じんべえ時悠帖Ⅱ

大和が沈んだ日

 七十七年前の今日、四月七日は戦艦「大和」が鹿児島沖で

撃沈され海のもずくとなった日。今も海底に眠る。連合軍に

制空権を握られ、建造中から「時代遅れ」の巨大戦艦と言わ

れていた。

 既に硫黄島が壊滅し、やはり壊滅寸前の沖縄を救えとの

天命による「海上特攻」で出撃したが、予想通り外洋に出た

瞬間にグラマンの餌食となった。

 だいぶ前になるが呉の「大和ミュージアム」を見学した。

大和は当時の国費の1/3もの巨費を投じて呉の造船所で造ら

れたが、当時の日本の「頭脳」も総動員され、後の「IE

(インダストリアル・エンジニアリング)」とも言える高度

な製造手法に感嘆したことを思い出す。

 

 昨日、小山からの日光街道を歩いたが、予報通りとは言え、

余りの暑さ(暖かさ)に参った。

 今日はまずイントロとして、小山駅から思川方向に進んだ

駅前通りの桜並木を。だいぶ赤いので帰ってから調べたら

「オモイガワサクラ」といい、ここ小山で育ったジュウガツ

サクラの変種という。

畳屋さんの前

国道4号に出たところ

その思川方向の小山御殿跡

 次回はここから。


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コメント一覧

jinbei1947
えめらるど様
有賀幸作艦長、豪放磊落だったといいますね。
そして「ヘビースモーカー」だったとも・・・。
jinbei1947
ワイコマ様
海底の調査で、弾薬庫に被弾して大爆発、蒸気爆発もあったといいますから
壮絶な最後ですね。
世界最大の46吋砲も結局撃てず仕舞い、戦争の功罪とは別にその「雄姿」を
見たかったです。
eme
戦艦大和の有賀幸作館長は辰野の方で、お墓も有賀峠の入口にあります。海軍兵学校45期。78期だった夫に頼まれて数年前に墓参りに行きました。お孫さんが建てたという小さな墓石には[院殿]の戒名がありましたが、40年ほど後に亡くなった夫人の戒名は[院号]で、時の遺族の経済状態が偲ばれました。供えられた煙草の山が雨に濡れて散らばっていましたので、近くで見かけた知り合いの石屋に供え物の代わりに千円を渡して、墓の掃除を頼んで帰りました。
ykoma1949
戦艦大和は今でも話題の・・私の息子もプラモデルを
組み立てていました。まさに戦争の遺産で今でも語り
継がれるだけあって、その姿は 美しい船影ですね
形のあるものは、いずれその形をなくしていくのですが
その消え方も、大和は印象的でしたね~
多くの犠牲者とともに私の心には写真が残っている
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