示ニ云ク、先聖必ズしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思へば幾ばくならず、在世を考フるに人皆俊なるにあらず。善人もあり、悪人もあり。比丘衆の中に不可思議の悪行するものあり、最下品の器量もあり。然れども、卑下して道心をおこさず、非器なりといツて学道せざるなし。
『正法眼蔵随聞記』巻1-2
曹洞宗の高祖であり、福井県にある大本山永平寺を開かれました、道元禅師の言葉です。内容は、「私などはその能力がありませんから」などと、自ら卑下して、修行のやる気を起こさない者を諫めるものです。
「利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」という教えもありますが、誰でも坐禅をすれば、必ず良い人になります。この良さとは、見た目や振る舞いにはなかなか現れませんが、少しずつ少しずつ、その人を良い方向に良い方向にと変えていってくれるのです。
現代の若者というのは、他人に対する評価が厳しいという意見があります。そして、その批評眼を自らに向けてしまい、厳しく判断して自信を失っているという見方もあるそうです。
逆に、他人の良さを見る目を養えば、自分にもどのような能力があるのかが見えてくるように思います。そして、せっかく他の人と一緒に生きていくのであれば、悪いところではなくて、良いところを見てみたいものだと思います。
『正法眼蔵随聞記』巻1-2
曹洞宗の高祖であり、福井県にある大本山永平寺を開かれました、道元禅師の言葉です。内容は、「私などはその能力がありませんから」などと、自ら卑下して、修行のやる気を起こさない者を諫めるものです。
「利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」という教えもありますが、誰でも坐禅をすれば、必ず良い人になります。この良さとは、見た目や振る舞いにはなかなか現れませんが、少しずつ少しずつ、その人を良い方向に良い方向にと変えていってくれるのです。
現代の若者というのは、他人に対する評価が厳しいという意見があります。そして、その批評眼を自らに向けてしまい、厳しく判断して自信を失っているという見方もあるそうです。
逆に、他人の良さを見る目を養えば、自分にもどのような能力があるのかが見えてくるように思います。そして、せっかく他の人と一緒に生きていくのであれば、悪いところではなくて、良いところを見てみたいものだと思います。