回文
~キネマ
招き猫 雑魚寝 キネマ
鉄の爪 死滅の伝手
チクリ屋のやり口
知らずにずらし
(終)
ゴールデン・バット
――賢によって栄える者は
賢によって滅ぶ
どこ どこ
どこから来たのか
蔓延ウイルス
蝙蝠だけが知っている
わっはっはっはっはっはっ
蝙蝠さん 蝙蝠さん
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4440 寛容と横暴
4441 「思想とか意見とかいうもの」
青年Pにとって「不得要領」だったSの言葉の数々は、Sの「過去」つまり〈「遺書」の物語〉を文脈に用いることによって明瞭になった。そのように誤読できる。
<「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏(まと)め上げた考(ママ)を無暗に人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉(ことごと)くあなたの前に(ママ)物語らなければならないとなると、それは又別問題になります」
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」三十一)>
「私の思想とか意見とかいうもの」は〈「あなた」が勝手に「私の思想とか意見とかいうもの」と思っているもの〉などの不適当な略。「私の過去」は〈「私」が勝手に「自分の過去」の何かと思っている「もの」〉などの不適当な略。Sの「思想とか意見とかいうもの」の中身は不明。「過去」も「ごちゃごちゃ」も意味不明。「ごちゃごちゃに考えて」は意味不明。、「考えているんじゃありませんか」に対するPの返事は、あるようで、ない。当然だろう。Sは質問をしているのではなく、その真意は〈考えるな〉だから。厭味ったらしい。
「けれども」は変。沈思黙考する人は怪しい。「赤ん坊沈思黙考うんちだぞ」という句がある。頭の中の「思想とか意見とかいうもの」と腹の中の「うんち」の区別は可能か。
「隠す必要がない」のは、「思想とか意見とかいうもの」がないからだろう。
「悉(ことごと)く」でなくてもよかろう。Pにとって必要な程度だ。「あなたの前に」の「の前」は不要。「物語らなければ」の「物」は不要。「なければ」はきつい。Pは、〈語れ〉と迫っていない。「はっきり云ってくれないのは困ります」(下三十一)と訴えただけだ。「又」は不要。「別問題」というが、本来の「問題」が私にはわからない。
Sは「思想とか意見」と「過去」を切り離すことに成功しているつもりだろうか。
<「意見」という言葉の意味を、いいかえれば或る問題がいろんな風に論じられうるということを、主人に納得させるのにどれほど困難を味わったか、私は今でも忘れることができない。というのは、「理性」はわれわれが確実に知っている事柄についてのみ、肯定するか否定するすべを教えるものであり、もし(ママ)こちらがなんらの知識をももち合わせていない事柄については、肯定も否定もできないはずだ、というのが主人の考えであったからである。そんなわけで、間違った乃至(ないし)は疑わしい、命題について、論争したり喧嘩したり討論したり主張したりすること自体、明らかに悪であり、フウイヌムにとっては理解に苦しむ体(てい)のものなのだ。
(ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』「第四篇 フウイヌム国渡航記」)>
何に関してであれ、私に独自の「意見」はない。他人の「意見」に対する疑問が浮ぶことはあって、その疑問を異見として提出することなら、ある。議論を面白くするために、自分の趣味とは反対の「意見」を急造することさえ、ある。「意見」なんて、その程度のものだ。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4440 寛容と横暴
4442 「意見」について
互いの「意見」を変えるために、できれば第三案を求めて、人は話し合うはずだ。
<私は意見の相違はいかに親しい間柄でも、どうする事も出来ないと思っていましたから、私の家に出入りをする若い人達に助言はしても、その人々の意見の発表に抑圧を加えるような事は、他に重大な理由のない限り、決して遣った事がないのです。私は他(ひと)の存在をそれほどに認めている、すなわち他にそれだけの自由を与えているのです。だから向うの気が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるような事があっても、決して助力は頼めないのです。そこが個人主義の淋しさです。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
『福翁自伝』参照。
