反発する国民の虐殺が続くミャンマー軍のクーデター。
軍部独裁に夢の欠片もないことは自明の理、歴史が証明
している。軍内部からの崩壊に期待するしかないのか。
拙政が続く民主国家日本。これも傲慢自民党の内部から
の崩壊に期待するしかないのか。いや、この国の国民には
出来ること、すべきことはある。
水戸街道ウォーク。牛久駅前から国道6号に出る。ここ
から6キロ、ひたち野うしく駅の先までひたすらこの6号
を歩く。
ほどなく左手奥に見える大きな茂は薬師寺である。この
あたりの地名は田宮(タグウ)、田宮一里塚があったところ
だが標柱はなし。サイゼリヤの撤退と共に撤去された?
今日は長道中、薬師寺に入るか迷うが金龍寺を上州から
移した新田義貞の子孫、由良国繁が再興した七観音八薬師
の一つとのこと。杉並木の参道を進む。
この寺は大きな石造が多い。ソメイヨシノと相まって
絵になる寺である。
国道に戻ると間もなく旧水戸街道は、約500メートルだけ
6号を外れる。
途端に手入れの行き届いた庭を持つ大きな屋敷が続く。
これはいわゆる「一反屋敷」。正方形の田んぼ一反分、
三百坪の敷地を持つ大きな農家の屋敷である。
再び国道6号に合流し、(つくば)学園西入口の大きな
交叉点を過ぎると、少し下った先の高架道は圏央道。
「下りの先に川あり」の通り、小野川が高架脇を流れる。
霞ケ浦に流れ込む小野川沿いは、江戸時代にはアカマツ林
が広がり薪材料として舟で江戸に送られたという。
今はその面影は全く無し。ただし、圏央道緑化工事の
看板が立っていたことは書いておこう。
下ると上るのが世の常、長い坂を上り切るとご褒美に
道端に菖蒲?が咲く。高いマンションは、多分ひたち野
うしく駅へ交差点だろう。
「東京から55Km」の標識の先、マンションの交差点の
一つ先が駅への交差点だが、交差する「学園西大通り」は
6号の下を走る立体交差。
「ひたち野うしく」駅は、1985年(昭和50年)のつくば
科学万博の時の臨時駅「万博中央駅」の跡である。万博の
13年後に今の名前の駅で復活した。
ほゞ200メートルおきに続く、駅西入口、北大通り入口
などの交差点はだだっ広い交差点である。
その一つの角のコンビニで休憩しながら眺めると、む、
電柱レスである。余計広々と感じるはずだ。
間もなく国道6号の両側に小高い塚が現れる。一里塚
であるが、両側の塚跡が残るのは中仙道などを含めても
とても珍しい。
その上、左手は土浦市の入口、歩いている右手は牛久市
最後というところ。よって左手は「荒川沖一里塚」、右手
は「中根一里塚」とそれぞれ違う名で呼ばれる。
一つ(一組)の一里塚の住所が違い、名も違う。奇妙な
一里塚である。
立ち止まって口碑を読んでいると、頭上にヘリの音。
やけに大きな音だと思って見上げるとやはり双発ヘリ。
自衛隊色である。
通称「チヌーク」と呼ばれるアメリカ製のCH-47型は
「空飛ぶ大型トラック」と呼ばれる。
アメリカは、攻撃ヘリの「アパッチ」などヘリの名に
先住民族インディアンの部族名をつける。このあたりで
復活した電線が入ってしまったが何とかカメラに収めた。
前回の予定だった牛久駅~ひたち野うしく駅間を消化
して先に進む。残りは未だ10キロ以上、続きは次回。