6月に行われた党首討論で菅首相が五輪の意義を問われ、
前回の「東洋の魔女」の思い出を長々と喋ったことは、実に
象徴的なことだった。
都市としての東京を研究する社会学者の吉見東大教授が、
「国家の思惑」としての東京五輪を分析する。
(8/3 朝日新聞のインタビュー記事)
今回の五輪開催が、前回の東京五輪の「神話」から一歩も
抜け出せず、何故五輪をするのかわからないまま突っ走り、
始まる前から「敗戦処理」となってしまった。
復興五輪と言いながら「東京」開催になった三つの理由の
一つが「ノスタルジー」。何の未来も示せず、未来を向いて
いた1960年代を懐かしむだけの菅君の姿が現れてしまった。
二つ目は、悲願とも言える東京臨海副都心の開発が狙いで
あった。鈴木知事の「世界都市東京」構想が青島知事の反対
で止まり、取り残された不良債権「湾岸」を解消するいい機会
と捉えたのである。
三つ目は国家の思惑。五輪のようなビッグイベントで開発
をすすめる「お祭りドクトリン」。一般的にテロや災害を機に
独善的な開発進める「ショック・ドクトリン」の変形。
独裁政権ではない韓国、日本が五輪と言う「お祭り」と
結びつけることで可能になる都市開発である。独裁的である
が北京五輪も含めれば「東アジア型五輪」といえる。
一都三県に日本の資本の半分近くが、情報や知的活動では
その大半が集中する。多彩な文化で生き生きとした地方が再生
されては困る「守旧派」により、東北の復興という名のもとに、
現代の日本の様々な不具合の元である東京一極集中が「更に」
推し進められたのである。
コロナ感染爆発の中で、言い換えれば国民の感染を犠牲に
強行された「2020+1」東京五輪にはこんな目的があった。
江戸川の日の出の後
土手下の橋台の鉄筋工事が始まったが、
12日から盆休み