「重大な理由」かどうか、誰が決めるのか。「限り」を設定すれば、「決して」は無効。
〈「存在を」~「認めて」〉は意味不明。「それ」の指す言葉がない。「すなわち」は機能していない。Nには他人に「自由を与えて」やる資格があるらしい。「自由」は、生まれながら各自に備わったものではないらしい。
「だから」は機能していない。「気が進まない」か、進むか、どうやって知るのだろう。「汚辱」は唐突。「汚辱」と「助力」の関係は不明。「頼めない」には〈頼みたいのに〉という含意がある。この含意を「若い人達」が忖度したら、頼んだのと同じだろう。〈「頼めない」から忖度しろ〉と明言したくないだけだろう。〈頼みたくないし、忖度してもほしくない〉などと明言しなければ無責任だ。
「そこ」がどこだか知らないが、「そこ」がN式個人主義のさもしさだろうね。
Nは寛容の演技をしている。「寛容には限界がある」(『ブリタニカ』「寛容」)のであり、その「限界」つまり「重大な理由」などを明示しないのなら、実際には横暴と同じことだ。
<もっと解り易く云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
さらに「解り易く云えば」そんな「主義」は、〈事なかれ主義〉あるいは〈日和見主義〉だ。あるいは、〈特殊な「理非」について暗黙の了解「がある主義」〉だ。
<だが彼等は超党派的であるが故に、却ってセクト的なのである。なぜなら、彼等相互の間を連ねるものは主観的な、内部的(彼等に言わせれば)なもの以外にはあってならないのだから。
(戸坂潤『日本イデオロギー論』15「文学的自由主義」の特質)>
「彼等」とは、「個人主義者である今日の文学的自由主義者」(『日本イデオロギー論』)だ。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4440 寛容と横暴
4443 「同じ孤独の境遇」
青年Sは、Kを密かに操ろうとする。語り手Sは、語られるSの邪気を反省できない。作者にも反省できないのだろう。だったら、読者も。
<よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と喧嘩(けんか)をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取(ママ)って忍びない事でした。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十四)>
「彼」はKだ。「説き伏せた」は〈「説き伏せ」ようとし「た」〉の不当な略か。〈説き伏せる〉は、「喧嘩(けんか)をする」と同じ意味らしい。皮肉か。もう、無茶苦茶。
Sは、〈Kの間違いをSが指摘すると、KはSと絶交する〉という物語を前提にして語っている。だが、この物語は怪しい。Kの間違いの実態が不明だからだ。したがって、Sの指摘の仕方を想像することもできない。Kの「激する」理由や様子なども想像できない。
〈Sの「境遇」とKの「境遇」は同種だ〉と、Sは思いこんでいる。思いこみから発した〈お・も・て・な・し〉は、裏ばかり。結局、SはKを「孤独の感」よりも苦しい「境遇」に追い詰めることになった。「私に取って」は、すごい。謙遜のつもりらしいが、すでに「利己心の発現」(下四十一)が起きている。そのことに作者は気づいていないようだ。
<特攻隊というと、批評家はたいへん観念的に批評しますね、悪い政治の犠牲者という公式を使って。特攻隊で飛び立つときの青年の心持になってみるという想像力は省略するのです。その人の身になってみるというのが、実は批評の極意ですがね。
(小林秀雄・岡潔『人間の建設』における小林発言)>
「その人の身になってみる」のは普通の人の「想像力」の働きであり、批評以前の気配りだ。気配りは、自分の先入観に基づくものである公算が高い。有難迷惑。
<一歩進んで、より孤独な境遇に彼を突き落すのは猶厭でした。それで私は彼が宅へ(ママ)引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十四)>
「批評がましい」は〈差し出「がましい」〉という言葉を暗示している。
〈「当分の間は」~「加えずにいました」〉は意味不明。
Ⅰ 語られるSの立場 〈「当分の間」~「加えずにいました」〉
Ⅱ 語り手Sの立場 〈「当分の間は」~「加えずにい」ようと思ってい「ました」〉
語られるSと語り手Sの立場の混同は、随所に見られる。すごく読みにくい。
(4440終)
夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4430 こじらせタイプ
4431 『ダイナマイト節』
Nの小説では、会話が弾まない。弾むようだと、中身がない。
