ビギナークリスチャン♪シズコの縁側

クリスチャン歴18年、うつ状態歴27年をむかえたけど未熟or発展途上?悩み満載!生かされて感謝♪クリスチャンブログ。

父のこと、クリスチャン生活10年を振り返って

2011年05月09日 | 日記
律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
新約聖書:ヤコブの手紙4章12節


今日は・・・・凄いタイトルつけちゃったなあ・・・と思いながら、ちょっと真面目に考えながら書きたいと思います。(実はどきどきしながら書いてます)・・・・っとその前に・・・。
じゃーん、これが我が家の紫木蓮です。ちょうど久しぶりに遊びに来てくれた、アゲハ姐さんのコメントにもあった、紫木蓮です。



これは、ちょっと前の5月の1日ころかな?まだつぼみが固くて、天気も悪いので花は咲いてないのですが、私の大好きな木蓮です。画像が小さいので、画像をクリックして少し大きくしてご覧くださいね。

花だけ映すとこんな感じです。ほぼ二階の屋根まで届くかな?届いてますね。



この紫木蓮は、今の家に引っ越す前から、前の家でもずっと私を慰めてくれてました。
もう物心ついたときには、前に住んでいた小さな家の片すみに、でんと根を張って、我が家を見守ってくれるように生えていたよ。

私は木蓮の花も好きだったのですが、実はこの木蓮の木の幹がとても好きだったんです。
白くて・・・小学校当時はわからなかったけど、ちょっと象牙色というか、上品な感じでとても好きでした。

小学校のときに、宿泊研修というか、泊りがけのキャンプがあったとき、一人一本、トーチを作って持っていかなければいけなかったんです。その時私は亡くなった父に頼んで「お父さん、キャンプさ持って行くトーチ、これで作ってケロ」(=お父さん、キャンプに持って行くトーチ、これで作ってくれない?)と言って、作ってもらいました。父はのこぎりで、ちょうどいい幹を切ってくれ、母からもらった要らなくなった古タオルを巻いて、その上からぐるぐると針金を巻いて、素敵なキャンプ用のトーチを作ってくれました。

父親っ子の私は、とても嬉しかったです。

父は工業高校出身だったので、大工仕事はとても得意でした。机の上に本棚が欲しくて「お父さん、本棚買ってけね?」(=お父さん、本棚買ってくれない?)と頼むと「お父さんが作ってける。こいなは、お父さん得意なんだ」(=お父さんが作ってあげる。こういうのは、お父さん得意なんだよ)と、本当に優しい笑顔で嬉しそうに作ってくれました。

私が通っている南部教会の岡先生も、とても穏やかな先生ですが、私の父も同じくらい穏やかで優しい父でした。そして14才で自分の父(私の父方の祖父)を亡くして、夜間の工業高校に入って、昼間は働き、夜勉強をして高校に行っていたので、私が思った以上に苦労したことと思います。
けれど、父自身はそのことを一言も自慢も愚痴も言わなかったと思います。
ただ、折に触れ母や祖母(父の母)が私と弟に「お前たちのお父さんは偉いんだよ。働きながら高校に通って勉強したんだから」とよく言われていたので、「ふーん、お父さんは偉かったんだなあ」と小さいころからそう思っていました。

ただ、普段は優しく、声を荒げることもなかった父が言う叱咤の一言は、その分、とても私には応え(こたえ)ました。
特に、前にも書いたことと思いますが、ヤマハのオルガン教室を二年終え、三年生からピアノを習ったときは、一年間ピアノを買ってくれず、四年生になってから初めてアップライトのピアノを買ってくれました。そして、バスを乗り継いで行かなければいけないから「腕時計が必要だ」と、小学三年生の私を父行きつけの時計屋さんに連れて行き、一緒に腕時計を選んでくれたのです。それは当時小学生の私でも「贅沢をさせてもらっている」と感じました。

そして、ピアノと腕時計を買ってくれた後、父が言った言葉が次のような言葉でした。

「いいか、俺はお前がピアノを習ってプロになろうが趣味でやろうが、どっちでもそれはかまわない。けれども、一つだけ条件がある。それは10年続けることだ。何事も10年続けなければ、何にもならないからだ。それにな、今までお父さんがピアノを1年間買ってやらなかったのは、お前が本気でピアノを習う気持ちがあるのかどうか、見たかったからだ」

この言葉は、父が亡くなった23年たった今でも鮮明に覚えています。
だからお陰様で、ピアノは12年習わせてもらったし、私の体の中に「何事も10年」という父の言葉が刻まれているのです。

