2016/06/02 豊川市 牛久保史跡巡りしました。
今回の史跡巡りルートです。
◆牛久保城跡
享禄二年(1529)一色城牧野成勝(しげかつ)が、今橋城主(吉田城)の牧野信成の命を受けて築城したといわれています。のち江戸幕府の直轄領となり元禄十三年(1700)廃城となった。
石碑 城郭図面
◆今川義元公墓所(大聖寺)
永禄三年(1560)桶狭間の戦いで織田信長の奇襲にあって討死しました。
その時、義元の首がないままの胴体を家臣が背負いこの地まで逃れ葬ったので「義元の胴塚」とも伝えられています。
大聖寺山門 墓所
◆一色刑部少輔時家の墓
室町時代足利の一族一色刑部少輔時家は文明九年(1477)一色城主時家の時、家臣波多野全慶(ぜんけい)に殺害された。
墓所
◆牛久保八幡社
奈良時代の天平神護年間(765)に三河国が飢饉に見舞われた時、朝廷は倉庫を開いて救済につとめ、国司は住民に神を祀らさせるため仁徳天皇を勧請しました。
天下の奇祭として、「若葉祭(うなごうじ祭)」が有名で、祭りの行列の最後尾を受持つ一行が路上に「寝転ぶ様子」が「うじむし」に似ていることからこの祭りの名がついたそうです。
入口鳥居 神殿 神殿扉
◆東勝寺 曹洞宗
元和元年(1615)創立と伝えられています。
明治六年(1873)には当寺の本堂を教室として誕生したのが牛久保小学校と伝えられています。
山門 本堂
◆山本勘助養父屋敷跡(大林勘左衛門貞次屋敷跡)
案内標示
◆善光庵 黄檗宗
永禄年中、天台寺院として智山法師が創設しました。その後廃寺なっていたのを元禄二年(1689)潮音道海(ちょうおんどうかい)が黄檗宗の寺院として復興しました。
○市文化財
本尊(藤原様式)「聖観世音菩薩立像」と智戒和尚勧進の「青銅製の弥勒菩薩の佛頭」が安置されています。
石柱 本堂 本尊 佛頭
○袈裟掛地蔵(身変地蔵)
牛久保城家臣で渡辺太郎左衛門が野武士集団に殺されそうになった時、そばに立つ石地蔵の陰から若者が現れ、野盗を追い払った。しかし若者は深傷を負っていずこかに消えた、若者は代りに、けさがけに切られた石地蔵と伝えられている。
袈裟掛地蔵(中央)
◆山本勘助の墓(長谷寺)(ちょうこくじ)
四十五歳で武田信玄に仕え、幾多の戦いで「名軍師」とうたわれたが、永禄四年(1561)川中島の合戦で討死しました。
勘助は長谷寺の住職念宗(ねんしょう)和尚と特に親しく、武田信玄に仕えた折には、入道して「道鬼斎」と称して遺髪を和尚に託した。勘助の守り本尊「摩利支天像」(市指定)は毎週土・日午前9時から4時まで拝観できます。
墓案内石碑 本堂 本尊 墓所
◆牧野成定公廟
第二代牛久保城主牧野成定の墓所です。牧野成定は、牛久保城主牧野保成の後をうけて牛久保城主となり、早くから徳川方に属していました。永禄8年(1565年)家康が吉田城を攻めた際、成定は酒井忠次とともに今川方の説得につとめ、開城させるという武功をたてた武将です。
廟 天王社
◇法信寺(ほうしんじ)真宗大谷派
山門 本堂 欄間「天女の舞」立川昌敬 (未確認です)
◇養樹寺 真宗高田派
当寺の創設は天正十六年(1588)で「太子堂」は天正十一年(1583)です。
一説では、永禄8年(1565年)家康が吉田城攻略時、牧野成定は戦勝祈願した由緒ある尊像であると云われます。
山門 本堂 太子堂
以上