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夏目漱石を読むという虚栄 7350「瘤取(こぶと)り」

2025-01-01 23:00:18 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7350 「瘤取(こぶと)り」

7351 「隣りの爺」

 

『御伽草子』(太宰)の「瘤取り」は、『鼻』(芥川)の模倣。どちらも、暗い知識人を戯画化したように見せかけながら、実は擁護している。〔1423 芥川龍之介〕参照。

 

善悪2人の主人公の出てくる隣りの爺型といわれる昔話の一つ。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「瘤取話」)

 

知識人は「隣りの爺」だ。「善悪2人」は不適当。

 

<つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かったのに、それでも不幸な人が出てしまったのである。それゆえ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になって来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄って質問したなら、私はそれに対してこうでも答えて置くより他はなかろう。

性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。

(太宰治『御伽草子』「瘤取り」)>

 

「日常倫理」は意味不明。「不正」ではなくて、どんな「事件」があったのか? 「教訓」は、誰にでも簡単に「抽出し」てやれる。〈空気を読め〉だね。空気の読めない作者は、そのことを隠蔽するために、「ややこしい事」になるように仕組んだわけだ。

「短気」は無礼。語り手は「こう」以外の感想を「読者」に抱かせまいとしている。

「性格の悲喜劇」や「人間生活の底」や「問題が流れ」は意味不明。

 

<ある人物の性格や内面的な特性を重視し、それによって展開される劇的事件を表現する戯曲。シェークスピアの「ハムレット」、モリエールの「守銭奴」などはその代表的な例。

(『日本国語大辞典』「性格劇」)>

 

『ハムレット』は悲劇。『守銭奴』は喜劇。

 

<20世紀にいたって、神のような絶対的価値が抱懐したために多様な価値観が共存し、個人の矮小性が強調されるという状況のなかで、悲劇の成立の可能性が問われはじめた。この問いに対し肯定的な答えを提出した例として、A.ミラーの『セールスマンの死』があげられる。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「悲劇」)>

 

太宰の「瘤取り」は「悲劇的部分と喜劇的部分とが交錯している劇」(『広辞苑』「悲喜劇」)か。あるいは「悲劇の結末が喜劇的に解決されるもの」(同)か。どちらだろう。不明。

 

 

 

 

 

 

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7350 「瘤取(こぶと)り」

7352 「阿波(あわ)踊(おど)り」

 

物語の初めに出て来て瘤を取られた爺Aの「近所」に「お旦那」と呼ばれる爺Bがいる。彼は爺Aの二の舞を踏む。だが、こんな要約はよろしくない。

 

<① 舞楽で、案摩(あんま)の舞に引き続いて、案摩を真似て舞う滑稽な舞。

② 人の後に出てそのまねをすること。また、前の人の失敗をくりかえすこと。

(『広辞苑』「二の舞」)>

爺Aは「ご自慢の阿波(あわ)踊(おど)りを踊って」いる。ただし、この「阿波(あわ)踊(おど)り」は、現在の踊りとは違う。現在の踊りは、1980年代に観光用に拵えたものだ。

 

<今日の阿波踊には、三味線や鳴物、まはた笛、胡弓(こきゅう)、尺八などを合奏して流す朝の「ながし」と、夜の「ぞめき」とがあるが、「ながし」のほうは衰退しつつある。「ぞめき」は「きちがいおどり」ともよばれるほど熱狂的なものである。

(『大日本大百科全書(ニッポニカ)』「阿波踊」萩原秀三郎)>

 

「鬼」は「低能の踊り」を踊る。爺Aは「低能」に受けるような踊りを踊った。一方、爺Bは、意識高い系の舞いを舞ったので、受けなかった。と、この要約もよろしくない。

 

