼は行手(ゆくて)を望んだ。然し彼の足は後(あと)へ歩きがちであった。
そうしてその行(ゆ)き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段(はしごだん)のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真(まっ)四角であった。
不思議な事に、その広い宅(うち)には誰も住んでいなかった。それを淋(さみ)しいとも思わずにいられる程の幼な(ママ)い彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
(夏目漱石『道草』三十八)>
「行き詰り」は変。「過去」は「行手」ではないからだ。「絵物語」の中の健三が「過去」の世界を逆行し、その「行きづまり」に「家」が出現したみたいだが、そんな物語は成り立たない。ファンタジーとしてさえ成り立たない。彼は後ろ向きに歩いているからだ。進むようで退くのか。ムーンウォークかな。複数の物語を、『道草』の語り手は仕分けできない。「行きづまり」は作者の気分の露呈だ。
「健三の眼」の持ち主は、少年のようでもあるが、実質的には中年だろう。
「不思議な事」と思うのは、語り手のようだが、中年健三でもあろう。「誰も」の真相は〈親しくなれそうな人は「誰も」〉だろう。「誰も住んでいなかった」は〈「誰も住んで」いないようだった〉などと語るべきだ。その場合、〈親しくなれそうな〉といった条件は不要。
中年健三の「眼」が、いつしか、少年健三の「眼」に変わる。そんなふうに誤読できる。しかし、そんなスマートな転換が起きているのではない。語り手の「眼」と少年健三の「眼」と中年健三の「眼」のそれぞれに映る事物が乱雑に並んでいるだけなのだ。
「家というものの経験と理解」は意味不明。妻の「お住」という名前は〈住居←「家」〉の隠喩だ。「過去」の「家」に関する欠落感は妻に対する不信感と混交している。ただし、この混交は、作者による文芸的暗示ではない。
<「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」
彼には何等(なんら)の記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった。けれども理解力の索引に訴えて考えれば、どうしても島田夫婦と共に暮したと云わなければならなかった。
(夏目漱石『道草』三十八)>
「白紙のようなもの」であるのは、島田夫婦に対する不快な「記憶」を、いつからか、健三が自分自身に対して封印してきたからだ。そのせいで、健三は養父に対する義理と人情の仕分けができない。作者にもできない。
(6520終)