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云(ママ)う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕と一所にやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」
「そこでともかくも阿蘇へ(ママ)登ろう」
「うん、ともかくも阿蘇へ(ママ)登るがよかろう」
二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々(ごうごう)と百年の不平を限りなき碧空(へきくう)に吐き出している。
(夏目漱石『二百十日』五)
煽っているのは「圭(けい)さん」で煽られているのが「碌(ろく)さん」だ。ちなみに、圭がKに、碌がSに相当しそうだ。そして、「阿蘇」が「房州」に相当するはずだが、碌と違い、SはKにオルグされなかった。されないのが普通だろう。碌は、碌でなしだ。
「文明の怪獣」は「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等」(『二百十日』四)だそうだが、意味不明。「人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ」(『二百十日』一)というのが本音らしい。圭は彼のための「安慰」を求めているだけだろう。階級的怨念に偽装した個人的被害妄想の露呈だ。作者は「平民」を出汁にしている。
圭が具体的にどんなことを「僕と一所にやれ」と唆すのか、不明。実力行使は封印している。その理由は不明。「相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」(『二百十日』四)と、圭は語る。敵が不鮮明だから、戦術も不鮮明なのだろう。作者は何をしているのか。
「うん、ともかく」街に出て歌うがよかろう。
四千余万の 同胞(そなた)のためにや
赤い囚(し)衣(きせ)も苦にやならぬ
コクリミンプクゾウシンシテ ミンリョクキュウヨウセ
若しも成らなきや ダイナマイトどん
(演歌壮士団作詞・曲『ダイナマイト節』*)
この歌の内部の世界の「壮士」は「ダイナマイトどん」とやる気でいる。だから、この演歌の意味は明瞭で、「演歌壮士団」の意図も明瞭だ。
一方、『二百十日』は空疎だ。二人が何をしようとしているのか、さっぱりわからない。当然、作者の意図も不明。
*『演歌の明治大正史』(添田知道)より。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4430 こじらせタイプ
4432 「深い原因」
圭は、憤懣の原因を隠蔽している。作者は、その隠蔽工作に加担している。
隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。
「そこで、その、相手が竹刀(しない)を落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手を取ったんだあね」
「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」
「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀を落したものだから、どうにも、こうにも仕様がないやあね」
「ふうん。竹刀を落したのかい」
「竹刀は、そら、さっき落してしまったあね」
「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」
「困らああ(ママ)ね。竹刀も小手も取られたんだから」
二人の話し(ママ)はどこまで行っても竹刀と小手で持ち切(ママ)っている。黙然として、対座していた圭さんと碌さんは顔を見合わし(ママ)て、にやりと笑った。
(夏目漱石『二百十日』一)
「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」という文は意味不明。「竹刀」がどうであれ、また「小手」であれ、面であれ、胴であれ、一本を「取られたら」試合は中断、あるいは終了だろう。だから、「困る」は意味不明。
圭と碌が「隣の部屋」の「二人の話し」のどこをどうおかしがっているのか、不明。
「あの隣りの客は竹刀(しない)と小手の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気なものだ。
「君が華族と金持ちの事を気にする樣なものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳が分らない」
