茅が岳と金が岳は、冬至から立春までの、太陽の運行を観測するのには、二つと無いと思える、それにぴったりの山稜の姿をしている。
立冬はピークからの日の出で、その後は太陽が弱まるのを見せるように山稜を下って行き、冬至の位置に氷付き止まる。
冬至の位置には瘤があり、それ以上太陽の出る位置が、落ちて行かない様に止めている。
暫くそこに止まると、その数日後には山稜を登り始める。始めは少しずつ、次第に登る歩幅は大きくなり、更に大きくなり、金が岳のピークに至る、そこが立春である。
立春で山のピークから出た太陽は、回復した喜びのピークである。
このように冬至からは、日の出の位置を山を登る形で、太陽の回復を見事に見せている。
これは単なる太陽運行観測の天文台施設というより、山稜を下ることで太陽の弱まりを見せ、冬至の位置では太陽を瘤で留め、冬至からは山を登る形で、太陽の回復を見せる舞台となっていた。このようにそのまま太陽の劇場であり、立冬から立春までを観測して、冬至を確定するための天文台の装置機能であった。
それは縄文人の念いが見える芸術作品と言える。
そして縄文人の祭の舞台装置になっていた。
縄文人の祭への思いの結晶 暦開発の結晶
追加しました 2022.03.02 縄文時代にどのように日の出観測をしていたのか知らなかったので、山から出る日の出を直接観測していました。しかしその方法は危険で、多くの人を集めて観測会を為ることは出来ないと思ったけれど、どうしたら良いのか思いつきませんでした。2022.02.04日の立春日に、配石に立ったところ、ノーモンで影を観測すれば危険無く観測会が出来ることが分りました。縄文時代にはそのようにして暦の起点を縄文人総出で観測していたものとの推察に至りました。配石の形や石の配置もどうしてこのようになっているのかも分らなかったのですが、これにより疑問点が解消しました。チャイナの表が8尺とされていますが、それも何故そのようにしていたのか、この遺跡から見て納得出来そうです。このようなことを確認するには、遺跡の東側が公園整備として、モニュメントや樹木が囲って居るので、配石に日光が当たりません。金生遺跡の東側を日の出観測可能にする為の再整備が必要となります。