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稲敷市阿波にある「あんばさま」総本宮 大杉神社 にお参りしてきました。

2016年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

平成28年7月25日(月)

日本唯一夢むすび大明神として知る人ぞ知る

阿波の大杉様にお参りに行ってきました。

首都圏中央連絡道(圏央道)の稲敷東インターから4キロメートルほどです。

競馬で知られる美浦のトレセン(稲敷郡美浦村)が有名ですがここから割と近いと思います。

当日は神社まで自宅から50分ぐらいで行けました。

 

以下大杉神社の参拝説明書からの抜粋です。

〒300-0621 茨城県稲敷市阿波958番地
TEL.029-894-2613 FAX.029-894-3636
http://www.oosugi-jinja.or.jp

主祭神
◆ 倭大物主櫛甕玉大神
(やまとのおおものぬしくしみかたまのおおかみ)
配祀神
◆ 大己貴大神(おおなむちのおおかみ)
◆ 小彦名大神(すくなひこなのおおかみ)

 

あんばさまとは?

現在も多くの地域からの参拝者がございますが、厄除け・八方除け・星除けを中心として、夢むすび、交通安全などの祈願に訪れる方々が後を絶ちません。また末社、大国神社には金運をもとめて参拝される方々、勝馬神社には競馬関係者をはじめ、競馬ファンの方の参拝が多くございます。さらに相生神社は子授けにご利益があるとされ、子授棒を求めて来られる方がたくさんおられます。

『常陸風土記』に登場する「安婆嶋あんばさま」

大杉神社の鎮座する場所は現在の霞ヶ浦、常陸川、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川下流域、小貝川下流域を内包する常総内湾に西から東に向かって突き出すような地形のほぼ突端に位置していました。『常陸風土記』には安婆嶋として登場しますが、半島状地形にもかかわらず、半島先端に比べ、かなり西側でくびれた地形をしていたため遠映としては島状の様子を呈していたため、安婆嶋と呼称されたといわれております。

大杉神社の巨大な杉「安婆嶋あんばさま」

この一帯はかつて菟上之国という霞ヶ浦東岸域と東総域を治めていた小国の一部であったと伝えられております。菟上国は海上国とも表記されるように常総内湾の交易、産物を中心として成立した小国であったようですが、こうした影響からか常総内湾においてランドマークの役割をはたす、大杉神社の巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれ、常総内湾の人々の信仰の対象であり、人々の交通標識の役割を十二分に発揮していたと考えられます。後に内湾の西にあった茨城国に支配されるまでは菟上国のもっとも重要な神社であり、菟上国造の祀る神社のひとつでありました。その後北方の仲国から南下してきた一族が鹿嶋、香取の両神社を築き、東岸域を支配するとその交易権や、支配権は移譲されたものの、一般民衆の間では依然として海河守護の神様としての信仰は温存されつづけられました。

「ねがい天狗」「かない天狗」

神護景雲元年(767)当時都が置かれた大和国(現・奈良県)を旅立った勝道上人は、下野国二荒山(栃木県日光)をめざす途上にあり、大杉神社に着くとそこで病苦にあえぐ民衆を救うべく、巨杉に祈念すると三輪明神(奈良県三輪の大神神社)が飛び移り、病魔を退散せしめたところから、やがて大杉大明神と呼称されるところとなりました。この大杉神社を御守護申し上げるべく延暦二十四年(805年)には別当寺として安穏寺が開基され、以降明治になるまで大杉神社は安穏寺の管理するところとなりました。文治年間にはその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は烏天狗を御眷属としておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。現在ではいかなる願いも叶えて下さったと伝えられる海存の奇跡に由来して、大杉神社を日本で唯一の「夢むすび大明神」と称し、鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と呼ばれるようになりました。時代は下って、江戸時代初頭には当時江戸崎不動院(稲敷市江戸崎)にあった天海に雨をもたらす奇跡を与えた神社として知られ、以降天海は安穏寺の住職となり大杉大明神に仕えました。このため安穏寺および大杉神社は天海が住職を務める、上野寛永寺や日光輪王寺の直兼帯となり、明治になるまで輪王寺宮の兼帯するところとなりました。

海河守護の神様としての信仰

家康の江戸入府以降それまで東京湾に注いでいた利根川の河川改修により、銚子へと流路を替えた利根川は、水郷流域と江戸を結ぶ河川として流域は急激な発展を遂げ、海河の守護神としての大杉神社もまた急速な信仰域の拡大を遂げることとなりました。それまでは常総内湾域であった信仰域は利根川流域のほぼすべての河岸や流域にとどまらず、鬼怒川、小貝川をはじめ、これらに注ぐ多くの川の流域や、各河岸に通じる街道周辺にも拡大。さらに太平洋岸から日本海へと海民の移動と共に信仰が拡がり、盛時には北はカムチャッカ近くの千島列島から新潟にいたる日本海側のおもな河岸、漁港など。また千葉、東京を経て静岡いたる太平洋岸の地域、先述の河川や多摩川、養老川、小櫃川の流域など、かなり広範な地域に信仰がもたらされたことが知られています。

