昨日の朝は全天曇り、特に東の地平には厚い雲がかかり、
日の出は拝めず茜色の空だけ。江戸川の土手上、武蔵野線の
鉄橋の南側にいつの頃からかヒガンバナが植えられた。
秋の彼岸の頃に咲くから、あるいはその毒性故に、食せば
「彼岸に」行くからヒガンバナ。曼殊沙華は仏教(法華経)
由来でサンスクリット語を漢字にしたものという。
さて、「大宮から上尾宿へ」4回目、最終回である。
暑さと空腹でフラフラと歩いて上尾駅前の交差点に着く。
上尾宿散策の前にまずは昼飯。駅ビルのサイゼリヤが候補
だったが、その隣の日高屋の生ビールが安いのでそちらに
変更。土曜の昼時で満席だが何とかカウンターに落ち着く。
昔、今日歩いている旧中山道が国道17号線だった頃に、
車で通ったことはあったが、駅舎から見る眺めは初めて。
右手角の丸広百貨店が上尾宿の脇本陣の一つの跡地。
旧中山道を戻り「氷川鋤神社」に入る。上尾宿総鎮守の
この神社は、本陣、脇本陣が近い上尾宿の中心であった。
中山道の街道筋の人々が「鍬踊り」をしながら、童子に警護
された御神体の入った櫃を宿場から宿場へと送り、最後にこの
上尾宿に落ち着いたのが、この神社の由来である。
この宿場の住人山崎武平治碩茂が、江戸の学僧である雲室
上人を招聘し「聚生義塾」を開き、朱子学者、林大学頭信敬
の勧めで、朱文公(朱子)と菅原道真を祀る意味の「二賢堂」
と命名された。
山崎碩茂はじめ上尾宿や近隣住民の労力や喜捨で建てられた
ことから、この塾は私塾ではない「郷学」と言われる。
本堂内には、林大学頭が書いた二賢堂の篇額が残ると言う。
下は境内の口碑にある扁額の写真
上尾宿の本陣は、この氷川鍬神社の斜め前の藤森病院の
あたりだった。広い藤森病院の駐車場の一番奥に本陣稲荷
だけが残る。
江戸時代から明治初期にかけての3回の大火と老朽化で
上尾宿の建物や記録がほとんど残っていないという。
次は、三軒あった脇本陣の一つ、井上家の鬼瓦があると
いう塀探しである。旧中山道を何度行ったり来たりしても
見つからないので、一本裏通りを歩いてみる。
雰囲気は良いのだがやはり見当たらない。諦めて表通り
へ戻る脇道からその塀が目に入る。表通り(旧中山道)に
出て空き地から入ると、間違いなく「井上」の表札である。
こんな大きな鬼瓦が載っていたのだから、さぞや大きな
建物だったのだろう。
この中山道ウォーク、マニアックな歴史遺物探しの頼り
は中山道博士、岸本豊氏の「中山道浪漫の旅(東西各編)」。
厚さが1.5センチあり、歩きながら見るにはチト不便なので、
毎回、必要分を切り離している。
今回、一頁不足して上尾宿の名物である「鍾馗様」を
見逃してしまった。
曇りで涼しいと言う今日、再び上尾に行って「鍾馗様」
を探して来よう。もちろん次の桶川宿にも足を伸ばす。