「なに自分じあ(ママ)、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね—―」と碌さんが隣りの真似をする。
「ハハハハそこでそら竹刀を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似してみる。
「なにあれでも、実は慷慨家かも知(ママ)れない。そらよく草双紙にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊(かいぞく)の張(ちょう)本(ほん)毛剃(けぞり)九(く)右(う)衛門(えもん)て」
(夏目漱石『二百十日』二)
「深い原因」を知れば、圭の意味不明の言葉の「訳」がわかるようになるのだろうか。ちなみに、「深い原因」は、Sの「背景」と同じものだろう。
「そこでそら竹刀を落したんだあね」は、「隣りの真似」になっていない。作者は、圭にわざと間違えさせているのだろうか。不明。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4430 こじらせタイプ
4433 「単純でいい女」
『二百十日』の圭の性格と『草枕』の画工の性格は対立するもののように誤読できる。一方は社会悪と戦い、一方は社会悪から逃げるからだ。しかし、どちらの場合も、社会悪の実体は語られない。被害妄想的である点で、二人の気分は共通している。
「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、
「そうさ」と何の苦もなく答えたが、
「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接(つ)いだ様につけた。
「剛健な趣味がありやしないか」
「うん。実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、立派な人間が出来るんだがな。惜しい事だ」
「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んでみるがいい」
「うん、それも好かろう。然(しか)しそれより前に文明の皮を剥(む)かなくちゃ、いけない」
「皮が厚いから中々骨が折れるだろう」と碌さんは水(すい)瓜(か)の様な事を云う。
「折れても何でも剥くのさ。奇麗(きれい)な顔をして、下卑(げび)た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性を社会全体に蔓延(まんえん)させるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云(ママ)う性根(しょうね)の悪い奴があるものだ」
(夏目漱石『二百十日』三)
「あの下女」が『二百十日』のヒロインになるべきだった。
Nの小説では「単純でいい女」が、ちらほらする。だが、男たちは、藤尾や那美のような性悪女に、良くも悪くも関わりたがる。「マドンナ」を、「五分刈り」は「水晶(すいしょう)の珠(たま)」(『坊っちゃん』七)にたとえるが、なぜか、近づかない。ちなみに、「山嵐」は彼女を「かの不貞(ふてい)無節なる御転婆(おてんば)」(『坊っちゃん』九)と呼ぶ。「マドンナ」は静の原型で、正体不明。
「木に竹を接(つ)いだ様」の「竹」こそが『二百十日』の隠蔽された主題だ。圭が単純でいい男なら、「単純でいい女」と睦もう。ところが、彼自身、「下卑(げび)た根性」の持ち主だから、同類を憎悪するわけだ。勿論、作者の企画ではない。
「下卑た根性」とは被愛願望のことだ。Kは、自分の被愛願望を自他に対して隠蔽するために、他人の被愛願望を無闇に攻撃している。圭は、〈自分は「単純でいい女」に愛される〉という物語を夢としてさえ語れない。愛されない不満ではなく、〈愛の物語〉を語れない不安を紛らわそうとして、正体不明の「文明の皮」を話題にしているのだ。
『草枕』の画工の場合、那美の「文明の皮」を剥いたことになる。ただし、嘘っぽい。作者は後日談を構想できなかった。
『二百十日』や『野分』の隠蔽された主題は、それらと真逆のような『草枕』の隠蔽された主題と同一なのだ。Nのすべての小説の隠蔽された主題は、〈「文明の皮」を被った女を「単純でいい女」に変えたい〉と要約できる。〈「単純でいい女」に「文明の教育を施すと、立派な人間が出来るんだがな」〉といったロマンチックな話ではない。
(4430終)
夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4420 脳内会議
4421 デーモンたち
自問自答が成果を挙げないのは、理性的で公正なMを招聘できないからだ。
<或声 お前はそれでも夏目(なつめ)先生の弟子(でし)か?
