本郷追分から1キロほど、向ヶ丘一丁目、二丁目あたりは街道の
両側にお寺さんが多い。街道から300メートルほど奥まったところに
ツツジで有名な根津神社があるがほとんどは寺である。
そんな「卍」マークの中で目立つ「∴」は高島秋帆(シュウハン)の墓。
秋帆は江戸末期の砲術家で、幕府命で行った西洋式調練の中で大砲を
試射した。その徳丸ヶ原が今の「高島平」(板橋区)である。
砲術は佐久間象山などにも影響を与えたが、諫言により一時岡部藩
(深谷市)預かりとなって幽閉された。弟子たちの嘆願やペリー来航
で赦免となり講武所奉行などを務めた。
子供時代の渋沢栄一が秋帆の幽閉先を訪れて言葉を交わしたという
大河ドラマ「青天を衝け」のエピソードは史実かどうかは不明。
ちょっと脱線してしまったが、向ヶ丘高校の裏手にある秋帆の墓に
最初の寄り道。御成街道の一本西側の国道17号(中山道)に一旦出た
方が間違いないが、適当に路地を進むと勘よく「史跡高島秋帆墓」の
石柱を見つける。
本堂が見えない無量寺の細長い墓地、墓所案内に助けられ一番奥の
秋帆の墓に着く。民家の庭先のように見える。塔婆から見ると供養は
されているようだ。墓石ではなく地面自体がわずかに傾く。
御成街道(本郷通り)に戻り、次に探すのは「駒込土物店跡」。
ちょうど小さな交番があり、年配のお巡りさんが暇そうに?している
ので「土物なんちゃらを探している」と訊いてみる。
しばし考えたお巡りさん、ふと、そこじゃないかいと10メートル先の
お寺さんを指し、先に立って歩き出す。当たり!である。門脇に史跡の
石柱と口碑が立つ。腰が軽い、信州弁でズクがあるお巡りさんである。
土物店(ツチモノダナ)とは土の付いた野菜を扱うところ。江戸へ野菜
を売りに行く駒込近郊の農民がここで休んでいると、住民が新鮮な
野菜を求めて集まったという。駒込はナスの産地だった。
やがて「駒込青物市場」となり昭和に入って巣鴨の「豊島青果市場」
となって集約された。
次も街道沿いの目赤不動尊(南谷寺)。ここも店先に立つお年寄り
に訊くと10メートル先を指す。江戸五色不動(目赤、目青、目白、目黒、
目黄)の一つ。その昔は赤目不動と呼ばれていたらしい。
境内に入ってすぐの右手、目赤不動堂の前に紅梅が咲く。
ここまで本郷追分をスタートしてまだ1キロ。既に1時間近く
経つから街道沿いは時速1キロの超スローペース。限られた3時間
でどこまで行けるのやら・・・。続きは次回。