私は、山形南部教会で洗礼を受けさせてもらって、今年で10年になりました。
今振り返ってみると「10年ってあっという間だなあ」と思います。
そして、10年間でどれだけクリスチャンとして成長させてもらったか、というと・・・・正直・・・・うーん・・・・とうならなければいけないです。
正直、10年間で自分を見つめて、洗礼を受けたばかりの時は「これで私もクリスチャンになったんだから、少しはましな人間になるだろう」と思ってたんだけど・・・事実は逆だね。自分の嫌なところが、毎年見えてくるんです。
でも、これが洗礼を受けて成長したということかなあ?
(いや?洗礼を受けなくてもそれはあるか?)
でも、私の場合は、本当にそんな感じ。
「こんな私がクリスチャンと言っていいのか?」って思うとき多々あり、です。

あと、率直に書くと「人間が集まるところは、教会でもどこでも、いろいろ問題は起こるんだなあ」と思いました。
この問題と言うのは、良い問題も悪い問題も、ということです。

これも、前に書いたような気がするんですが、以前クリスチャンになる前に、私はいろんな教会を覘いて(って言っちゃ言葉が悪いかな?)歩いたことがありました。
その時、ある教会の門に立って「入ろうかな?どうしようかな?」と迷っていたんです。
多分、そこの信徒さんだと思うんですが、女性の方が声をかけてくださいました。
私が「実は、私は鬱なんです」と申し上げたら、その方はこう仰ったんです。

「あ、ここの教会は全員良い方ばかりだから、安心してお入りになって見学なさって下さい」

今思うと、多分その女性は、私が鬱だと申し上げたので、私を安心させるためにそう仰ったのだと思うんだけど、へんくつな私は

「えーっ!?そんなみんな良い人ばっかりなんて怪しいかも。やめよう」

と思い、「いえ、結構です。失礼します」と帰っちゃったの!

わーっ!今考えると、凄く失礼なことしたなあと思います。
(あの教会の、親切にしてくださった女性の方、ゴメンナサイ

なんか、そんなことを今思い出してました。

でも、クリスチャンになって10年、何書こう?と思ったとき、ふっと思い出した聖書の言葉が、今日の聖句の一番最後です。これ実は私、とても痛い言葉だけど、好きなんです。

隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。

洗礼を受けると、クリスチャンとして「これをしなさいね」と言われる事の一つに「聖書通読」があります。旧約聖書と新約聖書を全部、毎日少しずつ読むことです。
私は、これってすごーく大変だけど、とても良いことだと思います。
聖書を買ったとき、岡先生に「聖書通読表」というのを頂いて、「毎日だいたい3~4章読むと、だいたい一年で聖書は全部読める」と書いてあります。10年たった私はその割で言うと、10回通読してるはずです。がっ!
・・・私は実を言うと、今旧約聖書が3回目で、新約聖書は4回目です。
2006年から始めたのが、まだ終わらないの。でもね、今日、旧約聖書の最後のマラキ書というのを読めば、もう三回目終わるんですけど・・・・。って早く読め!
って感じですよね。
ただ、聖書を一回全部読むと、私の場合は三回か?何事三遍意おのずから通ず。っていうじゃないですか?時々、困ったり、悩んだりして祈るとき、ふっといろんな聖句が浮かんでくるんです。

今、父が生きてたら、この言葉言われそうな気がします。

隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。

時々腹を立てて、怒るとき、この聖句がふと頭に浮かぶのです。

聖句を読むのは簡単。(ホントか?)でも行うことが何と難しいもんかなあ~と私は思います。

昨夜もあることで、私は凄く腹を立てて、そのことで教会の方に、メールを出そうかと思いました。
でも、(多分)母から小さい時に「夜書いた手紙は、もう一度朝読み返して出しなさい」といわれたことを思い出し、出すのを止めて、未送信にしてました。
そうして今日、起きて、もう一度今落ち着いて考えると、やはり出さなくて正解だったと思います。

そのことで、さっき電話で祈ってもらいました。
祈ってもらいながら思ったことは「『神は愛です』と仰る神様が、他の人を悪く言ったり憎んだりするのは、決して喜ばれないなあ」と言うこと。

長くなりましたが、父のこと、そしてクリスチャンになって10年目、振り返って思うことの、ちょっと一部です。

ここまで長いブログを読んでくださったあなたに、心から「ありがとう」を申し上げます。
これからも私のためにお祈りください。

オヤスミナサイ。

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