「同窓会には幸せな人とカ○が来る」
それぞれが異なる道を歩んでいることを実感する
同窓会をすると、青春の同じ時期を同じ環境で過ごそうが、その後の住む世界の違いをいろんな形で痛感する。 私は幹事のひとりだった。1次会と2次会の店を担当し、「司会も」と言われたが、「せめて司会はサブで」とメイン司会は辞退した。 もう居酒屋とかカラオケとかいう年齢でもなかろう、と、一次会は料亭で。二次会はイタリアンで準備した。 各地から集まることを鑑み、誰でも迷わず来れるランドマーク的ビル内の料亭にした。 東京でいうと、ミッドタウンや六本木ヒルズといったところだ。ところが…、それでも迷って来られない同窓生がいた。30分も迷い、別の幹事に電話をしてきた。その様子を眺めながら私の思考は停止した。仮に、地方から大阪に初めて来た高齢者でもたどりつけるくらいのビルに、それでも着けない私と同世代の社会人がいる。私は自分の思考の限界を感じた。 昔から懇意にしてもらっている料亭には会費内で済むよう料金設定の無理をきいてもらった。その料亭内で「ここの支店、一件、店じまいしたやろ」と耳知識を声も潜めず披露する無遠慮な同窓生もいる なぜ、この料金設定でこの料亭が使えているのか、その背景にはどんな繋がりがあるのか、そんな事情を読まない無邪気さに、同じ社会人でも料亭との縁の有無は別物なのだ、と、思い知る。 「俺が幹事ならこんな気取った店は選ばないぞ」と酔って叫ぶ同窓生。 やはり居酒屋にすべきだった、と、後悔した一瞬だ。 料亭にしたには理由があった。担任の先生が教員の定年を迎え、酔って騒ぐ同窓会ではなく、会話できる同窓会にしたかったからだ。その糸口には生徒たちから定年を迎えた先生への送る言葉やプレゼントなどの進行があったが、メイン司会はいっこうに糸口へと進まない。2次会への時間も逆算し、「そろそろ歓談タイムを終え、順次挨拶にしたら?」と提案したが、「いや、まだ後がいいと俺は考えているから」というメイン司会者に従い、様子を見ることにした。 ところがそのメイン司会者が…酔った。 進行すべきところが、意味不明の上機嫌話が延々続き、2次会の店の予定にはすでに1時間近く遅れているがお構いなしの様子。私は強行に終えんにし、その店を出た。 せっかくの時間をまだ会話し足りない皆の思いが、2次会への歩みを牛歩のごとく遅くした。1次会で帰る人への惜別の思い、先生へどうしても伝えたかった言葉、等々が、路上で延々と続く。本来それらは店でなされるべき会話だったはずだ。そのための料亭空間で、そのための進行だった。メイン司会も私がすべきだったと後悔した路上の光景だった。 そんな中、心に残る言葉もあった。ほぼ進行できなかったメイン司会男性が言った。 「俺、今年、会社をリストラされた。でも次の仕事にありつけたけどね」 私は驚かなかった。 「食事会がちゃんと仕切れて、仕事もやっと一人前」と、昔、ある社長に言われたことがある。 それくらい食事会を仕切るのは多種多様の神経を使う。 食事会の趣旨から店を選び席順を決め、すべき話と避ける話の良識が問われ、酔い方も人物評価に直結する。喋り、酒を注ぎ、そして自分も食し楽しむ。酔えばいいというものではない。…と、私は教わってきた。 その意味では料亭も仕事の援護射撃をしてくれる大切なブレーンだ。 あくまでその方程式でいくと、「俺、リストラされた」ことも、キツイようだが、私が驚かない理由だ。 2次会の店へ急ぐ私を気遣い、路上で固まる同窓生に「はよ来いや!」と声を荒らげる同窓生が言った言葉も心に残る。 「僕、転職しようと思う」 もはやアラウンドフィフティで家族持ち男性の言葉としていささか驚いた。 「…え!? この年で? 何かしたいことがあるの?」 「それを探したい」 私はまた言った。 「…この年で?自分探し?」 同窓生はうなずく。 「なぜ?…(しつこいようだが)この年で?」と私。 「もう、他人に頭を下げるのが嫌になった…」 「……」
その日、焦る私の立場を唯一感じとり同窓生を一喝してくれた男子の感性で、頭を下げ続けた営業人生をおもんばかった。 定年を迎えた先生が言った。 「自分探しをしても、仕事はすぐには見つからんぞ」 重く響いた。 女子の言葉も心に残った。 「フルマラソンに凝っているの」 「なぜ!?」 「ゴールがあるから」 「どういう意味?」
主婦業の歳月は、いつも食事を作らなきゃという強迫観念から自由になれなかった。それには終わりがなかった。でも、マラソンにはゴールという達成感があった。とその女子は言った。 「俺、リストラされた」 「僕、自分探しをしたい」 「マラソンにはゴールがある。主婦業にゴールはない」 そして、「自分探しをしても、仕事はすぐには見つからん」という60代男性。
それぞれの一言が、今でも忘れられない。 働き盛りの社会人の本音の多様さと、定年を迎えた直後の男性の思いは、あくまでその年齢と立場がもたらしたものだ。
70代現役で働く女性に、同窓会の感想を聞いてみた。 「同窓会はな、皆が元気な時はあるけれど、どんどん他界していくと、同窓会自体が消滅するもんや」 生きている時にしかできないのが、同窓会。なんという核心をついた言葉か。
長年働き、ビルを建てた80代ご隠居女性に同窓会について聞いてみた。 「同窓会はな、今、幸せな人と、カ○が来る」 「カ…?、なんておっしゃいました?」 聞き取れなかった私はもう一度問うた。 「カ○や」 聞き取れた気がしたが、まさか、あり得ない、と、また聞いた 「カ…、その次の言葉はなんと?」 「カスや」 「カス!? どういう意味ですか?」 「2次会、3次会と皆について回ってお金を払わず、最後には、金を貸してくれ、という、カスや」 「……」
すでにそれぞれが異なる道を歩んでしまっていることを実感することになった同窓会。 そこにある生活実感のようなものは、想像以上にかけ離れていた。 その数十年後、行きつく先は、幸せ者と、カス…なのか。 やがてそして誰もいなくなる…。
過去、一緒だったからといって、誰が何を理解できているだろう。私が料亭を選んだ理由を、同窓生のいったい何人が理解してくれただろう。
やがては誰もが異なる現実を生きていく前提で、依存や執着を越えて、今を楽しむことをお勧めしたい。
読んでいて、
若い頃幹事をしていた親父。
みんな、成功し出世しました。嬉しいことです。
今度、いつかあるであろう同窓会。
行きたくても行けないと思う。
2次会・3次会、金は払う。
やっぱり、カスの部類のコンプレックスは親父もある。
逆に金は無くてもええかっこもしたい。
けど、行かんやろな。
何か、疲れてますわ。
ほな・・・・。
「親父、元気出さんかい!!」と思われたらポチッとお願いします。