二つに見えて、世界はひとつ

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知識の木の実

2022-09-09 19:15:00 | 哲学
知識の木

 アダムとイヴの伝説によれば、人間が最初の統一を去るようになった誘惑は蛇によって人間にやってきたことになっています。

 しかし実際は、「対立」へ足をふみ入れること、すなわち意識の目覚めは人間自身のうちにあるのであって、このことは、あらゆる人のうちで繰り返されている歴史なのです。
  ヘーゲル「小論理学§24
 ランベール画「善悪の樹」
  
 
 生命と知識

 わたしたちは知識を得るために分析・分解します。わたしたちは知覚のうちに、多くの要素からなる具体的なものを持っています。

 知識を得るためわたしたちはそれらの緒要素を、まるで玉ねぎの皮でもはぐように分解するのです。そして分解ということ以外には何もつけ加えないと考えています。

 しかし実際には「知覚」を「思想」に変えているのです。具体的なものを抽象的なものに変えているのです。

 もし具体的なもの、統一的なもののみが「生命あるもの」なら、このような方法は同時に生命あるものを殺していることになるのです。 
        同§38

 多くの人は、認識するということは与えられた具体的な対象を抽象的な要素に分解し、これらを個々別々に観察する以外なにもすることができないと言う。

 しかし、こうした方法が事物を変化させるものであり、あるがままに事物をつかもうとする認識は、そのさい自己矛盾におちいることはすぐわかります。

 たとえば、化学者は一片の肉をレトルトに入れて、それをさまざまな方法で処理し、それが窒素、炭素、水素などから成っていることがわかったと言います。

 しかし、これら抽象的な素材はもはや決して肉ではないのです。経験的心理学者がある行為を観察し、そこにおいて示されるさまざまな側面を分解して、これらをあくまで分離する場合も同じです。分析の対象は、いわば、人がその皮を一枚一枚はいでいくタマネギのように取り扱われているのです。
         同 § 227

 たとえば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではありません。なぜならそれらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、決して統一に無関係なものではないからです。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取り扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎないのです。  同§136

 肉体の個々の分肢はその統一によってのみ、また統一との関係においてのみ、それらがあるところのものであります。たとえば、身体から切り離された手は、すでにアリストテレスも言っているように、名の上でのみ手であるにすぎず、事実においてはそうでありません。  同§216

ランベール画「善悪の樹」


 知識の木の実

 わたしたちが知識の木の実を食べるとき、すなわち反省により意識が知識へと変わるとき、現実であったものが観念的となり、具体的であったものが抽象的になり「一」であったものが「多」となります。

 ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、すべての物は互いに相対し、すべての物は対立するようになるのです。

西田幾多郎「善の研究」四篇四章より

西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870 - 1945は、日本の哲学者。著書に『善の研究』などがある。