<お旦那は、出陣の武士の如く、眼光炯々(けいけい)、口をへの字型にぎゅっと結び、いかにしても今宵(こよい)は、天晴(あっぱ)れの舞いを一さし舞い、その鬼どもを感服せしめ、もし万一、感服せずば、この鉄扇にて皆殺しにしてやろう、たかが酒くらいの愚かな鬼ども、何程の事があろうや、と鬼に踊りを見せに行くのだか、鬼退治に行くのだか、何が何やら、ひどい意気込みで鉄扇右手に、肩いからして剣山の奥深く踏み入る。このように所謂「傑作意識」にこりかたまつた人の行う芸事は、とかくまずく出来上るものである。このお爺さんの踊りも、あまりにどうも意気込みがひどすぎて、遂に完全の失敗に終った。

(太宰治『御伽草子』「瘤取り」)>

 

「教訓」めいたことは、ここで抽出できている。〈「何が何やら」は駄目だ。「傑作意識」を捨てよ〉だ。ただし、「傑作意識」は意味不明。これは〈虚栄心〉を隠蔽する言葉だろう。

語り手は、〈爺Bは自分の踊りを舞いと勘違いしている〉と暗示しているのではない。

 

<上下動を伴わずに旋回する意が「まふ」の原義、上下にとびはねる意が「をどる」の原義である。転義の「目がまふ」は「眩(ま)ふ」、「胸がをどる」は「躍る」と書くことが多いが、「眩ふ」には本来のまわる意が、「躍る」には、本来のとびはねるの意が生きている。

(『旺文社全訳古語辞典』「舞ふ」

 

語り手が原典とする『宇治(うじ)拾遺(しゅうい)物語』の第三話に〈踊り〉という言葉は出ていない。>

 

 

 

 

 

7000 「貧弱な思想家」

7300 教育は洗脳 

7350 「瘤取(こぶと)り」

7353 「へんてこな形」

 

爺Bは、舞いを好む人の仲間にはなれない。踊りを好む人の仲間にもなれない。上位の者に好かれたいのなら、話は単純だ。ところが、彼は下位の者には崇められたいのだ。

 

<「舞」は古代から中世に至り、能の舞に完成され、貴族や武家階級に支持されてきたのに対し、「踊」は民衆自身が踊るのが本来の形であり、専門的でなく庶民的性格をもつ。そこに熱狂的な群のエネルギーも生まれる。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「踊 おどり」如月青子)>

 

「鬼」は「民衆」の究極の姿だ。

爺Bは、「とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑(ちょうしょう)せられて来た事か」といった嘘で自分を騙す。知識人は自己韜晦する。といった要約を読者にされたくなくて、語り手は四苦八苦している。

「瘤」は虚栄心の比喩だ。「瘤取(こぶと)り」の作者は、虚栄の主題を徹底的に隠蔽している。そのせいで「たいへんややこしい事になって」しまった。知識人どもは、虚栄のために失敗する人間に同情する。ただし、そうした本心を自覚したくないから、ダサいオッサンの隠蔽工作に接して陶然となる。

 

<実に、気の毒な結果になったものだ。お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さんは別に悪事を働いたといふわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になったというだけの事ではないか。

(太宰治『御伽草子』「瘤取り」)>

 

「気の毒」は皮肉? 「悪事」ではないから、爺Bは生きて帰れたんだよ。「鬼退治」の意図を「鬼」が察知したら、爺Bは殺されていたろう。『セールスマンの死』の主人公は死ぬ。一方、爺Bは死なない。だから、「瘤取り」は悲劇ではない。だが、喜劇ですらない。単に意味不明なのだ。「緊張のあまり、踊りがへんてこな形になったというだけの事」というのは、あくまで語り手による弁護であり、「鬼」の印象ではない。

「気の毒な」ダサいオッサンは、「傑作意識」を隠蔽しつつ、「傑作」をものしようと企てる。その結果、彼の作品は「へんてこな形」になってしまう。

 

<『瘤取(こぶと)り』はお爺さんを通して、周囲や家人に理解されぬ芸術家のかなしみを描いている。いや芸術家というより、実利に役立たぬ無用なことに心ひかれている人間、功利社会とは別次元に住んでいるアウトローの人間の心情を描いている。

(奥野武男『御伽草子』(新潮文庫)解説)>

 

「通して」や「理解」や「別次元」は意味不明。「アウトロー」は「鬼」だよ。

(7300終)

 

 


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