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2018/05/17京都山科に皇室ゆかりの古刹を訪ねる。(泉涌寺、勧修寺、隨心院)

2018-05-20 | 尾張文化の会

2018/05/17京都山科に皇室ゆかりの古刹を訪ねる。(泉涌寺、勧修寺、隨心院)
 『尾張文化の会』のメンバー34名と京都の泉涌寺、勧修寺、隨心院を訪ねた。(No399)
 行程は春日井IC→京都南IC→(昼食)→泉涌寺→勧修寺→隨心院→京都東IC→春日井ICとバスで名神高速道路を京都に向う初めて安八スマートIC(H18.3)の開通を目に残し京都へ入った。5月とは思えない暑さで境内を歩くにも汗ばむ日であった。帰路は恒例の一宮JCTで約4kmの渋滞であったが春日井市に順調に帰って来ました。
 今回は京都市内の皇室の菩提所として、御寺とも呼ばれる泉涌寺、皇室と藤原氏にゆかりの深い勧修寺、小野一族の小町ゆかりの随心院を訪ねた。
✿泉涌寺(せんにゅうじ)御寺(みてら)真言宗
 創建は、空海が天長年間(824-834)この地に法輪寺を創建したと伝えられている。斉衡2年(855)藤原緒嗣が神修上人を開山とし創建。藤原緒嗣が承和十年(843)に没し後、藤原緒嗣の遺志に基づき菩提寺として創建された
 その後、仙遊寺と改めた。その後荒廃していた寺を宋から帰朝した俊芿(しんじょう)律師が建保六年(1218)伽藍を造営した時、境内から泉が涌きでたので泉涌寺と改めた。
 貞応三年(1224)後堀河天皇により皇室の祈願所と定められ皇室との結びが強まった。皇室の陵墓に香をたき、花を供える香華院となり「御寺」と称された。
 本尊には現在、過去、未来を表す「三世仏」(阿弥陀、釈迦、弥勒の三体の如来像)が安置されている。
 
大門(重文)
 
 大門から「降り参道」の仏殿(重文) 

泉涌水屋形(せんにゅうすいやかた)(府文化財)
泉涌寺という名の由来となった泉を庇う屋形です。
・清少納言歌碑
泉湧水屋形の近くに清少納言歌碑がある。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも
 よに逢坂の関は許さじ   清少納言
百人一首・・・・寄るのを忘れたよ。
・楊貴妃観音堂
 楊貴妃観音像(重文)は湛海(たんかい)律師が安貞二年(1228)の南宋からもらい受けした木像です。

楊貴妃観音堂

✿勧修寺(かじゅうじ)真言宗
 昌泰三年(900)醍醐天皇が生母藤原胤子(いんし)の菩提を弔うため創建された。開山は法相宗の僧承俊で、本尊は千手観音。代々法親王が入寺する格式高い門跡寺院として栄えた。兵火で焼失し衰退したが、江戸時代に入って徳川家と皇室の授助により再興した。

山門

宸殿(しんでん)

本堂

書院
 
光圀燈籠(青々としたハイビャクシン) <勧修寺型燈籠>

老梅(伏した龍の形をした幹は「天下無双」)

観音堂
  
観音堂と氷室池

千本杉

氷室池のアオサギ

仏光院(勧修寺納経所)

✿隨心院(ずいしんいん)真言宗
 正暦二年(991)仁海(にんかい)僧正の開基し、牛皮山曼荼羅寺と号した。その後5世増俊のとき曼荼羅寺の塔頭の一つとして隨心院が建てられた。
 また本院は小野小町ゆかりの寺として知られ、春日井市の書家小野道風は小町の徒兄にあたる人です。

総門 

本堂 

薬医門
・小野小町の歌碑
「花のいろは うつりにけりな  いたづらに わが身世にふるながめせしまに」

歌碑

化粧井戸

文塚
  以上

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