僕 僕は勿論夏目先生の弟子(でし)だ。お前は文(ぶん)墨(ぼく)に親しんだ漱石(そうせき)先生を知っているかも知(ママ)れない。しかしあの気違いじみた天才の夏目先生を知らないだろう。
或声 お前には思想と云うものはない。偶々(たまたま)あるのは矛盾(むじゅん)だらけの思想だ。
僕 それは僕の進歩する証拠だ。阿呆(あほう)はいつまでも太陽は盥(たらい)よりも小さいと思っている。
或声 お前の傲慢(がうまん)はお前を殺すぞ。
(芥川龍之介『闇中問答』一)>
言うまでもなく、「矛盾だらけの思想」は「思想」のうちに入らない。
芥川のDは複数いた。この「或声」の持ち主は「天使」だ。次にやってくるのは「悪魔」で、最後に「僕等を支配するDaimôn」(『闇中問答』三)がやってくる。三者ともDだ。
デーモンは、「いつかまたお前に会いに来るから」と言い残して去る。
<僕 (一人(ひとり)になる。)芥川龍之(あくたがわりゅうの)介(すけ)! 芥川龍之介、お前の根をしっかりとおろせ。
(芥川龍之介『闇中問答』三)>
「僕」のDは、またやって来た。ところが、「僕」はそのことに気づかない。「僕」がDに乗っ取られてしまったからだ。自分を「お前」と呼んでいるのは、そのせいだ。
<モジュール理論を自己欺瞞に当てはめると、私たちの精神的な生活は、専門別のいくつものチームが運営していて、このチームを構成しているのは「デーモン」(オリヴァー・セルフリッジが用いた魅力的な名称を使うことにする)(注37)である。従来の考え方、つまり意識されている心がすべてを管理し、情報処理システムのヒエラルキーの頂点から末端の下働きに命令を下している、という思い込みは捨てる必要がある。それよりもタフツ大学の哲学者ダニエル・C・デネットが説く心の捉え方のほうが求めるものに近い。デネットによると、私たちの心にはさまざまな現実が同時に存在し、それぞれが支配権を握ろうと、もみくちゃになって争っている。「心(メ)の(ン)中(タ)に(ル・)ある(コン)もの(テンツ)は、その争いでほかのものに勝ち、行動を支配する力を持ったとき初めて意識される」というのだ(注38)。
心という広大な部屋いっぱいに忙しく働く人がひしめいているようすを思い描いてみよう。
(デイヴィッド・リヴィングストン・スミス『うそつきの進化論 無意識にだまそうとする心』)>
「モジュール」は「脳内会議」(ETV『ベーシック国語』2016)みたいものだろう。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4420 脳内会議
4422 「迷信の塊」
何四天王の小説や慢語三兄弟の評論などを面白がる人は、会話の基本を身に着けていない「淋(さび)しい人間」だろう。主に男たちだが、女子会から弾かれた紅一点、聖母で魔女のマドンナも混じる。紅が二点でも三点でも、事情は変わらない。
<私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然(はっきり)見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世に居なくなった後でも、居た時と同じように私を愛してくれるものと、何処(どこ)か心の奥で信じていたのです。尤(もっと)もその頃でも私は決して理に暗い質(たち)ではありませんでした。然し先祖から譲られた迷信の塊も、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」七)>
「その頃」が年齢のことなら、おかしい。「質(たち)」と「頃」は無関係だろう。〈「理に暗い質(たち)」の人がまだ多かった「その頃」〉のつもりか。ただし、「理に暗い」は意味不明。
「先祖から譲られた」は不可解。〈「父や母」「から譲られた」〉のではないらしい。「迷信」は怪しい。自分が信じていることを「迷信」とは、普通、言わない。自嘲か。「塊」は意味不明。たとえば、〈欲の塊〉は強欲な人のことだ。〈好奇心の塊〉は好奇心の強い人のことだ。だから、「迷信の塊」は、普通、〈迷信家〉といった意味になる。ホムンクルスのようなDか。