「あんば囃子・大杉囃子」

この信仰の流布にともない、「悪魔払い囃子」と称された芸能も各地に広まり、それぞれの地域で独自の展開をみせ現在も多くの地域で伝承されております。大杉神社の鎮座する稲敷市阿波では地名を採って「あんば囃子」と呼んでおりますが、多くの地域では「大杉囃子」「災禍囃子」などと呼称されております。元和三年(1617)に銚子の田中玄蕃が醤油の醸造の成功祈願の御礼として、十二座神楽とともに紀州より伝えられたのが初源とされております。十二座神楽は椿海の干拓成功とともに千葉県旭市を中心に広がりましたが明治末期に旭市で廃絶した際には再度当社より伝承し、昭和初期に一部の演目が絶えた際には大杉神社に逆伝承されました。

 

 大杉神社の様子です。

その昔、享保13年に焼失する以前の社殿群は、豪華絢爛なもので「あんば参れば日光見るに及ばず」と言われるほどであったと伝えられているそうです。

このことから、「茨城の日光東照宮」の異名があるそうです。

  入り口の灯篭群

 

 本社殿の右方向 御祈祷後のお札や厄除けお守り等を授かるところです。

 

本社殿の大杉殿正面です。

 

 麒麟門

 この門の扉が開かれることはないそうです。ここが江戸の鬼門守護社だからだそうで、この扉を開けると

江戸(東京)には多くの魔物が侵入するためだそうです。

 

 言われてみると確かに日光東照宮に似ているように感じますよね!

 

 

 

 

 

 

 厄除けの撫で桃と言うそうで、この石を撫でると厄が除けられると言われています。

3つありましたので、すべて撫でて厄除けをお願いしました。

 

 なかなか豪華絢爛な感じがしますね。創建当初のものはこれの何倍もすごかったと伝えられているそうです。

 

  縁結びにもご利益があるそうで、破風の下の飾り穴がハート形になっていました。

 

宝暦の大震災、富士山の大噴火、相次ぐ災難をよけるため江戸の鬼門に建てられた麒麟門。

麒麟は平和時にしか姿を現さないとされる霊獣です。

 

本社殿

 

 手水舎の龍

 神社入り口の門です

 

 御祈祷受付所付近

 

 駐車場方向から入ったところでくつろぐ猫ちゃんを見つけました。のんびり寝ています。

 

 ご神木の太郎杉は、寛政10年に焼失して、現在のご神木は樹齢千年の次郎杉と樹齢400年の三郎杉です。

 

 

 

  この「大杉神社」は、抜粋記事にもありますように、

「アンバ神」と称され、神霊が巨杉に宿ることから、「大杉神社」と称されるようになりました。

この「アンバ神」を守護する神様でかつては、房総半島北部域から茨城県東南部一帯を支配していた

「ウナカミの王」を祀る「日の神様」でありました。

 霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、小貝川下流域、鬼怒川下流域、牛久沼を包含して余りあるいわゆる

常総内海の守り神であり、「ウナカミの王」の最も重要視した神社であったそうです。

悪魔祓いの「アンバ様」と称され常総内海やその周辺で暮らす人々の信仰は絶えることなく、今も安穏を守護、多くの

庶民の祈祷を行う祈祷神社としての性格を担うこととなりました。

生活万般危難を消除するご利益があり、特に空亡徐(天中殺・大殺界除)の神様として多くの祈祷が行われているそうです。

今回初めて、大殺界の厄除けを知り、家内と孫が今年、大殺界にあたっておりましたので、お守りを迎えてきました。

 

  この大杉神社は、小生が生まれた鬼怒川下流域、実家のある地区の村の鎮守様がこの大杉神社の流れをくむ神社であり、

昔から、年に一度神社の祭礼の時に、阿波まで氏子の総代さんたちがお参りして、各家のお札を迎えてくる

習わし(お祭り)が現在まで続いています。

この地域の神社の祭礼を「大杉囃子」と言い、小生が子供のころ、今から50年以上も前の話ですが、

祭礼の日に各家の子供のうち一人が出て村内の各家を皆で回り厄除けをして回りました。

その際、各家々からお礼の駄菓子やお小遣いをもらって歩くのが子供たちの大杉囃子」でした。

そして祭りのフィナーレに、集まった小銭を人数で割って分けました。そのお小遣いを持って

全員で当時、近くに1軒だけあった食堂に行き中華そば(今のラーメン)を一杯食べて帰るのが楽しみでした。

当時は農家ばかりの所でしたので、食堂に行くなどというのは、年に1度大杉様の日だけでしたので、

とても楽しみでした。

当時の中華そばは、値段が1杯40円から50円ぐらいだったと記憶しています。大

杉様で頂くのは、一人当たり60円か70円ぐらいだったと思います。

 

 今は隔世の感がありますが、子供のころのとても楽しみな思い出になっています。

 

小生には、このような思い出があるものですから、大杉神社に行くと当時のことを昨日ように思い起こさせてくれます。

神社も信仰には地域性がありますので、話がピンとこない方もあるとは思います。

小生は過去何度かお参りに行っていますが

家内は行ったことがなく、ネットで見るととても立派なので行ってみたい。というので二人で行ってきた次第です。

その昔は、村の代表が歩いて阿波まで行き、お札を迎えてきたそうです。さぞや大変だったことでしょう。

 

今日も最後までご覧いただきありがとうございました。

    それではまたの機会に!

  

 


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