ユーロ危機、難民問題、最近はコロナ対策などで厄介な
時代、16年間も首相としてドイツを率いたメルケル首相が
引退した。
ロックダウンなど強硬な感染対策の必要性を理路整然と、
かつ丁寧に自信を持って演説する姿は、自分の言葉を持たず、
小出し対策の原稿を読むだけ(それもしどろもどろに)の
某国の首相とは大違いだった。
そのメルケル首相が一度だけ「涙」したことがあった。
2011年11月、フランスのカンヌで開催されたG20の夕食会の
席上、ギリシャの財政破綻によるユーロ危機の対策の話題に
なった時だった。
国際通貨基金の特別貸出し(SDR)を支持したオバマ米
大統領が、ドイツ連邦銀行に圧力をかけるようメルケル首相
に迫った。
メルケルは涙を浮かべながら反論した。
「私にはできない。聞いて下さい。連保銀行の独立性を求め、
(政府による圧力)を憲法で禁じさせたのは、戦勝国である
あなた方だ。それを守るのは首相である私の義務です。」
メルケルの涙にショックを受けたオバマは「やり過ぎた
ことに気が付いた」と語ったと言う。結局SDR案は採用
されず、別の案などによってユーロ危機は鎮静化した。
この話は「オフレコ」が徹底され、メルケルウォッチャー
のジャーナリストの近著などで初めて知られることになった
と昨日の「日曜に想う」で朝日新聞の論説委員、郷富佐子氏
が紹介している。
同氏は記者の駆け出し時代、取材先で「絶対に泣くな」と
上司から言われた。「だから女は」、「涙を利用して」など
と言われるからという理由だった。「男なら泣いていいのか」
と詰め寄ると上司は「男泣きはもっと悪い」。
オバマを黙らせた「メルケルの涙」は実に効果的だった。
秋先取りの信州別所への旅、2日目は別所の隣り青木村へ。
道の駅「あおき」に置かれたパンブレットで、何と青木村は
東急電鉄の創始者「後藤慶太」の出身地だった。
上田中学(現上田高校)へ毎日片道三里(12キロ)を徒歩
で通学、その後松本中学、東京高等師範(現筑波大)を出て
一旦は教師になるが、東大法科に入り直し農商務省や鉄道院
の官僚となった後に退職して鉄道の世界に入る。
渋沢栄一の田園都市建設に協力し、目黒から田園調布への
鉄道を開設。その後の東京横浜電鉄などの東急は、一時京急、
小田急なども傘下に収める「大東急」となり、総帥後藤慶太
が「鉄道王」と呼ばれたことはご存じの通り。
夫神(オガミ)山と共に青木村のシンボル、子檀嶺(コマユミ)山
リフレッシュセンターの渓流釣り場
同じく、老夫婦で童心に帰ったローラー滑り台