〈「強い力で」~「潜んで」〉は意味不明。「血」が「質(たち)」の比喩だとすれば、矛盾めいている。「血の中に潜んで」は意味不明。血栓か。「潜んで」というのなら、「迷信の塊」は動物か。これはDだろう。「迷信の塊」としてのDは、〈Sの両親は、存命中にSを愛さなくても、死後にはSを愛する〉といった、ありそうにない物語を語ったのだろう。ありそうにない物語だから、Sは「迷信」と呼び、「塊」にして正体不明にしてしまったようだ。少年Sは、理想の両親の霊魂などと出会うために、現実の両親の他界を願っていたのに違いない。「潜んでいるでしょう」という推量の根拠は不明。あるいは、〈「今」から後「も潜んでいる」こと「でしょう」〉などの不当な略だろう。〈父母の霊魂はSを守護する〉という物語の枠組みはあるが、その中身はまったくない。中身のない物語を語るSの魂胆は、かなり怪しい。
<知識人のハムレットは亡霊の素性を疑い、王の本心を探るため国王殺しの芝居を見せるが、王は顔色を変えて立ち上がる。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ハムレット」小津次郎)>
「王」のこの反応が「亡霊」の告げた「国王殺し」の情報の正しさを証明するとは限るまい。だが、ハムレットは一応探ってみたのだ。
一方、Sは「亡霊の素性」を疑わない。彼の考えでは、「亡霊」そのものが実在しないからだ。ところが、「亡霊」の働きは疑わない。Sは、守護霊の物語を「迷信の塊」として封印しつつ温存しているので、近代主義的な〈もう一人の自分〉といった概念に思いが及ばない。亡霊との問答も、自問自答もできない。ほとんど何も考えていない。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4420 脳内会議
4423 『ホームレス中学生』
都合のいいDが出現したら、奇跡のようなものだ。Nの小説の語り手は〈奇跡が起きないのは変だ〉といった構えでいる。〈鬼退治に出かけた少年が桃太郎のような英雄でないのは変だ〉みたいな構えだ。
<パン売り場の前に行き、よだれを垂らした。体力の限界がきてパン売り場の前にしゃがみ込んだとき、店の人から死角になっていた。
こんなに腹が減っているのだから一個ぐらい盗ったってバチは当たらないだろうと、いけない考えが浮かんできた。かなり葛藤(かっとう)した。
お兄ちゃんの働く店だからという考えは一切浮かばず、ただ罪を犯すか犯さないかで迷っていた。腹の虫と理性が戦っていた。
そのとき、お母さんの顔が浮かんだ。
もしお母さんが見ていて、そんなことをしようとしていると知ったら、どんな顔をするだろうか。
それを考えると、とても盗む気にはなれなかった。
腹の虫が負けた。
(田村裕『ホームレス中学生』「空腹の果てに……」)>
ここには数々のDが登場する。
「店の人」「お兄ちゃん」「腹の虫」「理性」「お母さん」だ。「店の人」は冷たい世間の一例であり、まだ被害者にはなっていない。「腹の虫」は悪魔だ。司会をすべき「理性」が「戦って」も、「こんなに腹が減っているのだから一個ぐらい盗ったってバチは当たらないだろう」という考えには理がある。盗人にも三分の理。この理を無視すれば、「理性」は神のようになる。この神は「店の人」と区別できない冷酷な神だ。「渇しても盗泉の水は飲まず」という。冷酷な神と切実な悪魔の戦いは尽きない。そこへ死んだ「お母さん」が天使になって舞い降りた。すると、「理性」が素直に働いた。「理性」は天使に軍配を上げる。このとき、〈「理性」が天使を召喚した〉とも言えるし、〈天使が「理性」に仕事をさせた〉とも言える。
少年田村がこのように分析的に考えていたわけではない。語り手田村が反省した結果、Dたちがある程度の輪郭を獲得したのだ。彼が食欲について丁寧に語ったから、「理性」が登場できた。彼が丁寧に語れたのは、少年田村が母親とうまく話しあえていたからだろう。
<最後の晩餐(ばんさん)というものがあって、死ぬ前に何でも好きなものを食べさせてやるから三品自由に選べと食の神様に問われたら、一品は迷うかもしれないけれど、二品は即答する。
お母さんのカレーと湯豆腐。
(田村裕『ホームレス中学生』「空腹の果てに……」)>
Nの場合、こうした「お母さん」のようなDは出現しなかった。いや、出現しないのではく、存在しなかったのだろう。
(4420終)