坂祝町の城山展望台
2018/09/18 岐阜県加茂郡坂祝町の猿啄城跡を歩く。
JR坂祝駅舎 山の頂上に猿啄城跡の展望台が望める
2018/09/18(火)に街道を歩く仲間で「猿啄城跡」に誘われ、いつものパターンで出かけました。JR坂祝駅に9:05分に着き、町内を西に1.5Km歩き、山を登り始めたら急な坂道が多く、平坦な場所も少なく、九十九折の山道を登ること55分(パンフには30~40分)に頂上に着いた時には体全体は汗びっしょりのであった。
頂上の櫓(展望台)からは名古屋駅のビル群が遠く確認できた。看板によると恵那山、中央アルプス、御嶽山、白山などが望まれるようである。
帰りは坂が強く感じた、登り口で「杖俸」を仮らお陰で足諸が滑ることなく下山できた。
✿猿啄城跡(さるばみじょう)
岐阜県坂祝町指定史跡で勝山に存在した室町・戦国時代の城跡であり、標高約265mの山頂に展望台がある。
〇猿啄城の歴史
別名を猿飛城、根尾山城とも呼び、応永14年(1407)の頃、西村豊前守善政の城であったといわれ、享禄3年(1530)から田原左衛門の居城となり、天文16年(1547)には同族の多治見修理が謀叛により城を奪った。以降18年間在城したが、永禄8年(1565)丹羽長秀は織田信長に命じられて東美濃を攻め、その緒戦で先陣の河尻秀隆(鎮吉)(しげよし)らが落城した。このとき、信長は幸先よしと猿啄城の地名を勝山と改称し、以後は勝山城となった。功により河尻秀隆(鎮吉)は勝山城主となり、天正3年(1575)岩村城へ移り廃城となった。
(猿啄城史より)坂祝町役場発行のパンフレットより
迫間川沿いの城跡の石碑(バックの山の頂上が城跡) 城の説明板
城跡入口
河尻肥前大神碑と河古太丸大神
看板の河尻鎮吉は河尻肥前守、河尻公、河尻秀隆と同一人物と思う。
城に行く登山道① ② ③
途中の石碑(白河神社) 前の祠の刻印「河尻公」
中腹の磨崖佛
頂上直ぐ下に石碑(秋葉神社)
頂上の石碑(国常立大神・大巳貴大神・□□大神)
頂上の展望台と石碑(猿啄城跡)
木曽川の下流方面 坂祝町から美濃太田方面 R21号と木曽川
登山道入口の林道を50m奥に進むと御嶽大黒天がある
この後、坂祝駅に戻り12:01分の電車でJR鵜沼駅へ向かい下車して「鵜沼城跡」を犬山橋から周囲を見回して食事場所を探して犬山城前で、私は「鮎雑炊」を頂きました。
✿左は鵜沼城跡沿い名鉄電車の鉄橋
手前は木曽川に架かる犬山橋、奥は名鉄電車の鉄橋、その奥は鵜沼城跡
『鵜沼城跡』は後日2018/12/7に、伊木山城跡に登った帰りに対岸より撮影した。
✿犬山城前の針綱神社と稲荷神社
食事後、犬山城に登る予定でしたが、お腹も一杯になり階段を登る気力もなく1名を残して5名で城下を散策しながら名鉄犬山駅へと向かい帰宅に着いた。
<追伸>
2024年10月
頂上の猿啄城展望台より観た対岸のお寺が気になっていたため、今回は機会が有って探しに行ってみました。
場所は、木曽川左岸を上流無向かって約4Kmの場所に大泉寺が有る。そして対岸にある山の頂上に猿啄城展望台が観えた。
✿猿啄城展望台
猿啄城展望台
✿大泉寺(だいせんじ)補陀落山 臨済宗妙心寺派
本尊は聖観世音菩薩。
開山は無極慧徹禅師。
由緒は応永八年(1401)足利義満から寺領を譲られ無極慧徹によって曹洞宗の寺院として創建された。無極慧徹禅師は七堂伽藍を建立して禅道場を開いた。
石標
山門
由緒版
本堂
地蔵堂
以上